失われた平穏

 その晩の夕食は騒がしかった。いつもは麗二と二人で静かに過ごすこの空間に、今日は百合がいたからだ。

 百合は食事の間中、何かと喋り続けていた。〈しごと〉のこと、〈かいしゃ〉のこと、〈しゃちょう〉のこと。シオンには意味のわからないことばかりだったが、百合の表情を見るに、あまり楽しい話ではなさそうだった。

 百合はずっと麗二の方を向いて喋っていたが、麗二は話を聞く気がないのか、時々曖昧に返事をするばかりで、一度も顔を上げようとはしなかった。そんな麗二の様子を、後ろから鳩崎が心配そうに見守っていた。

 シオンは麗二の様子がおかしいことに気づいていた。普段の麗二はゆっくりと時間をかけて食事を取り、終わった後に自分や鳩崎に向かって料理の感想を述べるのに、今日は無言でひたすら料理を口に運んでいるだけで、全く味わっている様子がなかった。その様子はまるで、一刻も早くこの食事の時間を終わらせようとしているようだった。

 シオンは小さくため息をついた。シオンにとっても、今日の食事の時間は全く楽しいものではなかった。百合は一度もシオンの方を見ず、シオンなどこの場にいないかのように振舞っていた。

 それがシオンには辛かった。いくら麗二が優しくしてくれたところで、自分は屋敷の一員として迎え入れられたわけではない。所詮はよそ者であり、ここにいるべき存在ではないということを暗に思い知らされた気分だった。


 気詰まりな食事の時間が終わり、シオンはようやく自分の部屋に戻ってきた。ふらふらと〈ベッド〉の方に近づいていき、そのままうつ伏せに倒れ込む。いつもは部屋にある様々な〈家具〉に触れたり、〈窓〉から海を眺めたりするのだが、今日はひどく疲れていて、何をする気にもなれなかったのだ。

 百合が来たことで、これまでの平穏な生活は失われてしまった。自分を守ってきてくれた優しい世界は消え、あるのはただ、よそ者に対する無言の疎外だけだった。

 シオンはそっと目を閉じた。柔らかなベッドの感触が肌に心地よい。人間の世界で初めて目を覚ました時も、シオンはこのベッドの上にいた。あの時はわからなかったことが、今では随分わかるようになった。この部屋にあるものの名前も、今なら全て言うことができた。それを教えてくれたのは麗二だった。麗二がシオンを、ここまで人間らしくしてくれたのだ。

 不意に肩に冷たい感触を覚え、シオンは〈枕〉に突っ伏していた顔を上げた。窓が開けっ放しになっていたようで、夜風が部屋に入り込んでいる。シオンは首を振ってベッドから起き上がると、ゆっくりと窓の方に近づいていった。

 窓を閉めようかと思ったが、何となくそのまま〈バルコニー〉に出てきて、〈手すり〉に腕をついてシオンは海を眺めた。月の光を浴びた海は静かに瞬き、風に揺れる波の音が聞こえてくる。

 そんな感覚を味わっているうちに、シオンは胸の内から海への恋しさが込み上げてくるのを感じた。あの美しい海で泳ぎ、魚達と歌っていた時間が懐かしかった。人間の世界で居場所を失いつつある今、シオンの心は再び海の世界を求めていた。

 だが、そんな甘美な追憶も長くは続かず、シオンは諦めてゆるゆると首を振った。

 わかっている。自分はもう二度と、あの海に戻ることはできないのだ。自分はその覚悟を持って人間になったはずだった。

 だけど今、こうして孤独に海を眺めることしかできない自分の状況を思うと、シオンは自分がひどく軽率なことをしたように思えてならなかった。

 シオンはゆっくりと天を仰いだ。闇夜に浮かぶ半月が、孤独なシオンを慰めるかのように、頭上から優しい光を投げかけている。その淡い光を見つめながら、シオンは母のことを思い出していた。

 母も今、どこかでこうして月を眺めているのだろうか。海での生活や、自分のことを思い出しているだろうか。それとも、自分が人魚だった時のことなんてとっくに忘れてしまっているだろうか。

 母と別れてからもう七年が経つ。七年も経てば、母も随分変わっていることだろう。今頃は人間の男性と結ばれ、幸せに暮らしているのかもしれない。もしそうだとしたら、母はもう、海に置き去りにした娘のことなど覚えていないかもしれない。

 シオンはゆっくりと視線を下げた。瞬きと共に、瞳に溜まった涙が床に零れ落ちていく。

 シオンは母が恋しかった。海で泳げなくてもいい。魚達と歌えなくてもいい。ただもう一度、母に会いたい。その痛切な想いだけが、海底に沈殿する砂のように、空漠なシオンの心に降り積もっていくのだった。

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