第三章 書架の賢者

一 ハイラファーラ



 ファーリアスの顕現術を見てから、ナーソリエルはすっかり神殿が大嫌いになってしまった。


 どいつもこいつも彼と違ってしつこく懺悔する祈りばかりで、神官どもはそれを殊勝と思っているようだが、誰の祈りを聞いても「こんな私をお許しください」「どうか私をお導きください」が語尾につく。私を、私を、私を。そんなに自分が大事なら、その無私の奉仕のような顔をいい加減やめるべきだ。


 そういう思想が煮詰まってしまったからか、顕現陣の研究に全く身が入らず、ついでに言えばカイラーナと顔を合わせると軽い目眩を起こすようになったのもあって、ナーソリエルはここ数ヶ月で少しずつ研究室に行くのを避けるようになっていた。常に苛立っているからか、秋の初め頃からはどことなくマソイとも意見が噛み合わなくなり、冬が近づいた最近は時々情報を交換する程度で、頻繁に図書塔で待ち合わせるようなことはなくなった。


「それで、明日の昼食後は神殿長に呼び出されているでしょう? ナシル……大丈夫ですか、貴方」

「問題ない」


 食堂を出ながらそう言ったヴァーセルスを見返すことなく、ナーソリエルは漠然とした憂鬱さにため息をついた。どうも最近は寝ても覚めても気分が晴れず、読書をすることすら少し面倒になり始めている。どんなに知識をつけたところで、月の塔に手が届かなければ意味がないのだ。本当はこんな場所早く出て、賢者になりたい。賢者になって、あの妖精と薔薇の花について語り合うのだ。それなのに、賢くなれば賢者の塔への道筋が開けるような雰囲気はこの神殿のどこにもなかった。歴代の賢者は一体どうやって神殿から見出され、その位を得たのだろうか。


「……それで、その面談の予定を明日に変更させて、今日は朝から何の用だ?」

「名付けの儀式に向けた面会ですよ、ナシル。夜は儀式です」

「は?」


 ぽかんとして足を止めると、ヴァーセルスは「直前に言わないと、貴方は何かと理由をつけて逃げそうですからね」と意地悪く笑った。


「名付け……私が?」

「まあ貴方は貴方で問題児ですが、子供の教育をすることで少し態度が改善しないかというのが、上の見解ですね。枝神官になったのですから、ある程度は義務ですよ」

「子供の……教育」


 突然降って湧いた悲報にわなわなしていると、ヴァーセルスはふっと笑って更に酷い情報を投げ込んできた。


「それでね、ナシル……その女の子が、まだ三歳なんですよ」

「は? 三歳?」

「ああ、でもこの冬に誕生日が来るそうですから、ほぼ四歳ですね。何でも両親を事故で亡くしたとかで、九つの兄が手を引いて、神殿に保護を求めたのだそうです。妹の方は風持ちでしたので、貴方が割り当てられることになりました」


 それも両親を一度に失ったばかり。面倒極まりない。というより、評判の悪いナーソリエルに面倒ごとを押しつけたのではなかろうか。

「……面会は、もしや今からか」

「今からです」


 頭を抱えたい気持ちをなんとか落ち着けながら、ヴァーセルスと別れて寝室塔の端にある談話室へ向かう。扉をノックすると中からアミラが顔を出し、「待ってたわ」とにっこりした。


「今、お兄さんの方がドノスと顔合わせをしているの。ちょっと声が煩いかもしれないけれど、我慢してね」


 二年前の夏にようやく念願の枝神官になったドノスも、新たに名付けを行うらしい。子供の目の前で「種っ子」と呼ばれたら嫌だなと思いながら、ナーソリエルは肩を竦めて部屋の中を覗き込んだ。


 ソファーの上で縮こまって震えている幼児と目が合う。覚悟を決めて近づいてゆくと、段々と青褪めて目が潤んでくる。大声で泣き出すかと身構えたが、子供はぷるぷる全身を震わせるばかりで泣き出しはしなかった。


「……ナーソリエルだ。そなたの名は」


 一応しゃがんで目の高さを合わせてから尋ねると、子供は更に泣きそうになりながら小さな声で「……リューン」と呟いた。


「リューン、『おぼろな月光』か。美しい名だ」


 そう言われてみれば、白い肌に白っぽい金髪、淡い金色の目をした朧月のような色合いの子供だった。ならばどんな名を与えるのが相応しいだろうかと考えていると、後ろからバシンと背を叩かれる。


「何だ」

「そんな小さな子をどうしてじっと黙って睨んでいるの? お話ししてあげなさいよ」

「……話を」

 思わず渋面になると、目の前の子供の震えが激しくなった。と、彼女の兄と思わしき少年が部屋の反対側から歩いてきて、小さな頭にポンと手を乗せる。


「にいさん」

 か細い声を受けた少年は風変わりな濃い金色の瞳でじっとナーソリエルを観察して、そして妹に向き直り、無言のまま深々とひとつ頷いた。それを見たリューンが少しほっとしたように力を抜いて、こちらを見上げる。しかし目が合うと、再び表情が強張った。


「……ナーソリエルは、お花がすきですか」

「ああ」

「なんのお花がすきですか」

「白薔薇」

「わたしは、すみれがすき」

「そうか」

 再びアミラに背を叩かれて振り返ると、彼女は怒ればいいのか笑えばいいのかわからない顔で「三歳の子に気を遣われてどうするのよ」と言う。


「お、種っ子じゃないか!」

 とその時、面倒な声が割り込んだ。「種っ子」と聞いて、リューンが不思議そうな顔になる。

「ああ、彼は枝神官だけどな、ナーソリエルの愛称の『ナシル』がさ、『ナシア』に似てるだろう?」

 そしてご丁寧にその意味まで説明してやっているが、リューンはどうやらドノスのことも怖いらしく、怯えた顔で小さく頷いただけだった。自分だけが嫌われているのではないと知って、少し気分が良くなる。


「なあ種っ子。この金色のちびっこがさ、一言も喋らないんだ。どうしたらいいと思う?」

「知らぬ」

 一蹴すると、ドノスが「そんなあ」と肩を落とした。それをちらりと見上げた少年が小さく唇を動かしたので、一応通訳してやる。


「『恥ずかしくて、声が出ない』と言っているが」

「種っ子、読唇術なんてできたのか? 相変わらず変なことばっかり知ってるなあ」

「手話のついでに覚えた」

「ああ、そういえば種っ子はイグリアの同期だったか」

 年の近い者が集まって問答をする機会も多いので、イグリアの同期はナーソリエルも含めてほぼ全員手話を習得している。例外は火のエゼクだけだ。


「そっか、ただの恥ずかしがりかあ。なら、これから慣れていけばいいな」

 ドノスが少年の肩に手を回して朗らかに言うと、金の髪に金の瞳の少年は真顔のまま少し俯いた。


「あまり強引に話しかけぬ方が良いのではないか」

「種っ子こそ、少しは親しく話しかけてやれよ」

「──間抜けな言い合いをしていないで、ちゃんと顔合わせしてください!」

 アミラの声が割り込んで、枝神官達は顔を見合わせるとそれぞれの子供達へ向き直った。金色系統の子供が二人、全く同じ反応でびくりとする。小さい方は、また震え出した。


「……なあ、フラナウルってどう思う? 面倒見良さそうだし」

 妹と手を繋いでやっている少年をじっと見つめながらドノスが言った。


「『導きの篝火かがりび』か。良いのではないか」

「えっ、種っ子がそんなに素直に俺を褒めてくれるとは……」

「褒めてはいない。意見を言ったまでだ」

「じゃあ、ちびっこは今日の夕暮れからフラノな!」


 金色の髪をくしゃくしゃに撫で回して、ドノスが少年に言う。少年が首を縦に振るのを確認すると、楽しげに「よしよし、火の神殿を案内してやろう!」と笑って、強引に手を握ると談話室を出て行った。ひとり残された妹が心細そうに兄の背を見つめ、そして青い顔でこちらをちらりと見る。


「……菫の花ならば、地の神殿に咲く。春になったら、見にゆくと良い」

 とりあえずそう言ってみたが、月光色の子供は怯えた顔で僅かに頷いただけだ。幼児の間だけの淡い色彩かもしれないが、この背丈でこの髪の色は小さなエルフを思い出すので、あまり嫌われたくない。


「……ハイラファーラ、という名はどうだろうか」

「……けんせいめい?」

 今度は小さな声が答えた。


「そう、眷星名。神殿内で、神官が互いを呼び合う名だ」

「ハイラファーラ」

「幽かな光の記憶、という意味だ」

「リューンが、月のひかりだから?」

「いかにも」


 子供は、それでいいというように頷いた。かなりほっとしながら「愛称は『ハイロ』だ。今夜より、私もそう呼ぼう」と言うと、それにもこくんと頷く。


「ファーラじゃなくてハイロなの? 女の子なのに?」

 アミラが後ろから文句を言う。


「叡智の祝福が強い子供のようだ。光よりも記憶の名で呼ばれる方が、風の塔に住む者として豊かに生きられるだろう」

「あら、ナシルにしてはちゃんと考えているのね」

「煩い」

 低い声を出すと子供の振動が大きくなったので、気まずくなりながら口を閉じる。アミラのことはそこまで恐れていないようなので、男が怖いのかもしれない。


 しかし、リューンはどことなく自分の幼い頃を思い出すような子供だった。聞いた名を一度で記憶し、古語を訛りなく復唱し、幼児への配慮がないナーソリエルの小難しい口調も理解している。怖がりではあるようだが泣きも騒ぎもせず、兄と引き離されても大人しく座っていられる。むしろ、反論してはすぐに泣いていた十歳のナーソリエルより、しっかりしているかもしれない。


「……よろしく頼む、リューン」

「ナーソリエル……あの」

「何だ」

「種さんって呼んでもいいですか」

「だめだ」


 きっぱり首を振ると、アミラが肩を震わせながら口を手で覆い、こちらに背を向けた。





 夜の名付けの儀式を無事に終え、次の朝。ナーソリエルは少々寝不足になりながら食堂へ向かった。既に食べ始めていたハイロと目が合い、少し背筋を伸ばした彼女が緊張した様子で小さく胸の前で手を振る。と、すぐに面倒を見ていた葉神官に注意され、慌ててぴょこんと頭を下げ直した。


 胸に手を当ててそれに応じると、後ろから軽い衝撃と共に何かがぶつかってきた。見下ろすと、腹に小さな手が回っている。


「ナーソリエル! おはようございます、素敵な朝に水の祝福がありますように!」

「……ファーリアス」


 能天気な少年を引き剥がそうとしていると、ハイロの隣に座っている六、七歳の種神官が「彼の真似をしてはだめよ」と注意している声が聞こえた。三歳の小さな女の子が入ってきたことが楽しくて仕方ないらしく、姉のような顔であれこれ面倒を見ているのを、周囲が微笑ましげに見ている。


 入ってすぐに葉へ上がったナーソリエルと違い、ハイロはまだ種であるため、枝による教育の時間はほとんどなかった。十歳までは皆と並んで集団教育を受け、普段の生活については年上の種神官や葉神官が教えるのだ。つまり、あと六年間は月に一度軽い面談をしてやるのと、あとは何か問題が起きた時に対処するだけで良い。任された時はどうなることかと思ったが、騒がしい子供でもないし、ひとまず嫌なことはなさそうだと安心した。


 朝食を終え、水の塔でファーリアスの問答の補助をしつつ医療の知識をいくつか仕入れ、昼食後に気の神殿長の執務室兼研究室へ向かう。研究棟の上層にあるその部屋は、妖精学の話をするために何度か訪れたことがあった。


「ユーシウス猊下、ナーソリエルです」

 ノックをして呼びかけると、「入りたまえ」と女性にしては響きの鋭い声が聞こえてきた。在室中は施錠されていないので、重い木の扉を押して入る。室内は壁一面が本棚になっているが、その全てにガラス戸が取り付けられている。気の神官の研究室は風を通すために窓を開け放っていることが多いので、突然の風雨で書籍が傷まないようになっているのだ。


「ナーソリエル、そこへかけなさい。汝の抱える問題について、話を聞こう」

 その視線が思いの外厳しくて、ナーソリエルは思わず足を止めた。視線で促されたので、神殿長と向かい合うように準備された椅子へ座る。すぐ目の前にこちらをじっと観察する視線。苦手な距離感だ。


「──体調が悪いのかね?」

「……なぜ」唐突な質問に戸惑う。


「研究を疎かにしている理由だ。今月になって一度しか研究塔で汝の顔を見ていないと、カイラーナから聞いた。体調が悪くて、研究室へ行けずにいるのかね?」

「ええ……少し」


 目を逸らして頷いた。カイラーナがナーソリエルの顔を見ていないのはナーソリエルが彼を避けて研究室へ通っているからだが、とはいえどことなく体の調子が悪いのも事実だ。


「ならば水の神殿で診察を受けなさい」

「……はい」

「しかし」

 こちらを見据えるユーシウス神殿長の表情が急に鋭さを増し、ナーソリエルは居心地悪くそれを見返した。


「それとこれとは話が別だ。命に関わる病の最中でも書を開き、ペンを取るのが気の務め。学ばぬことは許されぬ。汝も枝神官ならばその自覚を持ちなさい」

「はい」

 はっきりとした意志と声音に少し感化され、ナーソリエルは珍しく素直に頷いた。学ぶことの楽しさと知識への渇望を一瞬思い出したような気がしたが、しかしすぐに思考は霞みがかったように遠くなり、結局よくわからないやる気の残骸のようなものだけが残った。


「賢者を目指していると言っていたな」

 しかし神殿長の追及は続く。

「ええ」

「なぜだ」

「なぜ……」


 突然ふらりと目眩がして、ナーソリエルは片手で額を押さえた。しかしここで答えないわけにもゆかないので、バラバラと崩れる思考を丁寧に組み立て直して考える。


 なぜ、私は──


 あれから、もうじき八年が経つ。花の妖精ともう一度並んで花を眺めたいという幼い願いは最早ナーソリエルの原動力にはなっていないのだと、彼はこの時初めて気づいた。小さかったエーリュミルも、もう九歳かそこらになっているはずだ。ナーソリエルのことなどもう覚えてはいまい。そう、どだい無理な話だったのだ。はじめから、全てが。


「私は……全てを知りたいのです」


 静かな落胆が過ぎ去って、腹の底から燃え上がるような悔しさがナーソリエルの思考を支配した。眉を寄せてそれを押さえつけ、神殿長の瞳を見つめ返す。黒い炎が全てを焼き尽くすような心象風景と共に、霞んだ思考が晴れ渡ってゆく。

「……全てを?」試すような問い。


「ええ、全てを」

 世界の美しいものを片端から全部。そしてこの神殿に巣食う、黒く淀んだ何かを隅々まで。人が捻じ曲げてきた祈りの歴史を暴き、奇跡の力を解剖し、そしていつか──


「良かろう」

 神殿長が言った。神官らしからぬ不敵な視線が、穿つようにこちらを見る。

「良い顔つきになった。ならば私が汝の知を、叡智の域まで高めてやろう。言葉を受け継ぐ者よ、私のこの頭脳に蓄積された言葉の全てを汝に授ける」


 少し面食らって、しかしナーソリエルは口の端で笑みを浮かべた。それはなかなか魅力的な提案だ。


「ナシル、全てを知りたいと言ったな」

「ええ」

「その言葉、嘘とは言わせぬぞ」

「叡智の神に誓って」


 小さな祭壇に飾られた叡智の神の像を見上げて言う。窓から入って髪を揺らした風から、幽かに花の香りがした気がした。





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