9 陽の目

 週末はたぬきの塾に通うための準備に追われ、俺の休日はあっけなく終了した。

 月曜から早速エヤたちはたぬきの塾へと通うことになっている。俺は心寧に言われ、二人のために弁当を作ることになった。

 色々な家庭事情の人がいる。だから大志さんは昼食も用意できるから弁当は必ずしもいらないよ、と言ってくれた。が、心寧にしつこく言われた俺はすっかり折れてしまい、まさかの弁当作りに挑むこととなってしまった。


 いつもより早く起きることになった俺は、ここに来て初めて心寧に貰った目覚まし時計に起こされる。

 機械音に起こされるなんてあまり気分のいいものではなかった。それでももうしょうがない。しばらくはこの音に世話になろう。

 俺の様子を楽しんでいるのか、心寧は土曜日の帰り道で早速二人のための弁当箱をプレゼントしてくれた。よく考えてみれば、心寧の立場は一番美味しいところだ。こんな不可思議な状態を、近いけど外野から見守ることが出来るんだから。


 とりあえず初日だし、今日はおにぎりでいいよな。

 藍原さんがいつも食べている昼食を思い出しながら、俺は予約で炊いた米をよそう。


「…………ハァー」


 一段と大きいため息が出て行った。まだエヤたちも起きてないから許してくれ。

 二人は身体が小さいからそこまで量はいらないだろう。あ、でもエヤはよく食べるよな……。でもミケはどっちかというと小食だし……。んん? ちょっと大きすぎたか?

 ちょっと前まではなんてこともなかった朝の穏やかな時間が遠い昔のことのように感じる。

 おにぎりのサイズ感に苦戦しながら、俺はどうにか初めての弁当作りをやり遂げた。その頃にはエヤとミケも起きてきていて、今度は朝食の用意をしなければいけない。

 休んでいる間もなく手を動かしていると、顔を洗ったエヤがとてとてとキッチンにやって来る。


「見て見てカシノ。この服、変じゃないだすか?」


 エヤはワンピースの裾を持ち上げて水玉柄を広げた。


「うん。似合ってるよ。初日にはちょうどいいんじゃない?」

「ほんとうだすか? ぃよーっし! じゃあ今日はこれにするだす!」

「はは……気合い入ってるなぁ」


 エヤがどてどてと出て行くと、入れ替わるようにしてミケがやって来る。ミケももう着替えていて、いつものように暗い色の落ち着いたワンピースを着ていた。


「ミケは、準備できた?」

「うん。イタル、何か手伝うことある?」

「ううん。大丈夫」

「そう?」


 ミケが俺の顔をじーっと見上げる。その黒い瞳は、やっぱり何かが吸い込まれそうだ。


「ミケも、服、似合ってるよ」

「……ほんと?」

「うん」

「へへ…………」


 ミケは恥ずかしそうに両手を組み、それでも嬉しそうな笑い声をこぼした。そしてそのままダイニングの方まで走っていく。

 二人と過ごしてみて分かってきたことは、二人の性格が割と正反対なことだ。

 天使と悪魔というだけあって当然なのかもしれないけど、そもそも天使と悪魔って俺もよく分かってない。

 だから二人のことはこれまで普通の子どものように接してきてしまった。二人はそれをどう思っているんだろうか。

 ふとした疑問を抱く。

 もっと天使と悪魔らしさを極められるような生活環境を俺が整えたほうが良かったりするだろうか?

 でも、それって一体……?

 いやいや、にんげんの俺に分かるわけがない。マーフィーの言う基準だなんて。


「カシノー! 目玉焼きが焦げちゃうだす!」

「あっ。ごめん」


 エヤに言われて俺は慌てて火を消す。

 …………こんな調子で、本当に二人はちゃんと修行の成果を認めてもらえるんだろうか。



 「はい。これ。一つしかないから二人ははぐれないようにな」


 エヤが伸ばした手に家の鍵を乗せる。スペアキーをすぐ取れる場所に置き直しておいてよかった。朝は時間がなさ過ぎた。


「こ、これっ……! 鍵!」

「うん。たぬきの塾まで迎えに行ってもいいけど、そうすると遅くなる日もあるし。基本は自分たちで帰ってこれる?」


 家からたぬきの塾までは十五分かからないくらい。彼女たちの足でもそれくらいなはずだ。

 エヤは鍵を宝石を見るように掲げて、ほぉー、と声を上げる。鍵は失くさないように、どこかで買ったマナティーのマスコットをつけておいた。流石にこれなら失くさないだろう。


「大丈夫。われたちで帰る。小学校でもそうだった」

「そっか。あ、一応防犯ベル。心寧がちゃんと用意してくれてた」

「防犯ベル?」

「そう。身の危険を感じたらここを引っ張るんだよ?」

「わかった」


 ミケはそう言って防犯ベルを鞄につけた。エヤもようやく鍵から目を離してそれを真似する。


「じゃあ行こう。大志さんの言うことちゃんと聞くんだよ? 他の友だちに迷惑かけないようにな?」

「わかってますだす!」


 エヤがぴしっと気をつけをして元気よく答えた。

 正直俺も不安だけど……とにかく一日を過ごしてみるしかない。

 三人で家を出て鍵をかける。

 ちらりと目線を下に向けると、エヤとミケが新しい一日の始まりを告げる太陽を見上げていた。

 俺もそれに倣って眩しさに目を細める。ああどうか、無事に日常が根付きますように。



 二人がたぬきの塾に通うようになってから早いものでもう一週間が経った。

 初日こそ不安で仕事が手につかなかったが、帰ってみればそれまで以上に元気な二人が待っているだけだった。一木兄弟をはじめとして、エヤたちはすぐに皆と友だちになれたらしい。エヤの性格を思えば当然かもしれないけど。二人のことが気がかりだったことを察してくれたのだろう。大志さんからも二人が楽しそうにしていた報告をもらって、俺はようやく肩の荷が下りた気がした。とはいえまだ油断はできないし、二人の修行は続いていくのだけど。


「ふぁ…………」


 一日の片づけを終えてソファに座ると、待ち構えていたように疲労が雪崩込んでくる。明日もまだ仕事だし、早く風呂に入ってぐっすり寝たい。

 無意識のうちに欠伸をした俺に気づいたミケが、髪を濡らしたままじーっとこちらを見てきた。


「ミケ、お風呂終わった?」

「まだエヤが使ってる」

「了解。風邪ひくから早く髪を乾かした方がいいよ」

「うん」


 ミケはそう言いながらも首元にタオルをかけたまま何かを窺っている様子だった。


「? どうかした?」


 ミケは何か気になることがあっても自分からあまり主張をしないことはもう把握している。言ってもいいのか迷っているのかと思いきや、唐突に直球の意見を投げつけてくることもあるが。

 俺が問いかけると、ミケはぽたりと毛先から雫を落としながら目線を机の上に下げる。


「これ……」

「え?」


 ミケが指差したのは俺のスマホだった。


「これ、ゲーム、できるの?」

「は? ゲーム?」


 二人の前でスマホをいじることはあっても、ゲームをしたことはなかった。一体いつの間にそんな知識を手に入れたのだろう。

 ミケはネット配信が気に入ったようだし、その流れでネットの情報を漁るようになったのかもしれない。なんかヘンなものを見たら厄介だな。俺はまたこの悪魔を子ども扱いしそうになって咄嗟に首を横に振った。


「ゲーム、できないの?」


 それを見たミケが勘違いをしてしまったので、俺はまた首を横に振る。


「いいや、できるよ。興味あるの?」

「うん。マーフィーはそういうの持ってなかったから。われ、ゲームしたことない」

「まぁマーフィーにスマホは必要なさそうだもんな」


 スマホを手に取りミケに差し出してみる。俺は別に天界の保護者じゃないし、ゲーム禁止令とか出すつもりはない。むしろ下界のものにたくさん触れた方が修行になりそうだ。俺にできるのはそれくらい。彼女たちに下界の俺たちの普段の生活を紹介することくらいだ。ゲームもスマホも、重要な存在だし。


「俺がやってたのはこのゲームだよ」


 エンチャンテッドロードのアプリを起動し、隣に座ったミケに説明する。


「最近は全然出来てないけど」

「飽きちゃった?」

「いや。でも、ゲームやらなくてもなんとかなってるな」


 以前の日課を思い、俺は情けない笑い声をもらした。ゲームばかりやってた頃はこの習慣を止めることなんて不可能だと思っていたけど、案外ゲームをやらない習慣もすんなりと馴染むものだ。

 まぁそれもミケとエヤがいなかったら分からないけど。


「ゲーム、やってもいい?」

「うん。いいよ。やり方分かる?」

「…………がんばってみる」

「はは。分からなくなったら教えるから」

「ありがとうイタル」


 ミケはスマホを横に持って興味津々に画面を見つめる。ミケが持つとスマホがいつもより大きく見えた。持ちにくそうだし、操作もしにくそうだけど大丈夫かな。

 久しぶりに見たプレイキャラクターが宿屋で右往左往しているのを見てそんな心配がよぎる。

 ミケは真剣な表情になるあまり唇を尖らせて目つきが悪くなってきた。けど、それは彼女が集中している証だ。ミケが一生懸命動かすキャラクターを一緒に見ていると、視界の間に見えるミケの濡れた髪が気になってきた。まずいな。ミケはこのまましばらくゲームに熱中するだろう。髪を濡らしたまま放置して本当に体調を崩されたら困る。


 俺は少し考えてから、ミケが首にかけているタオルを手に取った。それでもミケはまったく表情を変えず、スマホから目も離さない。

 しょうがない。今回ばかりは何も考えずにゲームを与えた俺が悪い。

 ミケの小さな頭をタオルで包み込み、力を入れ過ぎないようにわしゃわしゃと揺らした。髪を拭かれているというのに、ミケは相変わらず微動だにしない。集中しすぎだろ。逆に心配だ。


「ねぇイタル」

「ん?」


 タオルに水気がだいぶ移ってきたところで、ようやくミケが口を開く。


「どうして狐なの? このキャラクター」

「……狐じゃなくて、狼だよ」

「あれ?」


 ミケは俺が設定したプレイキャラクターをもう一度よく見ようと画面を顔に近づけた。このゲームはプレイヤーが好きにキャラクターをメイクできる。だから俺はランダムで選択したグレーの毛をした狼の素体を元に、ヨーロッパの昔話に出てきそうな錬金術師の格好をさせていた。モノクルに太めの眉毛。ツナギみたいな装備。センスのない俺にとって、このキャラメイクが一番の難題だったことを思い出した。


 そんな懐かしいことを思いながらスマホから手元へと視線を移す。ミケの髪はだいぶマシになってきたけどやっぱりドライヤーで乾かさないと。エヤはもう風呂上がったのかな。

 洗面所にあるドライヤーを取りに行けない俺は、どったんばったんと音が聞こえてきた方面を見やる。

 しばらくして物音が止むと、今度はブオオオオとドライヤーの音が続く。


「あぁぁあ。やっぱり取られた」


 エヤは風呂上りにはすぐに髪を乾かす習性がある。何かをするときは一気に済ませたいタイプらしい。

 ドライヤー争奪戦に負けた俺は、大人しくミケの操るゲームを視聴する。


「あ。倒れちゃった……」


 まだまだ操作がおぼつかないというのに、ミケは宿屋を出てすぐに選んだエリアでモンスターをあっさりと倒した。


「もう一回……」


 そう言ってまた新たな敵を探すミケ。これ、俺よりゲームのセンスがありそうだな。

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