僕は幸せにならない

佐薙概念

第1話

 幽霊になった僕は、明日遠くの君を見に行くんだ

 その後はどうしよう きっと君には言えない

『雲と幽霊』 ヨルシカ



 1


 車に轢かれた。まず初めに太腿に鈍い感覚があって、次いで激痛と走馬灯が頭に流れ込んできた。

 痛みで必死のはずなのに過去を思い出すなんてお気楽な脳だな、と思っていたけれど、流れてくる過去が恐ろしく空虚だったために、死ぬ間際の一瞬で悲しくなってしまった。臨終に及んでまで人生を悲観するなんてどうかしている。自分の厭世主義者ぶりにほとほと嫌気がさした。

 けれど、死ぬことが惜しいと思えるほどの人生でなかったこともまた事実だ。むしろ最近は死ぬことばかり考えていた。考え方次第では好都合なのかもしれない。遠のく意識を眺めながら、濁流の如き走馬灯に身を委ねた。


 僕には奈月という幼馴染がいた。同年代の女の子よりは肌が少しだけ焼けており、弾むようなショートカットが似合う女の子だった。

 互いの家が同級生の中で一番近かったこともあり、親同士も仲が良かった。記憶が覚束ないような年齢のうちから、僕らは一緒にいることが当たり前だった。幼稚園生ながら、僕はずっと奈月と一緒にいるのだろうと漠然と思っていた。

 その認識が初めに崩れたのは、小学校にあがってしばらく経った頃だった。それまでは意識していなかったが、どうやら奈月は僕が思う以上に魅力的な人間らしかった。クラス長に任命されてからはリーダーシップを発揮して統率をとり、担任からの信頼も篤かった。一方の僕は、勉強も運動も人並みで、決して誰かに慕われるような成績ではなかった。


 家が近いので帰り道は必然的に奈月と二人になるのだが、その道中で僕は一度だけ愚痴をこぼしたことがあった。空がいつも以上に青い、7月の初めだったと思う。大きめの制服に身を包む僕らは、8センチほどの距離を保って歩いていた。

 当時四年生だった僕は、同じクラスのとある男子から嫌がらせを受けていた。奈月と同じく常にクラスの中心にいるようなヤツで、大柄で喧嘩が強かった。奈月がいなければきっと彼の独裁政権になっていただろう。そうならなかったのは、クラスを牛耳るその彼は奈月に好意を寄せていたらしかったからだ。まさに奈月がストッパーとなって彼の暴走を止めていた。クラスの秩序はそれで保たれていたけれど、彼はその有り余る支配欲をクラスではなく僕に向けた。僕が一番近くにいることで、彼は決して奈月に近づけない。思い通りにならなくて機嫌を損ねたのか、ある日を境に僕への嫌がらせが始まった。

 それは教科書がなくなったり、内履きにガムがついていたりするような陰湿なタイプで、体に痣が出来たりする実害は全くなかったけれど、誰にも気づかれないという点で殴られるより辛かった。なにより辛かったのは、奈月に感づかれないようにふるまわなければいけないことだった。

 奈月に余計な心配はかけたくなかったし、格好悪いところは見せたくなかった。だからずっと黙っていた。


 けれどその日、僕はついに耐えきれなくなった。隣を歩く奈月をちらりと見ると、急に鼻の奥がツンとして、立っていられなくなってしまったのだ。

 どういう回路が作用してそうなったのかは未だ謎なのだけれど、ともかく、道の真ん中で、僕は泣き出してしまったのだ。なるべく声を押し殺し、静かに泣いた。あわよくば、気づかないでくれと願った。

 夕焼けの燃える街路には人は少なく、僕を見る通行人も3秒で興味を失っていった。奈月だけが、何も言わずに僕の目を見ていた。


「ゆうくん、どうしたの? 大丈夫?」

 何も知らない奈月を目の前にすると余計に悲しくなった。最近は言うこと為すこと、すべて嘘ばっかりだ。

「大丈夫だよ。ちょっと悲しくなっただけ」

 一瞬嫌がらせの件を口にしそうになった。口から出かけた寸前で飲み込み、丁寧に咀嚼するともう出てこなかった。

「どうして泣いてるの? 私のせい?」

「まさか。奈月は、何にも悪くない」

「そっか」

 右手に温もりを感じた。奈月の両手で包み込まれた掌を眺めながら、僕は呼吸を整えた。奈月はうっすらと笑って、何かを悟ったような顔で言った。


「私が、ゆうくんのヒーローになるよ」


 僕が欲しかったのは、まさにこの言葉だった。これ以外は何もいらなかった。然るべき状況で、然るべきタイミングで、然るべき言葉を奈月はかけてくれたのだ。

 喜怒哀楽のアマルガムみたいな感情を隠すように、目を逸らして僕は尋ねた。

「奈月は女だから、ヒロインじゃないの」 

「違うよ。私はゆうくんのヒーロー。悲しいことや辛いことがあった時、いつでも駆けつけて助けられるような、そんな存在。だから、いくらダメになったっていいんだよ。最後は私が助けてあげる」

 思えば、この言葉が全ての元凶だった。

 事実、この日以来嫌がらせはまったくなくなった。裏で動いている人物がいるであろうことは容易に想像できた。けれど、それを奈月に問いただすことは結局なかった。全部わかっていた。

 他人に話せば笑われるような話だが、こんな馬鹿みたいな約束を僕はずっと覚えていた。小学校を卒業して奈月が隣県に引っ越してからも、中学、高校と経ても、ずっと覚えていた。自分好みの女の子に好意を示されてもはっきりと断った。

 いつかヒーローが助けに来てくれるその日を希いながら、僕は積極的にダメになろうとした。

 しっかりとした大人になんかなってしまえば、ヒーローはきっと助けに来ない。いつでも彼女が助けに来られるような人間になりたかった。

 まったく馬鹿げた話だと思う。けれど、僕にはそうするしかなかった。

 数年後、僕は絵に描いたような不登校児になっていた。高校に行かなくなって数か月、堕落しきった生活は徹底されていた。

 今日みたいな暑い日に、気まぐれで散歩に出たのがいけなかったのだろう。久々に出た家の外はなんだか落ち着かなくて、フラフラと歩いているとトラックにはねられた。本当に呆気ない終わりだった。

 ヒーローは助けに来なかった。


 ——向こうは今どうしているのだろうか。

 こんな風に、時折優秀だった幼馴染のことを思い出した。それも今日で終わりだ。

 一度狂った歯車はもう二度と戻ることはなく、以降の全ての歯車をも狂わせていく。だが、こう考えることもできる。僕にとっての歯車とは、奈月自身だったのではないかと。

 奈月と僕は別々の中学に進学し、それ以来は一度も会わなかった。奈月は私立の中学に入るために隣の県に引っ越したので物理的に会えなくなっただけでなく、ヒーローの登場を待ち望む僕は、自分から会いに行こうなんて微塵も思わなかった。

 だから、僕が落ちぶれたのは、奈月のせいではないか。奈月がいないからではないか。そんなことを考えずにはいられなかった。奈月がいて欲しかったという後悔は、奈月がいないせいだという強迫観念へと変貌する。

 本当に大切なものは失ってから気付くと言うけれど、僕の場合、もともと手にしていたかどうかも怪しかった。


 だらだらと長い割に空っぽな走馬灯も、もう終わりらしかった。僕の人生はたった一人の女の子の記憶しかない。そのペラペラさが嬉しくもあり、虚しくもあった。

 深淵のような意識の底に、僕はゆっくりと落ちていった。

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