事件簿には白椿を添えて

蛇ばら

夏のはじまり

 夏の盛りというおぞましい暑さのなか、北棟の一室だけは氷点下だった。


おのれに情状酌量の余地があると思うのなら、言い訳を聞いてやろう」


 目の前にさらけだされたミニスカートからのびる白磁はくじ太腿ふとももがここまで色気のないものに見えるのは、健全な男子大学生としては致命的な感性ではないだろうか。視線を上げればとんでもない桃源郷が見えるとわかっていながら、脳で鳴らされる警鐘がその行動を許さない。

 目の前に立つこの女の恐ろしさといったら、高名な皿数えの霊をも軽々と上回るものである。


「……すみませんでした」


 ぴくりとつりあがる眉に肩をすくめる。すでに両足の痺れは無我の境地に達している。


「謝罪するべきは私にではない。粕谷かすや、お前の大切な大切な幼馴染みにではないのか」

「はい。本当に申し訳ありませんでした。好奇心にばかり突き動かされたこのたびのことは大変あさはかな行為だったと自覚しております」

「お前たちの猫にも勝る好奇心の強さといったら右に出るものはないと私は知っている。そして虫よりも小さな脳みそによってその後悔と反省が三秒で失われることもな」

「いつにもまして厳しい!」

「青春時代、ひと夏の思い出作りに仲間たちと肝試し。そういった馬鹿者のひとりになることも大学生である以上必然だと、その点について私は寛容に構えているつもりだ。それでも、それでもだ。かわいい私の親友であり、粕谷かすやかなめ、お前の大切な大切な幼馴染みである羽衣うい次未つぐみが普段なら熟睡している深夜二時に泣きながら電話をかけてきたなら私の堪忍袋の太いも切れるというもの」

「たいして太くもないような気がするけど」

「今からお前たちの大動脈をぶっちぎってやってもいいんだぞ」

「ごめんなさい続けてください」

「私のことはこの際どうでも良い。さいわい我が二歳の娘は電話のコール音でも夜泣きという言葉の存在を疑うほど快眠スヤリティだ。深夜二時にかわいい娘とあの阿呆を残して家を出ることも、だいぶ疲れてさあ寝ようかと支度を整えていたときだったということも、なんなら翌日この朝早くからお前たちの説教をする羽目になったということも、私は寛大だからすべてを水に流してやろう」

「めちゃくちゃ根に持ってるじゃねーか」

「隣の次未の目をよく見てみろ、私の怒りなんて小指の爪だぞ。さっさと床に頭をこすり付けて許しを請うことだな」


 ひんやりとした冷房の風が首をかすめる。

 腹の底に氷を抱えたような冷たさは、両腕を組んで仁王立ちする菓子野かしの透色といろの隣から吹きすさんでいる。

 パイプ椅子に浅く腰掛けた黒いワンピースは一見眠っているのかと思うほどゆっくりと呼吸をしていた。


「えーっと……次未……さん……?」


 なんとなく敬称をつけてしまった。

 見上げた先のひざはやはり黒い布で隠れている。長い裾の下、パンプスの足先は微動だにしない。

 さらに視線を上げる。

 かわいそうに、自慢の長い黒髪がつやを失ってしまっている。青白い首の上に小さな顔がちょこんと乗っかっていて、やはり黒い瞳がじっと俺を見ている。


「え? なんだこのかわいい女の子。かわいいな。結婚したい」

「はよ結婚しろ」


 思ったことがつい口に出てしまった。空気を読めない口である。

 そこに間髪いれず応答する隣人の口もさすがの瞬発力である。拍手。


「ば、ばかなことをいわないで、ばかっ」


 とたんに真っ赤になるところも大変かわいい。

 耳まで茹でダコなんて奇跡の所業だ。こんなにかわいい存在が世界の美人百選に選ばれないなんて世の中は間違っている。

 部屋の中の空気が適温になったところで、ひざの上にそろえられた細い十本の指が、やはりかわいらしい効果音の幻聴を伴って握られる。

 たとえるなら、きゅっ、である。萌える。


「要も、君平きみひらも。私は、今回の件は本当に怒っている」

「はい」

駆馬かけまはまだ高校生で、二人もやっと二十歳になったばかりなのに、大人も連れないで危ないことをして」

「はい」

「夜中に高校生を連れてまわること自体、法的に問題があることもよくわかっているはず」

「はい」

「……危ないことになったのに、どうして最後まで連絡をくれなかったの。私は本当に怒っている」


 次未の視線が下に落ちた。

 まるい頭に小動物の耳が生えて、しょんぼりとたれおちる幻覚を見る。

 かわいい。

 違う、だめだ、こういうときはちゃんとシリアスにしなくてはいけない。

 俺は空気の読める男である。


「いや、あのとき羽衣呼んでたらもっとやばい事態になってたから、俺と駆馬でそれはだめだろって話しになったんだ。粕谷は悪くない」


 君平が手を振って助け舟を出してくれた。持つべきものは悪友。

 ゆえに、威力を増した猛吹雪がその悪友へと向くのは必然だった。


「そうなる前になぜ止めなかったのか理由があるのなら聞かせてみろ」

「いつもの肝試しのつもりデシタ。危ないことをするつもりもありませんデシタ。懐中電灯でぐるーっと見て回るだけのつもりでデシタ」


 とたんに硬直する語尾である。

 その犠牲、無駄にはしない。


「山の中とはいえ、車で十分くらいのところだったから、つい」

「山の天気は変わりやすいと聞いたことはなかったか?」

「はいありました」

「次未から山中の心霊スポットは夜に行ってはいけないと口酸っぱく言われていたことも、その虫以下の脳みそから抜け落ちていたというのか?」

「山の中のみならず心霊スポットに肝試し名目で行ってはいけないと百万回聞きました」

「百万一回目は物理的に刻み込まないと学習しないのかこの××××自主規制野郎どもが」


 高いヒールが良い音をたてている。

 点の圧力が勢いのままに太腿に刺されば、さすがに泣くほど痛い。あれは一週間引きずるあざを作るのだ。

 すでに身をもって体験済みであるのはこの際わきに置いておこう。

 攻撃の意志を見せはじめた菓子野をさすがにまずいと思ったのか、次未がたしなめてくれる。

 心優しいそういうところめっちゃ好きである。


「とにかく、もう二度としないでほしい……と言っても、あんまりきかないのもわかってるけど。せめてけがのないように、危ないこともないように、ちゃんと準備と連絡をして」

「はい、わかりました」


 深々と下げた頭を床にこすり付ける。

 板張りなのでそこそこ痛い。隣の君平も頭をごりごりさせている。

 ついでというように踏みつけようとしたのであろう菓子野をとめる声が聞こえる。


「ちっ……優しい次未によくよく感謝することだ……私は、今日は講義が終わったら帰らなければならない。家のことがたまっているからな。次未はどうする?」

「今はオフシーズンだから、三限が終わったらこっちに来ると思う」

「わかった。聞いたな、粕谷。かわいい幼馴染みが心配なら三限終わり次第即戻ってこい」

「了解。三限は同じ講義だし一時たりとも離れません」

「それはそれで変態だな」

「大脳で生きてる菓子野に言われたくないですぅ」

「私は相手がひとりだから良いんだ」

「俺に二人目がいる前提でいうのやめろ!?」


 一限終了のチャイムが鳴る。

 君平がひいひいと奇声を上げながら固まった関節を伸ばしている。

 次未のワンピースの長い裾からパンプスの先がちょこんと顔を出すので、理性よ働き給えと呪文を唱え続ける羽目になる。

 ロングスカートというのか、遮光カーテンのような重々しい布が、次未の動きに合わせてゆったりと揺れる。実に良い。どこがとは一概に言えないが末広がりなシルエットのなかにほっそりとした足のラインが少しだけ浮くところとかたまに跳ね上がる裾の下から見える白い足首とか座り込むときに布がひざの裏に巻き込まれて太腿のかたちがはっきり出るのが恥ずかしくてわざとあまった端をひざの上に上げるところとかそういうひとつひとつが宝玉である。

 おっと、思わず鼻の下が伸びていた。

 そして君平にドン引きの顔で一歩引き下がられた。


「ド変態」

「君平に言われてもうれしくねえ。もっと次未みたいに言って」

本当に気持ち悪いガチキメェな」

「そのトーンは傷つくわ」


 君平のほうがとんでもないことを俺は知っているので、口ではそう言いながらそんなに傷つくことはない。周りからは五十歩百歩だのどんぐりの背比べだの言われているがそれでも君平はやばいのである。

 恋人のイヤリングとペンダントに盗聴器と発信機を仕込むなんてこと、俺はしない。

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