四 冬の祝祭



 雨季の祝祭は雨の降り始める四月の一日だが、冬の祝祭は初冬の九月ではなく、地上の山々が冠雪する十月に入ってはじめの新月の日に行われる。


 地底国家であるヴェルトルートの冬に気温の変動はほとんどないが、それでも魔術で作られた空は高く晴れ渡り、星の輝きも強くなる。今夜の中央広場にはそんな僅かな星明かりしか光源はなく、ただ穏やかな風の音だけが聞こえる静かな夜の闇に包まれていた。歩き回って準備を進める神官達だけが小さなランタンを持っていて、ふわりふわりと青白い光が揺れている。しかしその光も、仮に今夜空に満月が顔を出したなら眩しさに目を細めてしまうだろうと、その程度の弱い明かりなのである。皆が闇に目を慣らし、祝祭の始まりを待ち望んでいた。


 しかしそんな夜のひとときに、神官達の間にはどことなくピリピリと緊張した気配が漂っていた。準備の手を進めながらひそひそと「そろそろだ」とか「まだ席には来ていないね」とか、囁き交わしている。そんな声を聞きながら、ナーソリエルは人知れず小さな笑みを浮かべた。


 明日は十年に一度の『月星蝕げっせいしょく三学会』、つまり月の塔、神殿、そして賢者が集って開かれる学会の日だった。今年は神殿が会場になっていて、それ故に今日は月の塔の魔術師達と今代の賢者が前日入りし、祝祭の祝福を受けた上で会に臨むことになっているのだ。


「あ、来たよ」

 隣で門の方を窺っていたマソイが囁いて、ナーソリエルの袖を引っ張る。目を向けると、黒衣の男性がゆったりとした優雅な歩みで広場に入ってくるところだった。


「書架の賢者様……」

 そっと囁く。一歩進むごとにひらりと翻るマントとローブは、漆黒に銀刺繍の縁取りが入った日蝕色だ。気の神官の灰色は淡い影色をした気の魔力を表しているが、賢者の黒はそれとは由来が違う。叡智の神エルフトは夜の神だ。つまり闇の色を纏った賢者は真昼に夜を、無知に叡智をもたらす存在なのだ。


「……私も、いつか黒を」

 思わず呟いて、隣でにやりと笑った気配に気づくと、ナーソリエルは袖で口元を隠しながらあらぬ方向へ目を逸らした。


「ナシルがそんなキラキラした顔してるの、初めて見たよ」

「黙れ」

「私も協力するから」

 ひらりと手を振って、マソイが背を向けると広場の方へ歩いてゆく。眉を寄せてそれを見送ってから、ナーソリエルも広場の端の枝神官達が集まっている方へ向かった。


 一時は少々険悪になっていたマソイだが、ここ最近はナーソリエルの精神が少し安定したのもあって、会えば以前と同じように話すようになった。とはいえ互いに忙しいのでなかなか図書塔で勉強会というわけにもいかないのだが、そんななかでも本の貸し借りをしたり、論文の意見をもらったりと、それなりに充実した関係を築けていると思う。


 広場の端に立って少し待っていると、ゴーンと厳かに紺の刻の鐘が鳴る。それを合図に、ヴァーセルスの奏でる風の竪琴の音色が白い塔の立ち並ぶ神殿を支配した。うとうとしていた種の子供達が目を覚まし、あくびを嚙み殺しながら前奏を聞いて、合唱に澄んだ高い音色を添える。



  フラス=ティエ・ナ=ロサ・イズ・ヴァール

  風の彼方より来たりて天へと昇る

  叡智の神にして冬の神

  エルフトの祝福を今受け取らん

  冷えた風が思考を澄ませ

  我ら世界の真実を垣間見ん

  ユス・アルエ=ティア・ハツェ



 風の竪琴の音はこうして建物の間で反響するような場所で演奏すると、少しだけ鳥の歌声を連想させるような響きをしている。森の木々を風が揺らすざわざわとした音に混ざって、何百もの鳥が一斉に歌うような音楽が耳を通り、頭の奥を揺さぶる。祝祭の音楽は、名付けの儀式の時よりもずっと竪琴の数が多い。広場中央の木の枝に、そして塔と塔の間に張られた縄に、数えきれない数の板が下げられている。ヴァーセルスはその全ての音階を把握して正確に風を操り、ナーソリエルの頑なな心もとろかすような見事な和音を、たったひとりで作り出していた。


 初めの合唱が終わると、すぐにユーシウス神殿長が広場中央に歩み出る。そして淡々とした声で「讃えなさい、この風を。受け取りなさい、神の叡智を」と言いながら大きな顕現陣を描き、集まった人々に祝福を授けた。すうっと頭の中を通り抜けるような不思議な風が吹いて、思考がさっと晴れ渡る。水の祝福が精神を癒すように、気の祝福は頭の中がすっきりして記憶力が向上するのだ。


 音楽の神がエルフト神の娘であるため、気の祝祭は他の季節と違って音楽会の場を別にしない。風の祭典そのものが音楽祭になっているのだ。歌や楽器の演奏を聴きながら順番を待って、緊張で震えるハイロを連れて広場の中央に歩み出る。



  風の神よ、教えて

  どうしてお空には、星が光るの

  どうして冬の湖は、キラキラと凍るの

  雪が白いのは

  風がほおを赤くするのは

  教えて、叡智の神さま

  世界がよく見えるあなたの祝福を

  私にください



 ナーソリエルの竪琴に合わせて、幼い歌声が響いた。緩やかな風が吹き抜けて、周囲に下げられた風の竪琴の板から、鳥が歌うような幽かな音が漏れる。しかし音楽は邪魔されることなく、まるで賑やかな森の木陰で歌っているような幻想的な音色が生まれた。


 研究室で指導していた時から気づいていたが、どうやらハイロが歌うと風が吹くらしい。無意識に何らかの魔法を使っているようだが、本人には自覚がない。風の竪琴をヴァーセルスに教わるように言ってみたが、彼女は指で弦を弾く竪琴の音の方が好きらしく、残念なことにさして興味を示さなかった。


 歌を終えると、感嘆したようなため息があちこちから聞こえた。祝福を願う歌であったからか、カイラーナがにこやかに進み出てハイロとナーソリエルの額にそれぞれ口づけし、対大勢用でない正式な作法で叡智の祝福を与える。あたたかい拍手が響いて、ハイロと二人揃ってお辞儀をすると次の演奏者に場所を譲る。今日のカイラーナは特におかしな目をしていなかったが、広場の端に戻ってからこっそり浄化のハンカチで自分とハイロの額を拭った。





 出番が終わったので、後は黒の刻の終わりまで特に仕事はない。俗世の音楽家も含めて音楽祭は十時間近く続くので、皆好きな曲を聞いた後は食事休憩をとったり、子供達は仮眠をとったりするのだ。ハイロは緊張が解けてぐずり始めていたので、気の庭園に連れて行って冬咲きのラベンダーの茂みのところに置いてみた。ひとりになりたそうだったので距離を開けたが、もう少ししたら仮眠室に連れて行ってやる必要があるだろう。


 ふうとため息をついて、人気のない気の庭園を見渡す。祝祭の音楽はどの季節も美しいのだが、いかんせん人混みは苦手なので疲労がひどい。どうせならば白薔薇が咲いている水の庭園に行けば良かったかと少し後悔してから、まあいいかと座る場所を探し──そしてナーソリエルは目をまんまるくしてその場に立ち竦んだ。





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