四 音楽会



「──清らかな朝、雨の季節の始まりに祝福あれ」


 しずしずと歩み出た水の神殿長が、優しい声で祝祭の始まりを宣言した。すると広場に集う人々が跪いて祈りの姿勢をとり、それと同時に端に並んだ水の枝達が一斉に鳴杖めいじょうを振ってシャラランと音を鳴らす。小さな金属の棒が複数ぶら下げられた杖は、雨粒がきらめくような美しい音を奏でた。音色が消えないうちに広場の端の三十の雨壺へ、神官達が握った拳から水滴を落とす。水の滴る微かな音色が音階を得て反響し、ぽたりぽたりと世にも神秘的な音楽が生まれた。


 

  ユス・アトア=スル・ハツァ

  オーヴァスの祝福が我らの上に降り注ぐ

  それは雨のように

  そして海の如く神は我らを受け入れ

  我らは清められ、癒される

  その恵みに我ら感謝を歌わん

  ユス・アルエ=ティア・ハツェ



 神官達が一斉に歌った。神殿ごとに音階の違う、複雑な五重唱だ。神殿学校の子供達を含めた俗世の民も歌詞を覚えている者が多く、水達と同じ主旋律を口ずさんでいる。


 曲の旋律の終わりと共に、湖の中央に立った神殿長が鳴杖でシャランと広場中央の地面を突いた。すると清らかな水色の光が広がって高く立ち上がり、広場に集う全ての人々の全身が浄化される。


「我が手を通じて、神は祝福を与えられた。神の清め、そして癒しを汝らは受け取った」

「ユ・アテア=ティア・ハツェ」


 神殿長の宣言に続いて、古語で詠唱する。するとワッと歓声が上がって皆が立ち上がり、全身に雨を浴びて祝祭の始まりを喜んだ。と、そこで水の神枝長が進み出て、水らしい穏やかな笑みで群衆に語りかけた。


「常ならば癒しの儀に移るところですが、ここでひとり、新たな水の愛し子の披露目を行います。『真上の国』フォーレスに見出され、その類稀なる祝福の豊かさ、そして幼くして医療を解する聡明さによって、この根源中央大神殿へと招かれました──葉神官ファーリアス、ここへ」


「はい」

 幼い声が応え、広場の端から髪に白薔薇の葉を飾った少年が歩み出る。あれが通訳を任されたファラかと、ナーソリエルはかなり気後れしながらその姿を見つめた。


「ご挨拶の時をいただきました、水の葉、ファーリアスと申します。愛し子とは身に余る光栄に存じますが、癒し清める使命を果たさんがため、一心に神へお仕えいたします」


 覚えた台詞をなぞっている様子だが、それでも決して棒読みではない凛とした声が響く。少し訛りはあれど、聞き取りやすいヴェルトルート語だ。「ファラ」というくらいだから少女かと思っていたが、どうやら男の子であったらしい。音楽会の後で引き合わされると聞いているが、ひとまず馬鹿ではなさそうで安堵した。


「……身に余ると言っているけれど、愛し子の中の愛し子といった感じだね」


 隣のトルスがそっと囁いた。無言で頷く。「愛し子」とは生まれながらにして世界神から豊かな祝福を得た者、つまり彩度の高い魔力を持つ者のことを指すが、ファーリアスはその中でも明らかに特別な様子だった。瞳は澄んだ水色の光を放っていたし、全身から淡い霧のように青い魔力の光が滲み出ている。魔力量が多く、体表の魔力経路が緻密である証拠だ。要するに、魔法や魔術、あるいは顕現術を使うのに申し分ない体質をしている。


 その力に少々嫉妬しながら眺めているうちに、少年神官は一礼して下がり、再び神枝長が進み出た。

「ではこれより、癒しの儀を執り行います。必要とする者はこのまま広場で、そうでないものはそれぞれの街の祝宴へ、もしくは神殿の音楽堂へ向かいなさい。雨の日を迎えた汝らに豊かな祝福があらんことを」


「雨を浴びる皆に、オーヴァスの祝福があらんことを」

 神枝長の言葉に声を揃えて挨拶を返し、俗世の子供達が神殿の外に向かって走り出した。森を抜けた街ではそれぞれの地区ごとにご馳走が用意され、民達はそこで歌って踊り、食事と酒を楽しみながら祝いの日を過ごすのだ。


 種の子供達がそれを羨ましそうに目で追って、葉達に促され、各々の持ち場へと移動してゆく。水の神官はその場に残り、病や怪我を持つ者へ癒しの術を使い始めた。


「じゃあ、私は癒しの方の手伝いだから」

 トルスが微笑んで足早に中央の方へ向かい、治療を行う水の神官達の補助に入った。癒しの術そのものは使えなくとも、疲れた神官達に魔力を込めた魔石を渡したり、足を痛めている者へ手を貸したりと、意外と水以外の人手が必要だ。マソイは祝祭後の神官達の食事を用意しに、寝室塔へ去っていった。


 二人を見送ったナーソリエルは音楽堂の方へ向かい、途中でヴァーセルスと合流した。本格的に祈りの歌が始まるのは癒しの儀がひと段落してからだが、それまでは通称「神殿楽団」と言われる有志の集まりが演奏して場を繋ぐのだ。


「リュートの具合はどうですか」

 隣に並んだヴァーセルスがにこりとして尋ねる。もうすぐ音楽会なので、機嫌が良い。


「まだ少し慣れぬが、音が深くなったように思う」

「ええ、私もそう思います。来年には弾きながら歌うのも良いやもしれません」

「曲の総数を増やさぬと約束するのならば」

「おや、残念。先手を打たれてしまいました」


 背が伸びたので、成人した昨年の冬から大人用のリュートを使っていた。まさかあのヴァーセルスが「誕生日の贈り物」なんて言葉を口にするとは思わずに面食らったが、不覚にも顔が緩んでしまって、その後しばらく「あの時は可愛らしかったのに」とからかわれた。


 音楽堂へ着くとすぐに控えの間へ入り、控えていた火の神官に濡れた服を乾かしてもらうと、昨夜のうちに運び込んでおいた楽器を取り出す。しっとりと艶やかな黒檀色に塗装され、貝細工で風の祝福紋が描かれている。触れて魔力を流せば、広い場所でも遠くまで音が響くのだ。音楽会で使われることを前提とした仕掛けなのはなんとも言い難いが、しかし、神殿らしからぬあたたかな「贈り物」という響きに、自分でも認めたくはないが、やはり心が疼く。


 そんなことを考えながら部屋を出て、舞台の下に並べられた椅子へ座り、調弦を合わせるとヴァーセルスの指揮に合わせて先程歌った水の讃歌を合奏する。楽器を雨に晒さぬために音楽堂には屋根があったが、薄い人工水晶の板が使われているため、内部は明るかった。


「ナシル、そろそろ」


 そしてすぐに、そう言われてしまった。まだほんの少しの時間しか経っていないように思っていたが、よく考えるともう十曲近く演奏している。顔を上げると水の神殿長も観客席に座っていて、ナシルは渋々立ち上がって控えの間へ戻った。外部から招待された歌手や演奏家もいる中で、ナーソリエルは一番最後に歌を捧げることになっている。流石に専門の音楽家の方が歌も演奏も優れているようにナーソリエルは思うのだが、祝祭の音楽は神に捧げるためのものであるので、最後は神殿の人間が締めくくるのだ。


 帯の端をいじりながら気もそぞろに全てを聞いた後、とぼとぼとならないよう気をつけながら、王宮楽団の竪琴奏者と入れ替わりで舞台へ上がる。人の視線に囲まれて足が竦みそうになるが、頭に鎮静の魔法を巡らせてじっと耐えた。


 ヴァーセルスのリュートを伴奏に二曲歌い、伴奏なしで二曲歌い、最後は水の神官達の雨壺で歌う。ぽたりぽたりと幻想的な雨音が響き始めると、その静かな音色に音楽堂は静まり返り、神聖な空気が生まれる。真剣な視線が突き刺さり、声が震えないように更に強く魔法を巡らせた。



  フラス=ティエ・ナ=ロサ・フュム

  泉より来たりて天へと昇る

  そそぐ雨は雲へと還り

  そしてまた、清らかな祝福が降る


  水は天地をめぐるもの

  めぐる水の祝福を受け

  我らもまた、慈悲と恵みをめぐらせん

  嘆くものに手を差し伸べ

  泥を洗い、傷を癒す


  そそぐ雨は雲へと還り

  そしてまた、清らかな祝福が降る

  フラス=ティエ・ナ=ロサ・フュム

  泉より来たりて天へと昇る



 雨壺の最後の音が消え、そして天井に降る幽かな雨音だけが残った。耳が痛くなるような喝采が沸き起こり、ナーソリエルは一礼してそそくさと舞台を去ると、控えの間の隅にうずくまって膝を抱え、丸くなった。帰り支度をしていた竪琴奏者が驚いたようにこちらを見たが、ヴァーセルスが「お気になさらず、彼はいつもこうなのです。病的な恥ずかしがりでして」と言うと、くすりと笑って「すごく良かったわよ、気の坊や」と声をかけ、控えの間を出ていった。


「……もう枝なのですから、いい加減その癖も直したらいかがですか? 子供っぽいですよ」

「……うるさい」


 蚊の鳴くような声で言い返すと、頭をポンポンと触られた。膝に顔を伏せたまま払い除けようとしたが、避けられる。


「最後の曲が終わったらここに来るよう言ってありますから、もうすぐファラが入ってきますよ。初対面がその恥ずかしい格好でいいんですか?」


 そう言われたので、トーガの端を両手で握りしめながら立ち上がった。最後の一曲を歌うことを、つまり雨壺の伴奏で歌えることを少しは楽しみにしていたが、緊張のあまりその体験はほとんど記憶に残っていない。


 深いため息をつく。もう既に心が折れているのに、今から新入りの少年に紹介されるなんて真っ平御免だった。しかしいじけていても時間は待ってくれない。無情にもそれから程なくして扉がノックされ、開いた扉の隙間から小さな茶色い頭がひょこっと覗いた。





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