40 些細な救世主

 直音さんがゲームに姿を現さなくなってから一週間。もしや何かあったのではないかと不安になった俺は一度メッセージを送ってみた。すると仕事が忙しくてスマホを触る時間すら限られてしまう。と、困った様子で返信がきた。だからあまり返信もできないかもです。なんて申し訳なさそうな絵文字もつけて。

 スマホを机の上に置いてソファに寝転ぶと、パソコンの前に座っていたミケとエヤが振り返る。俺の吐いた息が大きすぎたせいだ。


「イタル、どうしたの?」

「カシノお疲れだすかー?」


 ミュージカル映画の明るい曲調とともに二人が優しいことを聞いてくれる。


「なんでもないよ。ちょっと眠いだけ」


 二人は直音さんとあまり連絡が取れないことを知らない。俺がゲーム自体は続けているから見かけ上はそんなに変わったようには見えていないはずだ。

 二人の方を見て笑ってみせると、パソコンの画面に映る俳優が力強く踊っているのが見えた。

 この映画は俺も結構好きだ。

 どんな困難があっても歌に決意を乗せて逞しく前へと進んでいく。すべてを歌で語るものだから、普通の台詞より大袈裟に聞こえてしまうけどミュージカルだからしょうがない。


「カシノ眠いんだすか? わかっただす!」


 エヤは映画の音量を少しだけ下げると、座っていた椅子からよいしょと降りる。


「寝るときに目を温めるといいってタイシサンが言ってただす。カシノ、スマホばっかり見てるから目がお疲れで眠いんだと思うだす!」


 キッチンの方へと駆けて行くエヤをミケは黙って見守っていた。


「まぁ確かに酷使してる自覚はあるけど……アイマスク、もう全部使っちゃったしな」


 使い捨てのホットアイマスクの最後の一枚を誕生日の夜に使ったことを思い出し、天井を見上げる。


「んふふふ。タイシサンにアイマスクの作り方教えてもらっただすよ。エヤに任せるだすっ」


 キッチンの方から水が流れていく音が聞こえてきた。

 アイマスクを作る。って言っても、恐らく……。


「ほら! タオルをお湯に浸せばいいだす!」


 エヤはあちあちと言いながら両手に乗せた濡れタオルを俺の顔に押し付けた。

 目だけじゃなくて顔全体が湿ったタオルで覆われて途端に息苦しくなる。

 しかもこれはお湯じゃない。この熱さは熱湯に近いものを染み込ませている気がする。


「どうだすかカシノ? 眠れそうだすか?」


 熱くて反射的にタオルを払いそうになった。でも目元にタオルを押し付けるエヤの力が伝わってきて、払うのも良くないと冷静さを取り戻す。


「あー……うん。たぶん、眠れそう」

「よかっただすっ。カシノいっつも早起きだすから、今日はゆっくり昼寝するといいだすっ」

「はは……ありがとう」


 最後にダメ押しでタオルに圧をかけて満足したのか、エヤの気配がパソコンの方へと立ち去っていく。

 華やかな曲が終わると、次は見かねたようにバラード曲が続く。

 ちょうど子守歌にいいかもな。

 だんだん落ち着いてきたタオルの温度。その移ろいとともに意識も少しずつぼんやりとしていく。


 夢を見る直前。

 最後に見た直音さんの笑顔が、聞こえない声で何かを語りかけてくれたような気がした。



 昼時を過ぎて、外に出ていたはずの人たちがいつの間にか戻ってきている。

 辺りがまた賑やかになってきたことでとっくに昼のピークは越えたのだとようやく理解できた。

 まだ昼ご飯を食べていないけど、空腹も感じないし、休みたいとも思えない。

このところやけに業務に集中できる。


 そこまで仕事に情熱を捧げたり、夢中になる人間ではないんだけど、最近はその境地を越えた。

 こうやってパソコンに向かい合って問題を解決している方がずっと心が落ち着くからだ。

 ふと集中力が切れると、その瞬間に勝手に脳が働き始めるせいだ。

 家にいればエヤとミケがいて思考は暇にならないし、職場にいれば仕事で脳を満たすことが出来る。

 それ以外の空白の時間。

 今の俺にはその時間が一番の恐怖だった。


「樫野くん。まだご飯食べてないの?」


 おにぎりを食べ終えて院内を散歩していた藍原さんが戻ってきていた。

 彼女は出て行った時と変わらない姿勢でそこにいる俺を見て眉をひそめる。


「お腹、空かなくて」


 軽い声色で返したはずだったけど、彼女は俺の偽物の笑顔はすぐ見抜けるようだ。

 俺の顔を見るなり口をへの字にして、眉頭を険しくさせる。


「だめだよ樫野くん。ちゃんと休憩しなくちゃ」


 そう言いながらパソコンを起動させた藍原さんは、まだ指を止めようとしない俺をちらりと見やった。


「最近、タスクの処理がすごく早いよね。ありがたいし、羨ましいんだけど……でも」


 自分のディスプレイに視線を戻し、彼女は芯の通った声を出す。


「なんだか心配。樫野くん、無理してない?」


 彼女の声まで元気がなくなっていく。キーボードを打つ手を止めて彼女の方を見ると、藍原さんはしょんぼりとした様子で肩を下げていた。


「大丈夫ですよ藍原さん。倒れたりなんてしませんから」

「でも…………」

「あ、そうだ。さっき雨臣さんが呼んでました。戻ってきたら声をかけておいてって言われたんでした。聞きたいことがあるそうですよ」

「……分かった。ありがとう」


 藍原さんは開いたばかりのパソコンの画面を消すと、渋々立ち上がって雨臣さんのもとへと向かう。

 鋭い彼女の指摘に密かにチクリと胸が痛む。話を遮ったようで申し訳ない気もしたけど、雨臣さんが呼んでいたのは本当だ。それに、俺は自らで墓穴を掘ってしまった。これではせっかく集中していた意識が途切れてしまう。彼女に余計な心配はこれ以上かけたくない。

 藍原さんに謝罪しながら、キーボードの上に置いた指を見やる。


 そう。”俺は”倒れたりなんかしないだろう。

 健康診断だって毎年問題ないし、過労で身体を追い詰めることが出来るほど頑丈な意思もない。

 しかし”彼女は”、もしかしたら。

 また嫌な予感が胸をよぎり、不安で崩れそうな精神がゆらゆらと揺れ出す。


「…………はぁ」


 両手で頭を抱えデスクに項垂れると、「お邪魔しまーす」と、淡々とした声が藍原さんの席の方から聞こえてきた。

 彼女の声じゃない。

 一体誰だと思い顔を上げると、藍原さんがパソコンに貼っている海外旅行で買ったというステッカーを無感情に見つめている春海がいた。


「どうした? なにかあった?」


 春海が仕事中に俺のところに来るのは大体何か頼みごとがあるときだ。

 また仕事に意識を戻そうと気を取り直して肩の力を抜くと、春海は椅子を一回転させた後で俺の方を向く。


「樫野さんって、分かりやすいですよねー」

「え? 何? 何の話……?」


 突然何を言いだすのかと、若干口角を上げている春海のことをエイリアンを見るような目で見る。


「いーえ。こっちの話です。……そうそう、先輩まだ休憩とってないんですよね?」

「……そうだけど」

「じゃあ今行った方がいいですよ」

「なんで?」


 春海は俺の方が意味不明なことを言っていると訴えかけたいように眉をひそめ、じーっとこちらを見てきた。


「樫野さんのお知り合い。風見先生の患者さんでしょ?」

「……え?」


 お知り合い……? 風見先生……?

 春海は頬杖をついて鈍い反応をする俺を面白がるように口元を緩めた。


「前に病院から先輩と一緒に帰るところ見たんですよね。あの女の人と。その時風見先生と話してたんですけど、そしたら先生もびっくりしてて。先生の患者だ、って教えてくれたんですよ」

「…………は?」


 春海は周知の事実を語るようにすらすらと喋る。

 それってもしかして……。


「さっき風見先生見かけました。しばらく忙しそうだったじゃないですか。でもちょうど今なら休憩中だと思うんで」


 春海は「お礼はいいですよ」と言いながら立ち上がり、俺の肩をポンポンと叩きながら席へと戻っていった。

 俺が春海から目が離せなくて席に座る様子まで追いかけていると、視線に気づいた春海は珍しく得意気に微笑み返してきた。

 窓から差し込む光のせいで、その表情に後光が差したように見えたのは黙っておこう。

 でもその拍子に、俺の鼓動が生き返ったように力強く鳴りだす。

 雨臣さんと話し終えた藍原さんが戻ってくると、立ち上がった俺とタイミングよく目が合った。


「休憩する気になった?」

「はい。すみません、しばらく抜けます」

「うん。了解だよ」


 藍原さんは嬉しそうに微笑み、俺は上着を手に取って執務室を出る。

 風見先生。彼はきっとあの場所にいるはずだ。

 院内は緊急時以外走ることは禁止されている。だから出来る限り速く、人にぶつからないように注意しながら大きく足を前に出す。

 風が前髪を分けていく。

 髪が乱れようとどうでもいい。とにかく彼が戻る前に会わなければ。

 今の俺と彼女を繋ぐのは、たった一人のあの人だけなのだから。

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