三 -1-

「うわ、怖っわ」

 昨日あったことを一通り話し終えると、間髪入れずに先輩が声を漏らす。なんだかその素直な感想に救われるような気持ちがする。

 あの後、私は今まで出したことがないような大音量で絶叫した。部屋に入ってきたお母さんがクローゼットの中を確認したけど、中には誰もいなかった。

 当然と言えば当然だけど、確かに隙間の向こうに人の目を見た私からすると、不可解でしかない。

 まだしも変質者が潜んでいた方がマシだったかもしれない。それも怖いけど。

 お母さんにはとても心配されて、今日学校休むかと聞かれたけど。私は七瀬くんに会う必要性を感じていた。

 登校した直後に約束を取り付け、お昼休みに彼を学校の裏手に呼び出した。こんな話、人前でできない。

 ゴミを集めておく小屋の横に転がっていたブロックの上に腰掛けて、昨日の話を始めると、何故か先輩も合流して、冒頭のあの一言に繋がる。

 先輩は自分を松前だと名乗った。七瀬くんに呼び出されたと言っていたけど、先輩自身も何故呼ばれたのかよく分かっていないみたいだ。

「七瀬くん、昨日言ってくれたよね。もし隙間の向こうに見えたら、自分に言いなさいって……あれ、どういう意味?」

 私は無意識のうちに、自分の胸の前で、祈るように両手を組み握っていた。まさしく、神様にでも縋りたい気持ちだ。

 強迫性障害になっているのかなって、思っていた。でも昨日クローゼットの中であの目を見て、私は確信した。私の隙間に対する恐怖は、思い込みなんかじゃないんだって。

 少しだけ考えるような間を置いて、フェンスに凭れるようにして立っていた七瀬くんが唇を開く。

 元々透き通るように白い七瀬くんの肌は、今この校舎の影の中でさらに神秘的に映える。その薄い唇から紡がれる声はほとんど抑揚がないものの、聞き取りやすくてどこか落ち着く。

「ここ数日、周囲の次元が緩んでいるのは感じていました。何かが来ているだろうということも予想していました。昨日の貴方の様子を見て、貴方が狙われているということも分かった。なので、手遅れになる前に対策ができるよう声をかけました」

「手遅れ……このままにしておくとどうなるの?」

「あれは『覗くもの』です。別の次元からやって来た存在、この世ならざるものです。この世ならざるものが、この世に来る目的は大きく分けて二つ」

 七瀬くんはそう説明しながら、指を二本立てる。

「この世から何かを持って行きたいか、この世に入り込みたいか」

「近づくものは、前者か……」

 黙って聞いていた先輩がそう言葉を挟む。私には何のことを言っているのか分からなかったが、七瀬くんは頷いていた。

「さらに大きな別の目的を持つものもいますが、それは別格です。覗くものは、後者。この世に入り込みたいものです。

 何かと何かの狭間、特にその隙間というのは次元の境が最も曖昧になる場所なので、あれはそれを利用してこの次元に介入してきているのです」

 色々と気になることはあるが、私は黙って話を聞く。今私が縋れるのは神様ではなく、七瀬くんだけだ。

「覗くものが何故覗くのか。それは、狙った人間の全てを知るためです。生活の様子、声に話し口調、性格。それらを把握したと判断した時、それは貴方の体を乗っ取って成り代わり、この世に入り込む」

 ぞくっと背筋に冷たいものが走る。私が怖がった隙間の向こうで、いつも得体のしれないものが私を覗いていたのか。

「一人でに扉が開き始めるということは、それはすでに相当な力をつけ、この次元に関与出来始めている証拠です。成り変わられるまでにほとんど猶予がないと考えたほうが良いでしょう」

「……どうしたら良いの? 助けてくれるんだよ、ね?」

 縋るように問いかけたが、七瀬くんはそうだとも言わず、頷きもしなかった。

「覗くものの目を見たと言っていましたね。その顔は見ましたか?」

 問い返されて、私はもう一度、あの衝撃的な光景を思い出す。

 クローゼットの暗闇の中、それでも至近距離で合った視線。あのぎょろりとした瞳。その瞳がついた、昏い顔。垂れ目がちでその目尻に細かい皺があって、鼻と口の間が長めだった。そのさきの唇は、弧を描いて。

「男の人だった。四十歳くらいの……あの人……笑ってた」

 ニタリ、と顔を歪ませるぞっとするような笑顔を思い出し、また昨夜のように体が震えだす。先輩が私を心配したように、優しく肩を叩いてくれる。

 七瀬くんはそんな私達の様子を全く気にした様子もなく、満足そうに頷いた。

「宜しい。であれば、根本的な解決が出来そうです」

 でも、先程と全く同じトーンで告げられた言葉は、何よりも頼もしかった。

「今日の放課後、町の図書館に行きますよ。スケは校門のところで待っていなさい」

「え、俺も?」

 七瀬くんの言葉に先輩が反応したが、彼はそちらの方を見ると、当然だろうと言わんばかりにぴくりと片眉を上げる。

「スケは常におれの側にいてもらわなくては困ります」

「どうして」

「何かあったときに、誰がおれを運ぶんです?」

「俺は人間担架か……」

 先輩は誰に聞かせる様子もなくぼやいたけど、結局直接七瀬くんに不満を言うことはなかった。どういう意味かは分からないけど、納得したみたいだ。本当に、どういう関係なんだろう。

「あの……私のせいで、お時間とらせてしまってすみません」

 思わずそう謝ると、先輩は慌てたようにぱっと手を振って笑う。

「あ、いやいや全然。穂香ちゃんのせいじゃないから」

 それから先輩は、少しだけ声のトーンを落とす。

「怖いよな。その気持ち、よく分かる。俺もずっと一人で悩んでいたから」

 先輩に何があったのか私には分からないけど、そこには実感が籠もっていた。

 私をまっすぐに見つめる瞳。私も思わず見上げるように覗き込んで、その瞳が僅かに茶がかっていることを知る。着物の色で、涅色と呼ばれるような優しい茶色。

「実は俺も白に助けてもらったんだ。白のことは、信頼して大丈夫だから」

「……はい」

 言葉の端々から感じる、七瀬くんへの信頼は私の不安も消していってくれる。

 その時ちょうど、校舎の方で昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。私達は慌てて、話は終わったとばかりに先にいなくなっていた七瀬くんを追いかけたのだった。

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