scene 3. わからないこと、変わらないこと

 チャリティイベントはやはり出演をキャンセル、代わりに売出し中の新人バンドがジー・デヴィールの抜けた穴を埋めることになった。イベントの告知にはリハーサル中の事故とだけ公表し、ルカはホテルの部屋で、出演できなくなって残念だ、楽しみにしてくれていた人たちには申し訳ない、と謝罪するメッセージビデオを撮った。ロニーは会場の販売コーナーと、期間中のオフィシャルサイトでのCDやグッズの売上はすべて寄付することを決定し、メッセージビデオの最後にテロップを入れさせた。

 朝食のため、ホテルのレストランに集まった面々に、ロニーはそういったビジネス面の話だけを伝えた。ユーリは顔を見るなりテディの具合はどうだ、と尋ねてきたが、このときロニーはそうね、あとでみんなで様子を見に行きましょう、と答えるに留めた。

 そして皆がほとんど食事を終えたタイミングで、あとで自分の部屋に来てくれと云い残し、ロニーは先に席を立った。





「――記憶が……?」

 部屋に皆が集まり、テディの状態についてロニーが説明をすると、ユーリもドリューもジェシも一様に信じられないという顔をした。そして、ロニーとルカのその深刻な表情を見て冗談でもなんでもないと覚ると、驚きと不安に顔色を失った。

「なんてこった……頭を打ってってことか? そんなにダメージがでかかったのか?」

「自分の名前もなんにもわからないってことですか!? そんな……テディが僕らのことを憶えてないっていうんですか、なんにも!?」

「医者はどう云っているんだ。時間はかかってもちゃんと記憶は戻るのか」

 矢継ぎ早に浴びせられる質問に、ロニーはルカと一緒に医師から聞いた話をそのまま伝えた。躰のほうは軽い打ち身程度で、頭部を含めまったく問題がないこと、うまくすれば十日から一ヶ月で記憶が戻り始めるかもしれないこと、そして――最悪の場合、記憶が戻らないケースも有り得るということも。

「そんな……で、でも、それはそういう可能性もあるっていうだけで、ちゃんと思いだしますよね? まさかそんな、ずっと忘れたままなんて――」

「忘れてないこともあるんだろう? たとえば、家電なんかの使い方や常識的なことは覚えているのか」

「ええ、まだ少し確かめただけだけど、先生はそこは問題ないって云ってたわ。脳にダメージを受けて記憶を失った場合は字も読めなかったり、飲み物を差しだしてもストローの意味がわからなかったりするケースもあるそうだけど……そういうことはないみたい。普段の生活に支障はないわ」

 それを聞いてほんの少しはほっとしたのか、それとも落ち着こうとしてのことなのか――ユーリはポケットからウィンストン・レッドボックスとジッポーを取りだし、一本咥えた。

「……おまえのことも、憶えてないのか」

 不意に訊かれ、ルカはちら、とユーリを見ると肩を竦め、こう答えた。

「俺はおまえが羨ましいよ。こうして先に知らせてもらえてるんだからな……なんにも知らないで行って、顔を見るなりあなたは誰ですかって云われてみろ」

 その言葉に、ユーリはきゅっと目を閉じ、ロニーはごめんと呟いた。


 ひととおりの話を済ませ、キャンセルしたイベントのことでブリクストンアカデミーまで出向いたロニーが昼前に戻ってくると、ルカたち一行は病院へ向かうことにした。

 ロニーはともかく、バンドの四人が揃って歩いていると目立つので、二手に分かれてタクシーに乗り込む。途中、ロニーはコスタ・コーヒーに寄って人数分のトースティとマフィンやコーヒー、テディのためにベルギーチョコレートのフロスティーノをテイクアウェイした。躰のほうは悪いわけじゃないので食事についてはなにも云われていないし、差し入れをしても問題はないだろう。

 先に着いていたルカとジェシは、テディの病室の前で待っていた。こんこん、とノックをし、ロニーはそっと部屋を覗き込むようにして、ベッドの上で雑誌を読んでいたらしいテディに声をかけた。

「テディ? みんなを連れてきたわよ、入ってもいい?」

「あ、ロニーさん……はい、どうぞ」

 聞こえてきたテディの他人行儀な話し方に、ユーリたちは思わず顔を見合わせた。





「――どう? きっと喜ぶと思ってそれにしたんだけど……美味しい?」

「はい、美味しいです……俺のこと、ほんとによく知ってるんですね……」

 テディも一緒に、ソファで揃ってランチタイム――ホイップクリームのたっぷり乗ったチョコレートドリンクに顔を綻ばせるテディも、皆でハムとチーズやツナサラダやチキンなどいろいろな種類のトースティを食べながらコーヒーを飲むのもまったくいつもどおりの光景だったが、ユーリたちの表情は違っていた。

「好きなものは憶えてるってことか」

 ユーリがそう訊くと、テディは少し考えるように小首を傾げた。

「憶えてるっていうか……見ると、あ、これ好きなやつ……って思う感じです。食べたときも、チーズの入ったのとか、よく食べた好物だった気がなんとなく……」

「ああ、おまえはチーズ好きだよ……スマジェニースィールとかしょっちゅう食ってた」

「スマジェニースィール……」

 それを聞き、ふと思いついてロニーはテディにチェコ語で尋ねた。

「じゃあ、チェコ語もわかるの?」

 するとテディは一瞬きょとんとした顔をしたが、「……チェコ語……わかります。話せるみたい」と、チェコ語で答えた。

「そうなんだ……不思議ね」

「じゃ、じゃあひょっとして、ベースも弾けるんじゃないですか?」

 食べているビーンズとチーズのトースティを急いで飲み込み、勢い込んでジェシが云うと、ユーリとドリューははっとしたように顔を見合わせた。

「そうだ……物の使い方を覚えてるなら楽器だって……」

「曲も憶えてるんじゃないか? ベースを持てば、指が勝手に動くとか――」

 ふと見えた気がする希望の尻尾に群がるようにして、三人がそれぞれ声をあげる。

「ちょっとあなたたち、あんまり大きな声ださないで。……それに、ベースが弾ければそれでいいってことでもないでしょ。そういうことは追々ね」

「そ、そうですよね……ごめんなさい。つい思いついて、興奮してしまって」

 ジェシはすぐにしゅんとして謝ったが、「しかし」とドリューは首を振った。

「もちろん焦らないでゆっくりやっていくべきだろうが、いろいろ試してみれば、記憶が戻るきっかけになったりするんじゃないか?」

「そうかもしれないけど……とりあえず、お医者さまも無理に刺激したりはするなって云ってたし。まだ退院も先なんだから……」

「……そうか、そうだな。すまなかった」

「あの……」

 フロスティーノをすっかり飲み干し、おずおずとテディがなにか云いかける。皆の注目が集まり、テディは困ったように下を向いた。

「……なぁに? なんでも云って」

「はい、あの……俺がベーシストだとか、バンドのことはいろいろ聞かせてもらいましたけど……」

「ええ」

「俺の家族は? まだ誰も来てないけど……プラハにいるんですか?」

 ――不意打ちだった。複雑な事情を抱えるテディの肉親について、ロニーは答える準備をしていなかった。

 ルカやユーリたちも同様で、空気が急激に冷えたように口を閉ざしたまま、誰も言葉を発することができなかった。その様子を見て、テディは昏い表情になり、云った。

「……いないんですね、家族。俺、独りだったんだ。そんな気はしてました……すみません。大丈夫です、気にしないで」

「いや、おまえは独りじゃないぞ。そこにいるルカが、おまえの家族だ」

「あ……ええ、それは聞きましたけど……、ごめんなさい。なんだかぴんとこなくって」

 その言葉を聞き、ロニーはふと考えた。記憶を失うことがセクシュアリティに影響を及ぼしたりするものなのだろうか? 既に何度か見ている、小首を傾げる癖のように、変わりようのないことではないのだろうか。

 いずれにせよ『ぴんとこない』とは、ルカにとっては残酷な言葉だ、とロニーはルカの顔を見た。が――

「……お祖父さんがバーミンガムにいるよ。でももうご高齢なんで、ロニーと相談してもう少し様子を見てから知らせようってことになったんだ。だから来てないだけだよ」

 ルカがそうテディに説明するのを聞いて、ロニーは思った。

 これまでにも何度か感じたことだが、ルカは強い。よくそこで堪えられるなという場面で、ルカはいつもしっかりと踏み留まって、前を見る。

「そうなんですか……お祖父さんだけ、なんですね。両親は……いないんですね」

 テディの母親は、彼が十四歳のときに事故で亡くなっている。父親はドレスデンにいるが、テディは一緒に暮らしたことがなく、会ったのもおそらく警察署で擦れ違った一度だけだ。

 そんなことをどう伝えればいいのかもわからなかったし、それ以上に今伝えるべきかどうかもわからなかった。ロニーは否定も肯定もせず黙って俯き、答えられないのをごまかすように皆が食べ終わった後のトースティの包み紙などをまとめて袋に突っこんだ。

 なんとなく、ユーリたちも飲み終えたコーヒーのペーパーカップを重ね、食べた後始末を手伝い始めた。ミルクの入っていた小さな容器など、なにもかも一緒に袋に放りこもうとするドリューに、「だめだめ」とロニーは注意した。

「それはプラスティックよ、カップの蓋もね。こっちの袋に入れて……テディ、あなたのそれも全部プラスティック――テディ!?」

「おい、どうした!」

 ふと見やったとき、テディは両手で頭を抱えるようにして、ソファの肘掛けに顔を伏せていた。

「テディどうした、頭か? 頭が痛いのか!?」

 ルカが肩を支えるようにして顔を覗きこみそう訊くと、テディは低く呻き、微かに頷いた。

「だ、誰か呼ばないと……お医者さまを――」

「ぼ、僕呼んできます!」

「待て、落ち着け」

 ドリューはそうジェシに云いながら立ちあがり、ベッドに近づくとナースコールのボタンを押した。

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