語られる過去

「……今から七年前、よく晴れて、海が凪いでいた朝のことだったわ」百合が静かに話し始めた。「この浜辺に一人の女性が流れ着いたの。衣服も何も身につけていなくて、生まれたての赤ん坊みたいな格好で倒れてた。それを見つけたのが麗二のお母さんだったの」

「麗二の、お母さん……?」シオンはゆっくりと繰り返した。

高瀬川美波子たかせがわみなこ。あたしからしたら伯母様になるわね。あたしと違って、おしとやかで優しい人だったわ。

 伯母様がその倒れていた人を助けて、この屋敷まで連れてきたの。しばらくしてその人は目を覚ましたんだけど、自分の名前以外は何も覚えてないって話だった。その人の名前は〈リンナ〉と言ったわ」

「!」

 その時ばかりは、さすがにシオンも動揺を隠すことができなかった。リンナ、随分久しぶりに聞いた母の名前だ。それではやはり、今朝麗二が言っていたのは母のことだったのだ。

 七年前、母もまたこの浜辺に流れ着き、この屋敷の人間に助けられた。ようやく母の消息を掴んだことで、シオンは心臓の鼓動が早まるのを抑えられなかった。

 百合はそんなシオンの様子をじっと見つめていたが、そのまま話を続けた。

「記憶を失くしたリンナのことを、伯母様はとても心配されていたわ。それで記憶が戻るまでの間、リンナにここで暮らすように言ったの。鳩崎は反対したみたいだけど、伯母様、意外と頑固なとこがあったから、聞かなくて……」

 シオンは目を瞬いて百合の顔を見返した。それでは麗二は、自分の母親と全く同じことをしたということか。

 そう言えば、麗二が初めてシオンの〈療養〉を提案した時、鳩崎が麗二に向かって怒っていた。「また同じことを」とか、そんなことを言っていた気がする。あれはきっと、美波子が母を助けた時のことを言っていたのだろう。

「とにかく、そういう経緯があってリンナはうちで暮らし始めたの」百合が言った。「あたしも最初にそれを聞いた時には、正直何考えてんだろうって思ってた。

 ……でも、今なら伯母様の気持ちも、少しはわかる気がするの」

「どういうことですか?」

 シオンはきょとんとして尋ねた。百合はふっと息をつくと、肩を竦めて言った。

「麗二のお父様、高瀬川博文たかせがわひろふみって言って、不動産会社の社長をしてるの。高瀬川不動産は日本でも有数の大企業で、今や世界中に店舗を進出させてる。

 だから伯父様はすっごく忙しくて、家に帰って来る時間も惜しいからって、会社の近くに一人でマンションを借りて住んでたの。麗二も昼間は学校だから、家にはほとんど伯母様しかいない状態だった。だから伯母様、きっと寂しかったんだと思うわ」

 だから美波子は、母を傍に置いておきたかったと言うことか。その気持ちはシオンにもわかる気がした。

「実際、リンナがこの家に住み始めてから、伯母様は元気になったように見えたわ」百合が続けた。「それまでは家にいてもすることがなくて、椅子に座ってぼんやりしてることが多かったんだけど、リンナが来てからはお喋りの相手ができて、すごく嬉しかったみたい。

 伯母様はリンナと色々なことをしていたわ。浜辺を散歩したり、読書をしたり、お裁縫をしたり……。

 中でも一番お気に入りだったのは、リンナの歌を聴くことだったみたい。あたしも何回か聴いたことがあるんだけど、確かにリンナはすごく歌が上手だった。あんなに綺麗な声で歌う人、今まで会ったことなかったもの。リンナの歌に聴き入ってる伯母様は本当に幸せそうで、リンナが来てくれてよかったって、その時は……そう思えたわ」

 そこで百合は不意に言葉を切った。表情に影を落とし、膝の上で組んだ手の上に視線を落としている。その様子は、二人の幸せを引き裂くような、何かとんでもないことが起こったのだろうという予感をシオンに抱かせた。

 百合はしばらく黙りこくっていた。シオンも何も言わずに話の続きを待った。母につながる唯一の糸。それを掴むためなら、何分でも、何時間でも待つ覚悟でいた。

 そうしてしばらく時間が経った。百合は深いため息をつくと、ようやく重い口を開いた。

「それからしばらく経った、ある夜のこと……。その日は朝からひどい雨で、海もすごく荒れていたわ。夜になって雷まで鳴り始めて……すぐそこに落ちたんじゃないかってくらい、大きな音が何度も鳴り響いてた。その時はあたしもたまたまここに帰って来てたんだけど、雷のせいで全然眠れなくて、早くこの嵐が過ぎればいいのにって思ってた。

 そんな矢先だったわ、突然雷の中で聞こえたの。怖ろしい女性の悲鳴が……」

 シオンは固唾を呑んで百合の顔を見つめた。何か、大変なことがこの家で起こったのだ。

「あたしは急いでガウンを羽織って部屋から飛び出した。途中で麗二や伯父様にも会ったわ。二人とも悲鳴が聞こえたんでしょうね、同じように青い顔をしていたわ。声は伯母様の部屋から聞こえたから、伯母様の身に何かあったんじゃないかって思ったのね。

 あたし達は三人で伯母様の部屋に向かった。それで部屋の前まで来た時、女のすすり泣く声が聞こえたの。それが伯母様のものでないことはすぐにわかったわ。

 あたしと麗二はためらったんだけど、伯父様が止める間もなく扉を開けて……そこであたし達は見てしまったの。ベッドの上で静かに横たわっている伯母様と……その傍で突っ伏して泣いているリンナの姿を。

 あたし達はその光景が信じられなかったわ……。その時のリンナのネグリジェの裾からは、はっきりと魚の鰭が覗いていた……。そして、伯母様の胸には……」

 百合はそれ以上言葉を続けることができなかった。がっくりと頭を垂れ、苦しげに息を震わせ始める。シオンは呆然とその姿を見つめていた。恐怖と衝撃が身体を巡り、ゆっくりと全身を冷やしていく。

 母は、人魚の姿を人間に見られてしまった。そしてそれ以上に悪いことが、その時すでに起こっていたのだ。

 ようやく呼吸を落ち着かせたところで、百合がゆっくりと顔を上げた。乱れた髪を直そうともせず、射るような視線をシオンに向けると、一気に言った。

「伯母様の胸には、ナイフが突き立てられていた。あの女は、伯母様を殺したのよ」


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