第10話 雨の日

居ても立っても居られない。

今日もかなえは仕事を終えると、またあの店へと向かっていた。


暗闇の中に、明かりがついた一軒の店が見えてくる。

店の戸には、のれんがかけられており、そこには『ことだま』とある。

奇妙なラーメン屋は、今日も変わらず同じ場所に存在していた。

金曜日でもないのに、ここへやって来てしまった。

かなえは、店の戸を開けた。


数人の男性客が黙々とラーメンを食べている。かなえに目を向ける者はおらず、店内は異様な空気が漂い静まり返っていた。しかし、それももうどうでもいい。

店内には一台のテレビがあり、テレビの横には一冊のノートとボールペンが置かれていた。

奥では店主らしき人物が麺を湯切りしている手が見える。


かなえは、券売機で味噌ラーメンのボタンを押す。この前は失敗した。

塩ラーメンはカロリーが低いが、割と太りやすいようで、カロリーの高さと太りやすさはどうやら一致しないらしかった。

これまでいろんな味を楽しんできたが、一番太らないのは、カロリーの高い味噌ラーメンだったのだ。大豆が入っているかどうかが大事らしい。

食券を厨房のカウンターへと出した。

食券を出すなり、顔が見えない店主からすぐに味噌ラーメンが出てきた。

かなえは、お決まりのテレビの横の席に座った。


テレビの横にある古くぼろいノート。その横にはボールペンがひとつ。

かなえは、ノートを手に取り、すぐに開いた。

そこには、“鋤柄直樹(仮)”からの続きの“文字”が書かれていた。


『雨の日にスーパーでビニール袋だけもらい、傘を買わずに濡れて帰る人生。人に頼らず、物に頼らずに。』


「鋤柄さん……」


すでにボールペンを握っていたが、かなえの手は動かなかった。



傘を買わずに濡れて帰る人生……!?

今はビニール袋も有料化されてしまった。

まさか、ビニール袋だけを買うのか?そんなわけはないだろう。

なら、エコバッグを被って??

それとも今は、ずぶ濡れ!?

違う違う!わたしは何を考えてるんだ。

これはきっと、一つの例えであって……



人に頼らず、物に頼らずに……


かなえは“鋤柄直樹(仮)”を想像した。

雨の降る街中を、ずぶ濡れで歩く男の後ろ姿。

年齢は30代といったところだろうか。

男はスーパーのビニール袋を頭の上に広げ、小走りに帰路を急ぐ。

ビニール袋から雫が垂れ、手を伝っていく。

そんな男の姿を見ても、周囲は誰も声をかけない。

見て見ぬふりと言うより、見えていないようにも思える。


いつの間にか、不幸な人間は自分だけになっていた。

鋤柄さんも孤独な人だったのか……


初めてこの店に来た日、帰る時に雨が降っていた。

この『ことだま』の店先には、傘立てが置かれていて、そこには少しぼろい傘が一本。

『ご自由にお借りください』と書かれていた。

この店は、傘を持たない鋤柄さんがいつ来たとしても、傘を差し伸べてくれる店だった。



ノートにある“文字”に返信でもするように、かなえは続きを書いた。


『初めてこの店に来た日、雨が降ってきて、外に傘が置かれていました。今思えば、それは小さな幸せだったのかも。』


いつの間にか、わたしはいつも答えを鋤柄さんに求めていて、ほしい答えをくれるのが鋤柄さんだと思っていた。

婚活パーティーのことを尋ねた時、パーティーに行ってほしくないと、言ってほしかった。

わたしは一体、鋤柄さんに何を求めているの?

ほら、鋤柄さんのこと、何も知らないじゃない……。



婚活パーティーに行くことで、見えない自分が見えて、知らない自分に出会って……

『かなえさんは、結婚するために恋愛は必要だと思ってるんですね』

そう、大河原さんに言われて……



かなえは、ノートをパラパラとめくった。

ラーメン屋の油でも吸ったのか、少し波打つそのノートは、パラパラというよりパリパリとめくれた。

これまでの“鋤柄直樹(仮)”とのやり取りを振り返る。


鋤柄さんってどんな人?

どんな人生を歩んできた人かも知らないで、一方的にしょうもない結婚相談持ちかけられて、重いに決まってる。わたしっておばさんは……

鋤柄さんはもっと過酷な、苦しい人生を歩んでる人だったかもしれないのに。


鋤柄さんは、わたしのことをどう思っているのだろう。

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