母の歌声
翌朝、赤々とした太陽が海から空へと昇る頃、シオンは1人浜辺へと向かっていた。今日のように朝早く目覚めた時には、朝食前に浜辺を散歩することもある。同じように早起きした麗二と会うことも時々あった。そんな時には、二人は朝の挨拶を交わした後、ゆっくりと浜辺を歩きながら、少しずつ色を変えていく空と海を心ゆくまで眺めていた。いつもとは違うその光景を目にするたび、シオンは一日の始まりが特別なものに思えるのだった。
浜辺に立ったところで、シオンは辺りを見回してみた。麗二の姿はどこにも見えない。砂を踏みしめる足音も聞こえない。シオンはがっかりしてため息をつくと、仕方なく一人で海を眺めることにした。
今日はいつもより風が強く、波は大きくうねりを上げて浜辺へと押し寄せては、見えない糸で手繰り寄せられるように急速に引いていく。冷たい水がシオンの足先に触れ、手で触れようと身を屈めた途端に今度は遠ざかっていく。寄せては返すを繰り返すその様子は、まるでシオンの心の揺らぎを表しているようだ。
そうしている間に日は昇り、海はいつもの鮮やかな姿を見せ始めた。頭上ではカモメが声を上げ、水平線に向かって群れを成して飛んでいく。
その光景を眺めていると、シオンは不意に寂寥がこみ上げてくるのを感じた。自分一人だけが取り残され、誰からも忘れられてしまったかのような感覚。
(お母さん……)
遠くに広がる水平線を眺めながら、シオンは母のことを考えた。百合のことも麗二のことも、その時のシオンの頭からは消えていた。今、シオンの頭にあるのは、母に会いたいという切なる願いだけだった。
母のことを考えているうちに、シオンはふと、母から教えてもらった歌のことを思い出した。それはシオンが幼い頃、母がよく自分に聴かせてくれた歌だった。傍らに寄り添い、優しく語りかけてくれるようなその調べは、シオンにとっては母そのもので、どんな時でもその歌を聴くと不思議と心が落ち着くのだった。
母がいなくなってからも、シオンは海で何度も一人でその歌を歌った。その歌を歌っていると、母がいない寂しさを束の間忘れることができた。それを歌っている時だけは、母とつながっているように感じられたから。
シオンは胸に手を当てると、そっと声を出してみた。人間になってから歌うのは初めてで、今も歌えるかどうか不安だったが、声を出しているうちに少しずつ調子が戻ってきた。最初は控えめだった声量は大きくなり、シオンは次第に昔の感覚を取り戻していった。
そうして発声を繰り返した後、シオンはそっと目を閉じた。太陽の光が残像となり、網膜の裏に焼きついている。降り注ぐ光の暖かさをその身に感じながらも、シオンの心は地上を離れて海の世界へと戻っていった。紺碧の空間。色とりどりの魚達。そんな懐かしい情景を思い浮かべながら、シオンはそっと母の歌を歌い始めた。
その歌声は浜辺一帯に響き渡り、水平線の遥か彼方まで届いていくかのようだった。飛び去ったカモメ達がどこからか戻ってくると、ゆっくりとシオンの頭上を旋回し始める。かつての魚達のように、カモメ達もまた、シオンの歌声に惹きつけられていたのだ。
シオンは伸びやかに歌い続けた。この海の向こうまで声を届かせようとするかのように。そうして歌い続けていれば、母が自分の存在に気づいてくれるかもしれないと願いながら。
その時、不意に後ろから砂を踏む音が聞こえ、シオンは歌うのを止めて振り返った。そこにいたのは麗二だった。だが、麗二の姿を見てすぐに、シオンは彼の様子がおかしいことに気づいた。シオンと中途半端に距離を空けた場所で立ち止まり、顔を強張らせて自分を見つめている。
「麗二……? どうしたの? 大丈夫?」
シオンは自分から麗二に近づいて声をかけた。だが、麗二は一歩後ずさり、何か恐ろしいものでも見るような目でシオンを見返しただけだった。シオンはいよいよ麗二が心配になってきた。
「ねぇ、麗二……? どうしたの……?」
「……その歌」
不意に麗二が呟いた。その表情は固く強張ったままだ。
「なぜ、君がその歌を……。君はそれをどこで聞いたんだ?」
そう尋ねた麗二の口調はいつもの穏やかなものではなく、問い詰めるようだった。シオンは怯えた顔で麗二を見つめた。麗二はいったいどうしてしまったのだろう。
「この歌は母が教えてくれたの。私が小さい頃、母がよく聴かせてくれたのよ」
シオンは何とか平静を保ちながら答えた。だが、その答えを聞いた瞬間、麗二の顔がはっきりと引きつったのがわかった。目を剥き、顔色が蒼白になっていく。
「麗二……? どうしたの? この歌がどうしてそんなに気になるの?」
シオンは堪りかねて尋ねた。麗二は眉間に深い皺を刻み、むっつりと黙り込んでいたが、やがて低い声で言った。
「……僕は、その歌を知っている」
「え?」
シオンは目を見開いた。麗二はシオンから視線を外すと、足元の砂浜を見つめて答えた。
「僕は知っているんだ。その歌のことも、それを歌っていた女のことも……」
シオンは目を瞬いて麗二の顔を見返した。麗二が言葉の意味がすぐには理解できなかったのだ。だが、次第にその意味が呑み込めてくると、たちまち希望が湧き上がってきて、気がつくとシオンは麗二に飛びついて叫んでいた。
「麗二! あなたはお母さんのことを知っているのね! ねぇ、教えて! 母は、私のお母さんはどこにいるの!?」
シオンは麗二の肩を掴んでがくがくと揺さぶった。夢中だった。ずっと求めていた母の手がかりがようやく見つかったのだと思うと、いても立ってもいられなかった。
だが、自分を見下ろす麗二の瞳とぶつかったところで、シオンは急に我に返った。その灰色の瞳に浮かんだ表情が、ひどく悲しげだったからだ。
「シオン……。君は、記憶喪失ではなかったのかい?」
麗二が囁くように言った。そこでようやく、シオンは自分がとんでもない失言をしたことに気づいた。麗二は自分が記憶をなくしていると思っている。だからシオンは、母のことを口にしてはいけなかったのだ。
シオンはとっさに口を手で覆うと、慌てて麗二から視線を逸らした。だが、麗二はシオンの肩に手をかけると、シオンを自分の方に向き直らせた。
「ねぇ……シオン」
意外なほど優しいその声が、シオンにはかえって怖ろしかった。シオンは顎を引き、恐る恐る麗二の顔を見上げた。
麗二は怒っていなかった。騙されたことに憤ってもいなかった。ただ、瞳に深い悲しみを湛え、それでも口元だけは辛うじて笑みを浮かべている。
「君はいったい……誰なんだ?」
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