第二章 琥珀色の髪の貴公子

優美なる人

 鳩崎に手を引かれ、シオンは〈坊ちゃま〉の元へ向かっていた。傍に鳩崎がいるとはいえ、自分がまた倒れることを想像すると恐ろしく、一歩一歩安全を確かめてからでないとシオンは先に進めなかった。そのため、歩みのペースは非常に鈍いものとなっていたが、それでもシオンは〈足〉を使って着実に歩くことができていた。一つ前に進むたびに、肩の辺りからずしりとした重みが全身に伝わってくる。海で暮らしてきたシオンにとっては、自分の身体の重さを感じるというのはとても不思議な体験だった。

 シオンは長い時間をかけて歩いた。最初に目覚めた空間を抜け、真っ赤な布の敷かれた道を辿り、巻貝のような形をした段差が連なる道を慎重に下る。

 そうして高いところから降りたところで、鳩崎が前方に手を広げて言った。

「坊ちゃまは食堂にいらっしゃいます。ただ今朝食の用意をしているところでして」

 それまで〈足〉の方にばかり気を取られていたシオンだったが、そこでようやく顔を上げた。視界の先には、今まで辿ってきた赤い布の道がまっすぐに続いている。道の両側は真っ白な平面で囲われており、細かい装飾が至るところに施されている。赤と白のコントラストから成るその空間は実に美しく、シオンはもっと注意深く周囲の光景を眺めてこなかったことを後悔した。

「ここまで来れば後少しです。坊ちゃまもお待ちですから、急いで参りましょう」

 鳩崎はそう言うと、シオンの手を引いてその空間を通り過ぎようとした。

「!」

 そこでシオンは不意に足を止めた。鳩崎が不思議そうに振り返る。

 シオンは目の前の光景から目を逸らすことができなかった。両脇の白い平面に取り付けられた大きな十字型の板、その向こうに広がる青の世界。

(海……)

 その光景を一目見た瞬間、シオンは懐かしさのあまり胸が押し潰されそうになった。

 かつて自分がいた場所。魚達と泳ぎ、歌を歌い、母と共に時間を過ごした場所。それを今、自分は違う場所から眺めている。何年も前からよく知っている場所のはずなのに、それは自分の知る海とは別の空間のように思える。すぐ近くに見えてはいても、シオンには海がとても遠い場所になってしまったように感じられた。

「あの……大丈夫でしょうか?お加減が悪いのでしたら、今からでもお部屋の方に……」

 鳩崎がおずおずと声をかけてきたが、シオンはなおも海から目を離せなかった。後ろ髪を引かれる思いでその青の空間を見つめた後、そっと目を閉じる。

(懐かしい海……私の大好きな場所……。だけどもう、あそこには戻れない……。

 わかってる。こうなることを選んだのは、私なんだから……。)

 シオンは自分に言い聞かせるように内心で呟くと、そっと目を開けた。眼前に広がる青の世界。だけど、今度はそれに視線が釘づけられることはなかった。

「ごめんなさい。色々なことを思い出してしまって……。でも、もう大丈夫です」

 シオンは郷愁を振り切るように海に背を向けると、鳩崎に向かって微笑みかけた。鳩崎は困惑した顔でシオンを見つめていたが、やがて頷くと、再び彼女の手を取って歩き始めた。


 その後も十字の板は等間隔に現れ、シオンはそのたびに振り返りたい衝動に駆られたが、懸命にその衝動を堪えた。今ここで海の姿を目にしてしまったら、二度と人間として生きられなくなるような気がした。シオンは再び足元に視線を落とし、真っ赤な道だけを見つめて歩いて行った。

 そうしてしばらく進んだところで、やがて二人は広い場所に出た。周囲は先ほどまでと同じ真っ白な平面で囲まれ、空間の中央に、白い布のかけられた細長い台が置かれている。台の上には銀色の丸い器や小物などが並べられ、見たこともない色とりどりの物が器の中に入っている。

 シオンはまじまじとその光景を見つめていたが、そこでふと、細長い台の反対側に座る別の〈人間〉の存在に気づいた。シオンはその人間の方に視線をやったが、その瞬間、他の物は何も目に入らなくなってしまった。

 何て美しいんだろう――。

 それが、シオンがその人間を見た時に最初に抱いた印象だった。短い髪の毛や、〈わんぴーす〉のようなひらひらとしたものを身につけていないことから、鳩崎と同じ〈男〉だとシオンは判断した。でも、もしそうした特徴がなかったとしたら、自分と同じ〈女〉と言われてもシオンは納得しただろう。柔らかに揺れる琥珀色の髪や、どこか遠くを見つめるような灰色の瞳が、〈男〉とは思えないほどの優美さを漂わせていたからだ。

 男は木でできた小さな台に腰掛け、静かにシオンの方を見つめている。シオンは恍惚としてその姿を眺めながら、自分の胸がときりと鳴るのを感じた。

「もう、起きても平気なのかい?」

 男が静かに言った。心にしっとりと染み入るような、優しい声だった。男の姿に見入っていたシオンは、急に声をかけられてびくりと肩を上げた。男はじっと自分の返事を待っている。シオンは慌てて言葉を捻り出そうとした。

「あ……はい。えっと、とても良くなりました」

「そうか、それはよかった」

 男は柔らかな笑みをシオンの方に向けた。シオンは自分が何かまずいことを言ってしまったのではないかと心配だったが、包み込むような男の笑顔を前に、肩の力がすっと抜けるのを感じた。

「まだ名前を言っていなかったね。僕は麗二。この高瀬川家の一人息子だ」

「あ……私はシオンと言います」

「そうか、シオンさん。君が目を覚ましてくれてよかったよ。ところで、その服は……」

 麗二は椅子から立ち上がると、シオンの眼前まで近づいてきて、改めて彼女を見つめた。そんな風に見つめられると急に気恥ずかしくなり、シオンは視線を落としてそっと身を引いた。

「あの……勝手に借りてしまってごめんなさい。〈おくさま〉が身につけていたものだって、鳩崎さんから聞きました」

「あぁ、そうだね。母さんは若い頃、そのワンピースをとても気に入っていて、何か特別なことがある時はいつもそれを着ていたよ」

 麗二はそこで不意に言葉を切った。遠い目をして、昔を思い出しているように見える。

「母さんがそれを着なくなってから、しばらく見ることもなかったが……君にはとてもよく似合っているね。母さんも喜んでいると思うよ」

 麗二はそう言って微笑んだ。シオンは嬉しさと恥ずかしさに顔を赤らめ、頬に手を当てて麗二から視線を背けた。

「そうだ、ちょうど朝食の用意ができたところなんだ。よかったら君も食べていくかい?」

 麗二が思い出したように尋ねた。シオンはきょとんとして麗二の顔を見つめた。麗二が何を言っているのか、わからなかったのだ。

「どうかしたかい?もしかして、あまりお腹が空いていないとか?」

 麗二が不思議そうに首を傾げた。そこでようやく、シオンにも麗二の言葉の意味がわかった。麗二は自分に、物を食べろと言っているのだ。

 そう言えば、人間は一日に三度、〈食事〉というものをするのだと母から聞いたことがある。人間は食事のために自然界の材料に手を加え、実に様々な物を作るそうだ。この細長い台に置かれた器や小物も、〈食事〉をするためのものなのだろう。

 シオンは目の前に並んだ色とりどりの物を見つめた。今ここで、人間と一緒に〈食事〉をする。それはシオンにとっては初めての体験だった。人魚も物を食べることはあるが、それが人間の〈食事〉と同じことを指すのか、シオンにはわからなかった。自分が果たして人間と同じように〈食事〉ができるのか、シオンには正直、自信がなかった。

 だけど――シオンはそこで再び麗二の方に視線をやった。麗二は人の好さそうな笑みを浮かべてシオンの返事を待っている。

 この麗二という人間は、自分が何か失敗をしても、それを変な目で見たりしないのではないか。シオンには何となくそんな予感があった。

 自分はこれから人間として生きていかなければならない。だったらここで〈食事〉をして、彼らのやり方を覚えていくほかない。不安が消えたわけではなかったが、麗二が相手なら、その不安も少しは拭える気がした。

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