十一 読書



 薬が効いてきたのか熱が下がってくると、体が楽になった分だけ眠くなってきて、ナーソリエルはふらふらとヴァスルの部屋を出て自室へ帰った。すると部屋の中には怒った顔のファーリアスが待ち構えていて、麦粥の入った器を抱えて文句を言ってくる。


「私が寝ている間に、どこへ行っていたのですか? ちゃんと、一緒に寝ましょうねと言ったのに……お粥も冷めてしまいましたよ!」

「賢者様の見送りだ」

「それは、仕方が……なくありません! 賢者さまは自分が遊びたくってナーソリエルのところへ遊びに来たのですから、ひとりで帰るべきです!」

「……そうだな」


 面倒になっていい加減に頷くと、ファーリアスは片手でぽふぽふと寝台を叩いて「わかったなら、おふとんに入りなさい!」と命令してきた。

「煩い」

「わがまま言わない!」


 ため息をついてマントを脱ぎ、その時初めて日蝕色のそれを賢者に返し忘れていたことに気づいた。まあ郵便で送るか、冬に会った時に返せば良いと考えて、ひっそり笑みを浮かべる。あと半年、半年耐えればここを出られる。


 膝の上に乗せられた器から、粥を掬って口に入れる。少しぬるいが、ファーリアスが言うほど冷めてはいなかった。野菜以外にも細かくほぐした白身魚が混ぜられていて、なかなか美味しい。


「エルトールがこれを?」

「そうです。私が作ろうと思ったのですけど、彼に止められたので譲ってあげました」

 作るのは好きなのに、なぜかみんな私を食事当番から外そうとするのです……と不満そうにしている少年は、おそらく相当料理が下手なのだろう。そうでなければ、労働を尊ぶ神官達が葉の子供の仕事を取り上げたりするはずがない。


「……それで、そなたも入るのかね?」

 寝台の隣に無理やり潜り込んでくるファーリアスに尋ねると、彼は当然のように頷いた。

「ええ、そうですよ。ふたりの方があたたかいでしょう?」

「狭いのだが」

「私にも一口ください」

 こちらに口を開けてみせる少年を無視すると、ファーリアスは「ねえ、あーんですよ」と騒ぎ始める。

「風邪が移る。食堂で食べなさい」

「……もう食べてきました」

 ふてくされた顔でファーリアスが呟き、鼻まで毛布に潜って横向きに丸くなった。


「賢者の来訪は、他言無用だ」

 甘えられるのが鬱陶しくなってきて話題を変えると、ファーリアスは毛布の中から目だけを出してこちらを見上げた。

「そうでしょうね、透明になっていましたから」

「何の用であったか、聞きたくはないのか?」

「話したそうには見えないので、結構です」

「そうか」

 彼は誰にでも無遠慮に距離を詰めてくるようで、実際は相手をよく観察し、きちんと引き際は弁えている子供だった。そういう賢い面を持ち合わせているのに、時々とんでもない幼児のように振る舞うのは一体何なのだろうか。


「ファーリアス」

「シャルです」

「……シャル、そなたも」


 共に来るか? と尋ねようとして口をつぐんだ。これだけ才能に恵まれた子供だ、上手くかけ合えば賢者の二人目の弟子として引き取ってもらうことは可能に思えた。或いはマソイも、ヴァスルも、もう少し成長すればハイロも──いや、流石にそこまで多くの人間を神殿から引き抜くことは不可能だろう。


 ならば誰かひとりだけを救い上げるとしたら、ファーリアスを選ぶべきかもしれない。


 ナーソリエルはなぜかそう思うのだった。しかしそれはこの子供を特別好いているとか、そういうことではない。そう、決して私情ではなく、この歪んだ神殿の中で少しも清廉さを失っていないファーリアスの祈りがいつか世界を動かすような、そんな根拠のない予感がするのだ。


 予想ではなく「予感」などと、馬鹿馬鹿しい──


 しかしナーソリエルはすぐにその夢想的な考えを取り消した。隣でうとうとし始めているこの子供は神殿での生活をさほど苦に思っていないようであるし、それはマソイもヴァスルも同じだ。ナーソリエルだけがいつもはみ出しもので、ナーソリエルだけが未だ神殿に馴染み切れずにいるのだ。誘ったところで、どうせ断られるに違いない。


 ため息をついて空になった皿を置くと、畳まれた黒いマントの上に乗せられている文庫本を手に取り、表紙を開いた。ああ、字が読める。聖典を開くのはまだ怖いが、しかし少なくともこの一冊の書物は、ナーソリエルの世界に戻ってきた。


 一冊読み終わってしまうと、部屋の書棚に並べられた背表紙が気になり始めた。大半は研究用の書物だが、それ以外に植物学や音楽理論に関する本も置いてある。手に取って開くと、文字はすんなり頭に入ってきた。嬉しくなってひたすらページの先を追っていると、気づけばもう夕暮れ時になっている。


「……そなた、昼食は」

「食べましたよ、ここで一緒に」

「……そうか?」


 記憶になかったが、確かに空腹は感じていなかった。昼寝をしていたファーリアスはいつの間にか寝台を抜け出していて、部屋の隅の椅子に腰掛けてリュートをぽろんぽろんと爪弾いている。ヴァーセルスから譲り受けた子供用のそれはいつか下の世代の者に譲るよう言われていたが、ハイロは竪琴以外の楽器に全く興味を示さない。ならばこのファーリアスはどうだろうかと音色に耳を澄ましたが、でたらめに鳴らしているだけで何の曲にもなっていなかった。


「練習するのであれば譲るが」

「え、リュートをですか? 結構です、笛の方が好きですから」

「そうか」


 肩を竦めていると、少年がもたもたと慣れない手つきで楽器を片付け始めた。そろそろ食事を取りに行ってくると言うファーリアスを引き留め、寝台を降りる。休養のおかげか熱はすっかり下がり、いつもよりも体は軽いくらいだ。


「夕食は私も下でとろう」

「今日はお魚のスープですけど、食べられそうですか?」

「ああ、問題ない」


 頷いて見せると、ファーリアスは立ち上がっていたナーソリエルにもう一度寝台の端に座るよう指示した。ポーチから体温計を取り出して脇に挟ませ、腕まくりをすると診察の準備を始める。淡い水色に輝いていた瞳がすうっと琥珀色に変わり、魔力の気配がみるみる消えていった。精密な力の操作で患者の体の負担を減らす、水の神官特有の技術だ。


 彼はその状態で丁寧にナーソリエルの喉の奥を覗き込んだり心音を聞いたりしてから、ようやくうんと頷いて階下へ降りる許可を出した。つい先程まで弟か何かのような顔をして一緒にお昼寝がどうとか言っていたのが、突然鋭い医師の顔を見せる。そんな変化を奇異の眼差しで見ていると、彼は「そんなに見ないでください……まだ手際が悪いんですから」と明後日の方向に照れた。むしろその手際の良さが奇妙に見えるのだが、それを話したところでこの少年の普段の言動が引き締まるとも思えないので、放っておくことにする。


「じゃあ、一緒に行きましょうね」

 ファーリアスがさっと差し出した手を横目に、扉へ向かう。そして取っ手に手を掛けて──眉を寄せると、「ねえ、おててを」と騒ぐ少年を捕まえて手のひらで口を塞いだ。


「──静かに」

 押し殺した声で言うと、もごもご言っていた少年がさっと黙った。耳を澄ます。カン、カン、と石の床を叩く規則的な金属音。杖のようなものを突きながら歩く音だ。火の神官は槍を帯に挟んで背負う。水の鳴杖めいじょうは吊り下げられている棒状の鐘の音がキラキラと鳴る。つまり円環杖を携帯する、気の異端審問官の可能性が高い。


「……今からそなたに魔術をかけようと思うが、容認してくれるかね」

 ファーリアスを見下ろして尋ねると、彼は理由を尋ねもせず、即座に笑顔で頷いた。

「ええ、勿論。あなたの魔術が清らかで優しいものだと、私は知っていますから」


 返答に困ったのでそれには返事をせずに、トーガの下に隠してある小物入れからいざという時のための魔石を取り出した。色は漆黒に近い。ナーソリエルの魔力量では大きな術を使うのが難しいため、毎日寝る前に少しずつ、この石に充填してあったのだ。


 小さな水の愛し子に透過の擬態と、魔力の気配を隠す隠蔽の術と、音を漏らさぬ遮音の術を三重にかける。石は水晶のような透明になった。肩を押してファーリアスを部屋の隅へ移動させ、自分は寝台に腰掛けて、息を殺して待つ。


 コン、コン、コン──思ったよりも性急さを感じないノックの音。


「はい」

「枝神官ナーソリエル、監察者の召喚である。戸を開けよ」


 ソロの声だ。


「応じよう」


 戸を開けるや否や、目にも留まらぬ速さで手枷を掛けられた。何事かとナーソリエルが睨めば、鎖の端を握ったソロはにやりと口の端を上げ「監察者の命ですから」と言った。腹の中に変な虫でも飼っていそうなわらい方だ。


「私はつい先の冬に、執行猶予の審判を下されたはずなのだが」

「事情とは常に変動するものです、若枝よ」

「柔軟に変動するを良しとすれば、審判そのものの執行力が減ずるとは思わぬか」

「保守に傾倒すれば善を見失うとも言えます」


 どちらが正しいかわかっていても言い返し辛い、姑息な問答をする男だ。まあこうして鎖を掛けられてしまった以上、言い争ったところでどうしようもないと口を閉ざす。「勝った」みたいな目をされた。腹立たしい。


 大人しく廊下に出て戸を閉めるふりで、そっと部屋の隅を見た。重ねた魔術はこれ以上ない出来で、そこに誰かがいるような気配は微塵も感じない。


 自分が去ったら逃げるようにと念を込めて視線を投げ、ナーソリエルは自室の扉をカチャンと施錠した。





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