紺碧の刃

 サラが淡々と語を継いだ。それがかえって真実の残酷さを浮き彫りにしていて、シオンは居たたまれない気持ちになった。

 それはあまりにも悲しい真実だった。人間の世界で初めて出会い、愛した人。その母親の命を、自分の母が奪ってしまっていた。どれだけ埋めようとしたところで、その溝が埋まることは決してないだろう。

 麗二もそのことに気づいていた。だからこそ麗二は、真実から目を背けようとしたのだ。シオンの正体に気づかない振りをして、人間としてのシオンを愛そうとした。

 しかし真実は、突如として麗二の眼前に突きつけられることになった。

 人魚に戻ったシオンの姿を目の当たりにし、麗二はもう、真実から目を背けることができなくなってしまった。そしてそれは、シオンと麗二が築き上げてきた平穏な日常を一瞬で崩壊させることになった。

 真実を知った今、麗二はもう、二度と自分に優しくしてはくれないだろう。自分の姿を見るたびにリンナのことを思い出し、美波子を失った事実に苦しむことになるのだろう。

 いや、きっと今までだって、麗二はずっと苦しんできたのだろう。ただ、シオンは人魚ではないかもしれないと自分に言い聞かせ、平気を装っていただけなのだ。

「……色々思うのは勝手だけどさ。とりあえず、話を続けさせてほしいんだけど」

 サラが痺れを切らしたように言った。その言葉でシオンの意識は現実に引き戻された。

「このナイフはね、ただのナイフじゃないんだ」サラがナイフを手の中で器用に回しながら言った。「バァさんの特別な魔法がかけられてて、一度かけた魔法を解くことができるんだ。あ、でもタダでじゃないよ。代償として必要なのは、自分が一番愛する者の命」

「愛する者の……命?」

「そう。あんたが一番愛する者。アンタはこのナイフを使ってそいつの命を奪う。そうすれば魔法は解け、元の姿に戻れるってわけ」

「だからあなたは、麗二にこれを使えと……」

 シオンはようやく合点がいった。自分が一番愛する者。それは間違いなく麗二のことだ。魔女やサラが自分にさせようとしていることは理解できたが、だからといって納得したわけではなかった。

 シオンは改めてサラが手にしたナイフを見つめた。これを使って麗二の命を奪えば、自分は人魚に戻ることができる。だが、麗二の命を犠牲にして人魚に戻るなんて、どうしてそんな恐ろしいことができるだろう? たとえ麗二が二度と自分を愛してくれなかったとしても、シオンが今でも麗二を愛していることに変わりはないのだ。そんな人の命を、自らの手で奪うなんて――。

 その時、不意にある考えが閃いて、シオンははっとして顔を上げた。今のサラの話を聞いて、一つ思い出したことがあったのだ。

「愛する者の命を奪えば、元の姿に戻れる……。そう言ったわね?」

「そう、泣かせるよね?」サラが少しも悲しくなさそうに言った。

「それじゃあの晩、お母さんが人魚に戻っていたのは、このナイフを使ったからなの?」

 シオンは一心にサラの顔を見つめた。サラは目を瞬かせたが、すぐにあっさりと頷いた。

「そうだよ。あの時もアタシがリンナにこれを渡したんだ。このナイフのことを話したら、リンナも今のアンタと同じような顔してたっけ」

「そう……だったの……」

 シオンは再びナイフの方に視線を下げた。母が人魚に戻っていたのは、あの日が満月だからではなかった。母は自らの魔法を解くために、美波子の命を犠牲にしたのだ。だけど、どうして母がそんなことをしたのか、シオンにはやはりわからなかった。

「……さてと、お喋りはこの辺にしとこうかな」

 サラが不意に言った。シオンが顔を上げる。

「アンタもわかってると思うけど、麗二はもう、今までと同じようにアンタに接しちゃくれないよ」サラが言った。「何しろアンタは、自分の母親を殺した女の娘なんだからね。麗二がアンタをここに置いておく理由は一つもない。アンタはここを追い出されるか、最悪の場合……」

 サラは不意にそこで口を噤んだ。シオンは不安になってサラの顔を見つめた。

 サラは眉間に皺を寄せて何やらためらっていたが、やがて考えを追いやるように言った。

「とにかく、アンタがこの先も無事に生きていくためには、これを使って麗二の命を奪うしかないんだ。もうあんまり時間がない……。やるなら今夜だよ」

「今夜!?」

 シオンは衝撃に目を見張った。まだ決心がついたわけでもないのに、そんなに早く事を起こせというのか。

「そう。麗二はもう一度この家に帰ってくる」サラは頷いた。「アンタは自分の部屋にいて、麗二が眠るのを待つ。それから……」

 シオンは何か言おうと口を開いたが、サラの顔を見て思わず言葉を吞み込んだ。その時のサラの顔には、どこか焦って思い詰めたような表情が浮かんでいたのだ。

「……とにかく、伝えることは伝えたから。後はアンタ次第だよ」

 サラはそう言ってシオンの手にナイフを押しつけると、そのまま煙となって姿を消した。

 シオンは呆気に取られてサラのいた場所を見つめ、それから手の中のナイフに視線を落とした。実際に手に取って見るとそれは思ったよりも小さく、深い青色で覆われた部分にはたくさんの真珠が散りばめられている。こんなに美しいものが美波子の命を奪ったなんて、シオンには到底信じられなかった。

 母は、どんな気持ちだったのだろう。サラからこのナイフを受け取り、どんな思いで美波子の元に向かったのだろう。

 百合は言った。自分達が母を見つけた時、母は泣いていたと。

 それは、自らの手で愛する者の命を奪ってしまった、悔恨の涙だったのだろうか。

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