第一章 数多の星々

一 神殿へ



 残された時間は瞬く間に過ぎ去り、迎えた十歳の誕生日の朝、リースは朝食の席でシラ・ユールという名をもらった。


 貴族の子供は十になると、成人後もずっと使う大人としての名前で呼ばれるようになる。その他にも過去の偉人や御使いから取った仰々しい名前をたくさん与えられたが、一番大切な、個人としての名はこのふたつだ。母が選んだのだと聞いたが、美しいばかりで一切口を利かない上に筆談もしない母と、どのようにしてそこまで具体性のある意思疎通を図ったのだろうか。ありがとうございますと伝えると、母は全く何の感情も浮かんでいない顔のまま、そっと人差し指の先でシラの額に触れた。


 このような人に育てられたものだから、シラはすっかり微笑むことが下手な子供に育ってしまった。いや、きっとそれは言い訳に過ぎないのだろう。何しろ、兄はシラや母と違っていつだって馬鹿みたいに楽しげに笑っているのだから。父は始終しかめっ面を張り付けている人だし、兄は一体誰に似たのだろうか。叔父か、祖母か、それとも単に反面教師というやつだろうか。


 そして十歳の誕生日を迎えた午後一番で、シラ=ユールの名は奪われることになった。


 俗世の全てを捨てることになる彼には、神殿から新たに「ナーソリエル」という名があてがわれるのだそうだ。灰色の服を着た礼儀正しい迎えの神官に連れて行かれる彼に対して、少しでも名残惜しそうにしたのは兄だけだ。父も母も、そしてシラ本人さえも温度のない視線を交わしているなか、ただ兄のハールだけが掠れた声で「さようなら、リース」と呟いた。


「……さようなら」


 少し困ってから同じ言葉を返すと、青い目が溶け出しそうに潤む。面倒だから、あまり感傷的なのはよしてほしい。もう今年で成人なのに、全く情けない兄だ。いや、そんな彼も今日を最後に兄ではなくなる。神殿に入った者は皆、家族を捨てなければならない。そのような愛着は、神に全てを捧げてお仕えする邪魔になるからだ。


 背を向けて数歩歩き、そしてもう一度だけ振り返る。白い壁に青い屋根。薄紅色の薔薇は真冬の今は咲いていない。しかしそれでも贅を凝らして建てられた花爵家の邸宅は美しかった。その前に佇む、厳格な父、美しい母。彼らに肩を抱かれた、才能あふれる優秀な兄──


 いや、違う。シラが家族を捨てるのではない。家族が、彼を捨てたのだ。魔術の名門に生まれておきながら魔力の少ない彼を、屑籠に投げ込むように、神殿へ捨てたのだ。





 シラを迎えにきた神官はヴァーセルスと名乗った。灰色服なので気の神殿の人間だ。丁寧な身のこなしで神殿の白い馬車に乗り込み、隣に座るよう手招きする。


「神殿に着くまでの間、少し説明をしておきましょう」

「はい、ヴァーセルス」

 返事をすると、ヴァーセルスは軽く頷いてやわらかく微笑んだ。


「そう、枝神官ししんかんである私のことはそのように呼んでください。私はあなたを……今夜の儀式で眷星名けんせいめいを得た後は『ナシル』と呼びます。階位が下の者は上の者を正式な名で、同位か下の者に対しては愛称で呼ぶのです。これは戒律ではありませんが、そのような文化が出来上がっていますので、貴方もそのように振る舞うと良いでしょう」

「……まだ儀式を執り行っていないのに、既に私の名が決められているのはなぜですか」

「儀式の中で神から授かるということになっていますが、実際のところは我々神官一人ひとりに対して神託があるわけではありません。あなたを手放すご家族にお伝えするために、また今のように貴方へ説明するために、事前に決めておくのです」

「そうなのですか」


 流石は大気と叡智の神エルフトを祀る気の神殿の神官だ。建前に固執することなく、理路整然と質問に答えてくれる。思ったよりも悪い暮らしにはならないかもしれないと考えて、シラは深く沈み込んだ気持ちを少しだけ上向かせた。


「多くの子供達のように五歳から神殿入りした者は『たね』となりますが、貴方のように十歳、或いはもっと上の年齢から神の僕となった者は、試験を受けて『』に階位を上げることができます。あなたと同じ年頃の子供達は十歳で葉神官ようしんかんになりますから、早めに合格しておくと気の合う友も見つけやすいでしょう。第一回の試験は明日の午前に用意してあります」

「感謝いたします」

「神のお望みですから。ふむ、『感謝いたします』と丁寧に言ったのは良いですね。世俗育ちですと、乱暴に『ありがとう』という子供も多いですから。ただ、もう少し優しく微笑みを浮かべながら言えるともっと良いでしょう。神の僕たるもの、他者から冷たい人間だと思われるような表情を浮かべていてはいけません」


「幼い頃に随分と練習しましたが、どうにも私は作り笑いができないようです」

 そう言うと、ヴァーセルスは一瞬だけ僅かに気分を害したような顔をして「作り笑いではなく、心から微笑むことができるようになりなさい」と言った。


「それも難しいです。しかし、努力はいたします」

「ええ、そうなさい。しかし『努力いたします』と素直におっしゃい」

「……努力いたします」


 嫌われたな、と思って再びどんよりと気落ちする。みんなそうだ。一見にこやかで優しげだった人もシラのこんな話し方や、つい矢継ぎ早に質問してしまう人となりを知った途端に、瞳の奥が冷たくなる。しかし、自分はそんなに嫌な性格をしているだろうか。いつでも馬鹿みたいにへらへら笑ってだれにでもおべっかを使う方が、よほど嫌な人間ではないのだろうか。しかしそれを口に出すと、人はもっともっと嫌な顔をするのだ。そしてその次はこんな顔になる。「なんて嫌な子供なんだ」、或いは「なんて面倒な子供なんだ」──


 とはいえ流石は聖職者、ヴァーセルスはその後すぐに気を取り直したように優しい笑みに戻り、生意気な子供に対する嫌悪感などおくびにも出さず、神殿での生活について説明を再開した。貴方とて作り笑いではないか、という言葉は辛うじて呑み込む。彼によると「葉」の試験に受かれば寝室塔と呼ばれる寮のような場所に個室を与えられるらしく、それを聞いて心底ホッとした。相部屋なんて、絶対にやっていけない。


「今夜は空き部屋に寝台を準備してあります。明日の試験の結果を受けてから貴方の部屋を決めますので、そのつもりでいてください」

「わかりました。手配に感謝いたします」


 丁寧に礼を述べて、口の端をいびつに持ち上げる。ヴァーセルスは「本当に苦手なのですね」と呟いて、ちょっとおかしそうに笑った。先ほど地に落ちた印象が少し持ち上がっただろうかと考えて、そんな自分に嫌気がさす。媚びるのは嫌だ。けれど……嫌われるのも好きなわけではない。どうしたら、叔父のように誰とでも上手くやれるのだろうか。どんな精神構造を構築すれば、彼のように誰にでも「ありがとうな」と言って心からにっこりできるのだろうか。





 どんより考え込んでいる間に夕暮れ時になり、そして馬車が止まった。白馬の引く二頭立ての小さな白い馬車を降りると、深緑の森を背景に白一色の神殿がそびえ立っている。高さも太さも違う塔が十数本並び立っている様子は奇妙に見えてもおかしくないが、不思議なことにとても美しく見えた。


「気の神殿はこちらです」

 ヴァーセルスがそう言って歩き出したので、シラはハッとしてその後に続いた。本当はもう少し目の前の高い塔を眺めたり、向こうの薔薇を見に行ったりしたかったが仕方がない。


「……気の神殿は、とても高い塔なのですね」

 一本の塔の入り口に近づいたあたりでそう話しかけると、ヴァーセルスは頷いた。

「ええ、天の次に高い塔が気です。気の祭壇は大気の流れ、つまり風を受ける場所にあらねばなりませんから。この塔の最上階が、気の儀式の間なのです」


 彼が重い鉄の扉を開けると、精緻な彫刻が美しい石の階段が見えた。一歩入って、見上げる。遥か遠くまで吹き抜けになっていて、壁際を最上階までぐるぐると螺旋階段が続いている。それ以外は何もない。ところどころに明かり取りの窓があるだけだ。


「気の神殿は……儀式の間、しかないのですか?」

「この塔はそうですが、隣に研究塔があります。日々の勤めはそちらで。図書塔と寝室塔は他と共用です──四十階分はありますから、疲れたら彼に抱き上げてもらいなさい」


 そう言われて初めて後ろに立っている青年に気づいたシラは驚いて飛び上がった。薔薇色のトーガを纏った成人したてくらいの神官が、そんな彼を見下ろして快活に笑う。


「火の葉、ドノスだ。歓迎するよ、種っ子」

「貴方はまた、誰にでも愛称で名乗って……それに、彼はまだ種ではありません」

「では、ちびっこ」

「ちび……美しい言葉遣いをなさい!」

「ははっ」


 ドノスと名乗った彼は楽しそうに笑って、そしてシラの方へ屈みこんで小声で言った。

「そういうわけだから、このお兄さんがいる時はドノリエスと呼んでくれ」

「はい、ドノリエス」


 初対面の人間に親しげにされるのは苦手だ。二人きりでも愛称では呼びたくないと思いながら頷いた。ヴァーセルスの後について階段を登り始めると、後ろから火の神官がついてくる。白い階段に小さく靴音が響き、窓から差し込む光の中に入って、出てを繰り返す。


「空気が……青いですね。霧がかった早朝のように静謐せいひつで、神秘的だ。なぜここだけが、こんなにもこのようであるのでしょう」

 ただ階段があるだけなのにとても美しい建物に思わずうっとりして尋ねると、ヴァーセルスは足を止めることなく前を向いたまま淡々と言った。

「……貴方は詩人のような話し方をしますね。学問というより、文学系統の祝福が強いのでしょうか」


 どうやら彼はこういった抽象的な話し方を好まぬらしい。シラとてこの先は立地による温度や湿度の差とか、建物の意匠による相乗効果とか、そういう話がしたかったのだが、初めからそういう風に話を持っていった方が良かったのだろうか。


「静謐なんて、種っ子は難しい言葉を知ってるなあ。流石気の新入りってことか」

 ドノスが朗らかに間抜けなことを言う。二人の神官どちらの反応にもがっかりして、シラは黙り込んだ。叔父上なら、あの小さなエルフならきっとこの美しさを共に味わってくれただろうにと考えて、これから何年も、もしかしたら何十年もここで暮らしていかねばならないことにまた気が重くなった。


 魔力が、多ければ良かったのに──


 ついことあるごとに考えてしまう、しかしどうにもならないことを考えて、唇を嚙む。シラの魔力が多かったら、神殿で賢者修行なんて回りくどい手段を取らなくても、月の塔でルールルーに弟子入りして、灰ローブをもらって、地下世界でも美しく咲く白薔薇をあの子と研究して──


 叶わぬ夢を思い描いているうちに、息が切れてきた。見上げるとまだ半分にも達していない。少し気が遠くなって手摺りにしなだれかかると、後ろから脇に手を差し込まれ、ひょいと抱き上げられた。


「わっ……!」


 驚いて小さな悲鳴が出た。ヴァーセルスが振り返り、呆れた声で「声をかけてから抱いてあげなさい」とドノスに言う。


「はは、すまない」

 青年が爽やかに笑って、シラを自分の肩に座らせた。高い高い階段でそんなことをされて縮み上がったシラが頭にしがみつくと、更に楽しそうに笑い声を上げる。


「大丈夫、大丈夫。落とさないよ、こう見えて内炎術ないえんじゅつは得意だから……内炎術って知ってるか?」

「内炎魔法と同じものならば」


 答えると、ドノスは複雑そうな声になって「うーん、そうだなあ」と言った。

「祈りによって神の力をお借りし、身体能力を向上させるのが内炎術だ。内炎魔法っていうのは……魔法使いが使うやつだな。彼らは形骸化した呪文を唱えるだけできちんと心で祈らないから、まあ授かった力の使い方の悪い例って感じだな。種っ子がもし魔法に詳しくても、真似しちゃだめだぞ?」


「魔法が悪いものだと、貴方は考えているのですか」

 少し苛立ちを感じて声が鋭くなり、ヴァーセルスがきつい眼差しで振り返った。


「彼は葉神官です。『貴方』ではなくドノリエスと呼びなさい。貴方がその生い立ちから魔法や魔術を優れたものだと考えているのであれば、このスティラ=アネスできちんと神々の祝福について学び直す必要があるでしょう」

「……そうですか」


 知ったことかと睨み返すと、ヴァーセルスの眉がぴくりとして、ドノスが困ったように「まあまあ、彼はまだ名を受けてもいないんだから……」と間に入った。


「……私は、人を守るために魔術を使う父や叔父を見てきました。妖精の纏う美しい魔法の光も目にしました。その力の使い方が神の御意志に反していると仰るならば、なぜ彼らは豊かな祝福を与えられており、それを取り上げられていないのでしょう。祈りは確かに尊いものですが、魔法魔術文化を一概に悪い例と言われるのは、不愉快です」

「こらこら種っ子……そういう問答はほら、あまり初日から目上の人につっかかってするもんじゃない」

「地は広く平らなものだ。神は人を上下に並べない」

「……おっと。これは凄いな、枝神官顔負けの問答を繰り出してくる……いやしかし、種っ子、ヴァスルはちょっとこう、気難しいから……」

「誰が気難しいですって?」

「おっと……」

「それに、人に魔術を御与えになったのは気と叡智の神エルフトではないのですか」

「ちょ、ちょっと黙って! すまないな、今は静かにしていてくれ」


 シラを胸元に抱き直したドノスが、苦笑しながら手のひらで口を塞いできた。それが悔しくて少し涙ぐむと、困った声で「あー、ほらほら、泣くな」と赤ん坊のように腕を揺する。


「ヴァスルも、話しぶりからしてこの子の家族は魔術師なんだろう? 今は特に家族と別れたばかりだし……あんまりちびっこをいじめて泣かすなよ」

「泣かせてなど……」


 ヴァーセルスが困った顔になってシラの瞳を覗き、何度か瞬いてから少し小さな声で言った。

「貴方の今までの環境は、価値観が魔術側に偏りすぎています。まずは神殿の考え方を、神殿の視点でゆっくり学んでごらんなさい。双方を知った上で納得できないことがあれば、問答に応じて差し上げましょう」

「……はい、ヴァーセルス」


「宜しい」

 素直に頷いたシラにヴァーセルスが頷き返し、見守っていたドノスが満足げに頷いた。

「うん、ちゃんと仲直りできたな」

「ドノス、元はと言えばあなたが──」

「そろそろ着くぞ」

「全く……」


 ヴァーセルスがため息をつき、ドノスが笑いながらシラを階段の最上段に降ろした。美しい細工が施された鉄の扉を開いて──二人は中へ入る前に一度姿勢を正すと、胸に当てた右の拳を左の手のひらで包み、丁寧に頭を下げた。それをじっと観察してから、シラも同じように礼を取る。そして顔を上げて、儀式の間を覗き込んだ。





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