三 挨拶の歌



 コツコツと靴音を響かせて階段を下りていると、先を歩いていたヴァーセルスが前を向いたままぽつりと言った。


「……歌を教わったことが?」

「いえ、講師をお招きしていたのはハープとフルートだけです」


 首を振る。するとヴァーセルスは振り返ってナーソリエルの顔をじっと見つめ、そしてふいっと前へ向き直った。

「ならば、あなたは歌になさい」

 そう言って再び歩き出す。


「歌にする、とは」

 首を傾げると、それにはドノスが答えた。

「神殿に入ると、何かひとつ楽器なり歌なりを選んで学ぶんだ。儀式には音楽が欠かせないし、それ以外にも季節の祝祭では音楽会が開かれる。ああ、舞をやるやつもいるな。因みに俺は横笛を吹くが……まあ才能がないから、葉までで終わりだな。枝になったら『火竜』に入るんだ」


 火竜とは、火の神官達による神殿救助隊の通称名である。火災を中心とした災害や事故の現場からの人命救助や、自警団の手に負えない犯罪者の鎮圧、魔獣の討伐まで請け負うこともある。確かにこの元気が有り余っていそうな男には似合いかもしれないと、ナーソリエルは冷めた気持ちで頷いた。


「枝の試験に受かりたくば、夢を語るよりも勉学に励みなさい。ご自分を『俺』と呼ぶ癖も直すように」


 ヴァーセルスがピシャリと言った。苦笑いしたドノスが「実技は問題ないんだが……どうも紙の試験の方がな。神々だけならまだしも、月の名前まで覚えるとなると……」と言う。物心ついた時から一度聞いた話は忘れないナーソリエルには理解のできない悩みだ。反応に困る。


「あっ、どうせ種っ子はもう覚えてるとか言うんだろう? じゃあ問題だ──嵐の神を示す月の名は?」

「第四気眷月きけんげつイヴァ」

「惜しいな、イヴィエだ。種っ子もまだまだだなあ」

「まだまだなのは貴方です、ドノス。第四気眷神きけんしんイヴィエの現し身たる第二十六衛星は、第四気眷月イヴァだ。つい今しがた神殿入りしたばかりの子供に負けていてどうするのです」

「……弱ったな」


 ドノスが困った顔で笑いながらいきなりナーソリエルを抱え上げた。今度は話している最中だったのでしっかり彼の方を見ていたが、それでも驚いて息を呑んでしまう。


「ですから、声をかけてから抱いて差し上げなさいと」

「はは、忘れてたよ。上りの方が息が切れるが、下りの方が案外体力を使うからな。今日はこのくらいで休むといい」

「……感謝いたします、ドノリエス」


 呟くと、爽やかな笑顔が返ってくる。

「このくらいなんでもないよ」

「『神のお望みですから』もしくは『そのお気持ちは我が神へ』とおっしゃい、ドノス」

「おっと、手厳しいな」


 十歳にもなって抱き上げられて運ばれるのは非常に居心地が悪いが、とはいえ四十階分の階段を往復できるだけの体力もない。せめて背負ってくれないだろうかと思うのだが、自分の体を強化できる内炎術の使い手は、歳のわりに長身なナーソリエルを片腕で抱えていても疲れなど感じないらしい。


 地上に着いたところで降ろしてもらい、そして月桂樹とラベンダーが美しい中庭を通って敷地の端の方の建物へ向かう。並び立つ二本の塔の下半分が繋がっているような不思議な造りのそれは寝室塔と呼ばれているらしく、まるで絵画のように幻想的な造形の建物に部屋をもらえると思うと、少しわくわくする。


 内装はどんな様子なんだろう……。


「下層には食堂や医務室、リネン室など、男女共通で使用する部屋があります。二つに分かれた上層は左が男子塔、右が女子塔です。個人の部屋と、真ん中のあたりにそれぞれ大浴場があります」

「水の神殿があるのに、医務室があるのですか?」

 不思議に思って尋ねる。癒しと浄化の神オーヴァスに仕える水の神官達は皆優秀な医師で、敷地内には国一番の治療院があるはずなのだ。


「医務室といっても、薬の類が置かれているだけで無人です。自分で手当てできる程度ならばそこで済ませます。ただ昼間はこちらではなく、できるだけ水の神殿を訪ねてください。軽度の不調は水の子供達の良い練習台になりますから」

「わかりました」

「ヴァスル、俺はそろそろ行くが……今そんなに纏めて説明しても覚えきれないよ。とりあえず今夜の部屋に案内してやるといい」

「おや、覚えきれませんか?」

「いえ、まさか」


 視線を向けられたので答える。するとドノスが苦笑して「賢いのはいいことだが、種っ子はもう少し感じ良く話せるようになろうな?」とナーソリエルの頭に手を乗せた。


「不躾でしたでしょうか。しかし気の神殿へ入るならば──」

「ああ、うん。理屈だけじゃなくて……今度ほら、水の神にも祈ってごらん。そうしたら種っ子もきっともう少し優しくなれる」

「私は──」

「じゃあ、また」

「ありがとうございました、ドノス」


 手を振るドノスにヴァーセルスが声をかけ、つい礼を言い損ねたナーソリエルを冷たく見下ろした。

「行きますよ。部屋で着替えた後、皆に紹介します」

「……はい」


 とぼとぼと塔の中を歩いて、大きな階段が左右にひとつずつある部屋まで来る。向かって左の階段を上がると途端に真っ白な壁が灰色になり、狭い通路と短い階段、淡い茶色の木の扉が入り組んだ薄暗い迷路のようになった。落ち込んでいたのを忘れてきょろきょろすると、ヴァーセルスは「もう少し上です」と呟いて先を歩き始める。


「今夜は個室の空き部屋に寝台だけ運び込んであります。明日の試験を終えたらそのままそこがあなたの部屋になりますので、明日以降、同期の葉神官と必要な家具を入れると良いでしょう。ああ、それと衣装も……十歳以上の種神官の装束は五歳で入った子供達と違い、丈が短くありません。葉神官から帯とトーガを取っただけですので、昇位の儀の後にそれらを追加で与えられることになりますね」


 試験に通ることを前提に話しているような口調に少し違和感を感じながら、小さく「落ちるかもしれません、私の思想には問題があるようですから」と呟いてみる。しかしヴァーセルスはそれを無視して扉のひとつの前に立ち、懐から装飾の美しい真鍮の鍵を取り出すと、鍵穴に差し込んで開けづらそうにガチャガチャ回した。ギィと強く軋む音を立てて扉を開けると、引き抜いた鍵をナーソリエルの手に握らせる。


「鍵はその袋に入れて首に掛けます。常飲している薬がある場合はそれも」

 そう言われて、抱えた着替えの一番上に乗せられている小さな布の袋を見下ろす。灰色の布地に黒で円が縫い取ってあった。下の方には「ナーソリエル」の名前も。


「──ナシル、気の神殿が円環を象徴とする理由をご存知ですか」

 唐突に尋ねられてきょとんとしたが、おずおずと答える。


「エルフト神は魔法陣、ではなく……その原型となった顕現陣を人間にもたらしたと言われている神です。紋様を描くことで本来なら魔法、いえ、祝福の力を使えぬ体質の人々が、力を扱えるようになった。その人智の及ばぬ神の智を讃えて、陣の周囲を囲み閉ざす円環を、我らが叡智の神の象徴としました」

「良いでしょう。では第四地眷神ちけんしんの名は」

「誕生の女神ハケア」


 質問の意図が読めないまま反射的に答えたナーソリエルに、ヴァーセルスはほんの少し唇の端を持ち上げて言った。

「本来なら十歳の冬になるだけで上がる階位です、種から葉になる程度で思想の良し悪しまではうるさく問われません。風の塔での問答ひとつ取っても、相手が私でなければ試験を免除になっていたことでしょう──種から葉までの間、貴方の指導役は私になりますから、試験官としての権限を有していないのです」

「そう、なのですか」


 彼が指導役なら、いつかあの不思議な笛の演奏を教えてもらえるかもしれない。ナーソリエルはそう思って少し嬉しくなった。冷たい目をしたヴァーセルスのことはとても好きとは言えなかったが、しかしあれを学ぶことができるのなら、少しくらい嫌われていても我慢できる。


「ええ、そうです。では、脱いで」

「……え?」

「着付けを教えます。着方に順序があって、正しく着ることで守護を願うひとつの祈りが完成するようになっているのです。下着も決められたものを着ますから、全部脱いで」


「……えっ」

 かあっと頰に血が上ってナーソリエルはおろおろした。ヴァーセルスはそれをじっと見て眉間にしわを寄せ、困惑したように首を傾げる。


「……まさかとは思いますが、女の子でした?」

「……はい?」

「いえ、男子だと聞いていましたし、ナーソリエルは男性名ですが……もしや手違いであったとか」

「……男です」

「そうですか。ならば傷跡など、体を見せたくない理由が?」

「……いえ」


 理由などない、恥ずかしいだけだ。嘘をつくわけにもいかないので、絶望感でよろよろしながら首を振る。と、あまりにひどく嫌がっているからか、ヴァーセルスは服を体の前に当てながら一通り着方を説明すると「下着を着けたら呼びなさい」と言って部屋の外へ出てくれた。ほっと安堵の息をついて、そういえば入浴は皆で共通の浴室を使うのだったと青褪める。


「……我が神エルフトよ、守護の女神フランヴェールよ、この衣を着け、祈りを捧げる私に守護をお与えください」

 下穿きの紐を結びながら祈る。蝶結びの羽が四枚になるような変わった結び方だが、先程見せてもらった手本通りにやればそれほど難しくない。


「誘惑に挫かれぬ強き心を、慈悲深く信念ある思考を」

 尻の下まである薄い肌着を被る。質素な布だが、織りは柔らかい。


「……できました」

 声をかけると、扉の前で待っていたヴァーセルスが入室してきた。肌着の裾を捲って結び目を確認すると、頷いてズボンを手渡してくる。そのまま彼の前で祈りの続きを唱えながら残りの服を着た。下着は心の守護を、上着は体の守護を願って着ると、最後に「その祝福に見合うよう生きることを誓います」と締める。


「階位が上がるごとに少しずつ言葉が増えます。初めは守護を願うのみですが、段々と神のために身を捧げ、俗世に救いや恵みを与える者としての誓いの言葉が入るようになるのです」


「……与える者」

 絶対自分には向いていない、と思って肩を落とした。すると厳しい声で「神官たるもの、与えることを渋るようではいけません」と言われてしまう。そういうことではないのに、どうにも伝わらない。


「与えようと思っても……皆、嫌な顔をするのです」

 呟いたが、ヴァーセルスには聞こえなかったらしい。彼は扉を開けると「皆へ紹介します。挨拶の言葉を考えておきなさい」と言って歩き出してしまった。


 皆へ、紹介……。


 まだちっとも心の準備ができていなくて、早足で追いかけながら必死に心を整える。皆に挨拶……皆って気の神官全員だろうか? それともまさかスティラ=アネス神殿の全員? 一体何人いるんだろう?


 先程上がってくる時に見かけた、多目的広間のような場所に案内される。階段を降りたところに気の葉神官と思われる少女が二人立っていて、こちらを見てにこりとすると広間の方に何か呼びかけた。ざわざわとしていたのが静まって、中へ入るように促される。


「新たな種が落とされました。言葉を受け継ぐもの、ナーソリエルです。彼が芽吹き、すくすくと育つよう、歌で迎えましょう」


 広間の中で優しげな声がした。この声はおそらく、名付けの儀式を取り仕切っていた神枝長カイラーナだ。



  風吹く丘で 種を育てよう

  我らと共に 祈る仲間

  その枝が星に届くよう

  この歌で迎えよう



 何重唱なのか数えられないような複雑で美しい合唱が響いて、ナーソリエルは目をぱちくりとしながら広間に踏み入った。全員灰色の服だ。数十人の視線が一度にこちらへ向けられ、実家の舞踏会を思い出す。注目を浴びながら、皆様の前でお披露目のご挨拶──つまり、ナーソリエルが一番苦手な状況だ。いや、ダンスがないだけましではあるかもしれない。


「ナーソリエルの名を授かりました。星に届く枝葉を伸ばせるよう努力いたします。どうぞお見知り置きくださいませ」


 緊張に引きつった声で言い、胸に手を当てて頭を下げる。顔を上げると皆が興味深げにこちらを見つめていて、ひとまず気分の悪そうな顔をしている人間はいない。なんとかやりきったかなと思って壁際に下がろうとすると──


「皆の歌に応え、ナーソリエルからも一曲捧げるそうです」


 ヴァーセルスがそんなことを言い出したので、ナーソリエルは「えっ!」と声を上げて彼を振り返った。笛が上手な枝神官は肩に掛けていた鞄からいつの間にかリュートを取り出していて、椅子に腰掛けて音を合わせ始めている。


「ヴァーセルス、私は、そんな」


 皆の前でひとりで歌うなんて冗談じゃない。なんとか逃れようとヴァーセルスに歩み寄ったが、彼は何食わぬ顔で前奏を弾き始めながら「泉の讃歌なら歌ったことがあるでしょう」と言う。確かに、冬の祝祭でよく歌われる曲だ。


 くるりと振り返って群衆を見つめ、助けを求めてカイラーナを見る。すると優しげな神枝長はにっこりと頷いて、片手で丁寧にナーソリエルを皆の正面へと促した。前奏部分が終わったが、巧みな編曲で二度目の繰り返しに入る。止まる様子はない。


 逃げ場がない──


 足首まであるローブの腹のあたりを握りしめ、追い詰められたナーソリエルは泣きそうになりながらもう一度だけヴァーセルスを振り返った。前奏は三度目に入り、目が合った彼は「早くなさい」という顔で眉を上げた。


 無理だ、逃げられない。涙目で姿勢を正して、息を吸う。



  メル・サーリア・イオラ

  聖なる泉よ

  叡智の湧きいでし夜の泉

  差し込むは星明かりのみ

  満ちる大気は冬のつめたさ


  霜が降り 粉雪が舞う

  冷えた風に冴え渡る

  明日をも見透かす神の叡智

  メル・サーリア・イオラ

  聖なる泉よ



 最初の一声は震えたが、自分でも意外なことにそれはすぐ落ち着いた。歌に寄り添うような美しいリュートの音色のせいだろうか、音のよく響くこの広間のせいだろうか、こんなに人がいるのに歌うことが楽しく感じて、そんな自分が少し不気味なくらいだ。そよ風が吹き抜けるように声が伸びやかに響いて、とても心地良い。


 短い歌を終えて小さな満足の吐息を漏らすと、見渡す限り目を丸くしてぽかんと口を開けた間抜けな顔が並んでいた。それにぎょっとして慌てて礼をすると、小走りにヴァーセルスの元へ戻る。


「──それでは皆、今日はもう遅い。気の祝福と共に良い夜を」


 ちょっぴり楽しそうな顔で微笑んだヴァーセルスが言って、片手でリュートのネックを掴むとナーソリエルの手を引いて広間の外に連れ出した。


 二人が上の階へ続く階段に差し掛かるくらいのところで、わあっと大きな歓声と拍手の嵐が塔いっぱいに響き始めた。





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