目覚め

 薄闇に包まれた海の中で、シオンは何かに導かれるように唐突に目を開けた。枕代わりにしていた岩場から顔を上げ、覚めきらない目で辺りを見回す。いつもなら母と並んでこの岩場で眠り、朝まで目を覚ますことはないのに、今日はいったいどうしたのだろう。

 シオンはぼんやりとした意識のまま、何気なく視線を下にやった。だが、そこにある違和感の正体に気づくと、シオンの意識はたちまち鮮明になった。隣で眠っているはずの母の姿がないのだ。

『お母さん!?』

 シオンは目を丸くして叫ぶと、慌てて母の姿を探した。周囲の岩場を覗き、海藻の間を探してみたが母の姿はどこにもない。薄闇に紛れているのではないかと目を凝らしてみたが、結果は同じだった。確かに隣で眠りについたはずなのに、母はどこに行ってしまったのだろう。

 その時、どこからともなく魚達がシオンの周りに集まって来ると、一斉に縦向きになって口を上向きに尖らせた。それを見てシオンはぴんと来た。

『お母さんなのね? お母さんはそっちに行ったのね!?』

 魚達の答えを待つまでもなかった。シオンは水流のような勢いでその方向に泳いで行った。


 周囲が次第に明るくなっていき、間もなく朝を迎えようとした頃、シオンはようやく母の姿を見つけた。母は水面の真下におり、シオンの存在には気づいていないのか、頭上から降り注ぐ光を魅入られたように見つめている。柔らかく広がる薄い金色の髪に、濃紺の鱗と水色の鰭を持った母の姿は見慣れているもののはずなのに、光に包まれているせいで別の誰かのように見えた。

『お母さん!』

 シオンが声をかけた。そこでようやく娘の存在に気づいたのか、母が驚いた顔でちらを振り返った。

 シオンはそこで、母が胸に小瓶らしきものを抱えていることに気づいた。透明な瓶に入った赤い液体は血のように不気味で、シオンは急に胸騒ぎを覚えた。

『お母さん……ねぇ、どこに行くの?』

 シオンは母に問いかけた。母は何も言わず、微睡むような目をしてシオンを見つめていたが、やがてふっと微笑んだ。

『シオン、お母さんはね……。これから人間に会いに行くのよ』

『人間に?』

『そう、いつも話しているでしょう? 大丈夫、すぐに戻ってくるから、あなたはここで待ってなさい。』

 母はそれだけ言うと光の方に視線を移し、さっと身を翻してその中へと消えていった。

『待って!お母さん!』

 シオンは夢中で母を追いかけようとした。自分も光の中へ入ろうと、短い鰭を揺らして必死に泳ごうとする。だが、どれだけ泳いでも一向に光には届かず、むしろ泳げば泳ぐほど遠ざかっていくようだった。

『お母さん! お母さん!』

 シオンは泣きながら光に向かって手を伸ばした。だけど、どれだけ懸命に手を届かせようとしても、あの懐かしい濃紺の鱗に触れることはできなかった。


 シオンはそこではっと目を開けた。何度か瞬きをして意識を呼び戻した後、ゆっくりと身体を起こし、額に手をやる。

 どうやら夢を見ていたようだ。母と別離したあの日の夢。あの日から母もう何年も経つのに、映像は決して色褪せず、細部まで鮮明に再現されている。夢を見るたびにあの日の記憶が蘇り、そのたびにシオンは思い知らされるのだ。母は自分を置いていなくなってしまったのだと。

 シオンは憂わしげにため息をついたが、そこでふと身体に違和感を覚えた。下半身の辺りが今までと何か違っている。だが胸の辺りから下半身にかけて柔らかい布がかけられていて、身体がどうなっているのかわからない。シオンは身体の上にかけられた柔らかい布を捲り、違和感の正体を確かめようとした。

「これは……!」

 それを目にした途端、シオンは驚愕に口元を覆った。いつもそこにあった翠色の鱗はなく、代わりにあるのは、肌と同じ色をした長い二本の棒だった。シオンはそれをまじまじと見つめた。

 そう言えば、昔母から聞いたことがある。人間には人魚のような鰭はなく、代わりに〈足〉というものがあるのだと。地上では海のように泳ぐことができないため、人間はこの〈足〉を使って生活しているのだと。母の言っていた〈足〉とは、この二本の棒のことなのだろう。

 シオンは呆然として自分の身体から生えた〈足〉を見つめていたが、次第にその顔が綻んでいくのを感じた。

(これが、人間の〈足〉……。私……本当に人間になれたんだ……)

 よく見ると、〈足〉以外にも変化はあった。シオンの身体は、首の下から〈足〉の上半分にかけてひらひらとした白い布で包まれており、布には緋色の海星のような模様があしらわれている。シオンはその布に触れてみた。

(すごく、柔らかい……。人間は、こんなものを身につけて暮らしているんだ……)

 シオンの周りには、他にも布がたくさんあった。シオンが横たわっていた大きな木の台にも、身体の上にかけられていた薄い物にも、とても手触りのよい布が使われていた。

 シオンは布の感触を何度も確かめながら、改めて身の周りを見回してみた。布以外にも、そこには見たことのないものがたくさんあった。何段にも重なった箱の一つ一つに持ち手がつけられ、中に何かをしまえそうな大きな箱。四本の棒で支えられた丸い木の台と、その周りにある腰掛けられそうな小さな木の台。自分の姿が映っているきらきらとした板。何もかも初めて見るものばかりだ。

(これが……人間の住む世界……)

 シオンはうっとりとしてその光景に見入った。母から聞いた話では、人間は自らの手で様々な美しいものを作り、それに囲まれて暮らしているとのことだった。実際、シオンの周りに置かれた様々なものも、それは繊細で美しい装飾が施されたものばかりだった。かねてから憧れていた世界が今や目の前に広がっており、シオンは喜びが湧き上がるのを抑えられなかった。

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