6 もしかしたらもしかして

 部屋中にすっかりお好み焼きの匂いが浸透した頃、お腹がいっぱいになったのか、エヤはソファの下に寝転がってしまった。ミケはテーブルの上を大雑把に拭きながら、未だに宙に浮いてるような顔をしている心寧をちらりと見た。


 お好み焼きを食べている間、心寧は美味しい以外の言葉は発しなかった。ミケはいつものように大人しく食べていて、エヤもこれまた通常通りにこにこと笑っていたが、俺はお好み焼きの味なんて分からなかった。

 心寧の心境ばかりが気になるし、ここからどう説明すればいいのかをずっと考えていたせいだ。


「心寧」


 気を紛らわすために皿洗いをしていたが、こういう時に限って面倒な作業すらあっという間に終わる。逃げ道をなくした俺は観念して心寧にお茶を運ぶ。とりあえず温かいものでも飲んで心を解して欲しい。


 心寧は差し出したマグカップを無言で受け取って湯気を揺らした。彼女には隣に座っているミケすら視界に入らないようだ。一点を見つめて、ずーっと現実を見ることを拒否しているように見える。だが悪いがそろそろ現実に帰ってきてもらおう。最初は心寧にバレたことに動揺していた俺も、今となってはエヤとミケの事情を共有できる仲間ができたことに少し安堵にも似た感情を抱き始めた。

 こんな不可思議な出来事、とても一人で抱えきれるほど俺の器は大きくない。


「心寧、話してもいいか?」

「……あ?」


 向かい合って座った俺のことをマグカップからのぼりたつ湯気越しに覇気のない目で見てくる心寧。その気持ちは分かる。だからぜひ話を聞いて欲しい。

 心寧はうんうん唸りながら瞼を強く閉じた。頭痛でもするのか。寝っ転がっていたエヤが顔を上げて心配そうに彼女のことを見た。


「おにーちゃん…………あれを見た以上、何を言われても多分驚かないよ」


 意を決したのかマグカップを机に置いた心寧は両腕を机についてぐいっと前のめりになる。


「これから何を言おうと信じてあげる」

「助かる、心寧」


 心寧の芯のある瞳に見つめられ、俺はほっと胸を撫で下ろした。

 マーフィーに出会ったこと。二人がまだ未熟な修行者であること。そしてその修行が終わらないと帰れないこと。更には俺がその間面倒を見ることになった話を順を追って説明すると、心寧はやっぱり疑いたくなってきたようで顔をしかめた。


 疑っていた方が楽なのはなんとなくそうだろう。俺もマーフィーと話すまではそうだったからな。

 心寧はこめかみを抑えて名探偵のように俯いた。さっきから声にならない声ばかり出すから、こいつが何を考えているのか全く読めない。俺の中にどことなく緊張が走った。


「心寧。どう思う」


 だから俺は自分から聞いてみることにする。心寧がこの話に何を思ったのか。俺以外の人間の感想が知りたかった。

 心寧はこめかみを抑えたまま、またうーんと唸る。ミケはそんな妹のことをそっと静かに見上げた。


「なんとなく。なーんとなく、事情は分かった。もう、無理やりだけど」


 顔を上げた心寧は俺のことを真っ直ぐに見てキリッと眉を上げた。


「なんでお兄ちゃんなのかは謎だけど、とりあえず、そのマーフィーって人? 使者? に、この二人のことを頼まれたのは分かった。……だけど、本当に大丈夫なの?」


 上がった眉が一気に下がっていく。心寧はミケとエヤのことを順に見た後で、また俺のことを見る。


「お兄ちゃんがこの子たちと生活することで、本当に修行は終わるの?」


 それは俺が最も知りたい答えだ。答えを知らない俺は何も言うことが出来ない。が、こんなことを話して無責任に黙っているわけにもいかない。


「分からない。正直なところ俺だって謎だよ。俺はただ偶然そこに居合わせただけだからな」

「……だよねぇ。お兄ちゃんにそんなに大した取柄なんてないし」

「おいおい。本音が失礼だぞ」


 はぁ、と息を吐くと、心寧はごめんごめんと言って笑ってきた。悪口を言われたのにそれよりもようやく妹の表情が崩れてくれたことにほっとするなんて、俺も随分と参ってるみたいだ。


「このこと知ってるのって私だけ?」

「そうだよ。他に話せる人間なんているか?」

「うーん。いないねぇ。お兄ちゃんが頭おかしい人になるだけだよ」


 けらけらと容赦なく笑ってくる心寧。いや分かるけど。


「叔母さんにも話せないよね。でも同居してるんだし、バレたら大変じゃない?」

「ああ。そう思ってる。幸い、二人が来てからは近所の人とも特に会ってないんだけど」

「時間の問題だねぇ」

「ああ」

「いつまでになるかも分からないし、先が遠いね」

「…………はぁ」


 そんなにはっきりと言われると、頭の中で思っていた時よりも肩が重くなる。外部からはっきりと困難を示された気分だ。俺が項垂れていると、ミケがしゅんと目を伏せたように見えた。見間違いかと思って顔を上げると、いつの間にか目の前にはエヤの顔があった。こら、机の上に乗るな、エヤ。


「カシノ、しんどいだすか?」

「え? ……は?」


 エヤは俺の額に手を当てて、自分の額にはもう片方の手を当てた。


「うーん。熱はないだすね!」


 体温を確認したエヤはニコッと笑って手を離す。


「でもすごく元気がないだすね。どこか悪いところあるだすか?」


 きょとんと首を傾げるエヤ。何と返していいのか思いつかなくて、俺も同じようにきょとんとしてしまう。


「もう、違うよエヤ」


 するとこのやりとりに痺れを切らしたのか、ミケがエヤを机の上から引きずり降ろそうとする。


「うわぁわぁ! 降りる! 降りるだすから引っ張らないで!」


 エヤはぐらぐらと身体を揺らしながらミケのいる方へとゆっくり降りていった。そうしている間もミケは俺の顔を窺うようにじーっと黒い瞳で見上げたままだ。


「どうした、ミケ?」


 放っておいたらこのままどこかに迷い込んでしまいそうな瞳に不安を覚えた俺は控えめに尋ねてみる。


「……イタル、われたちのこと厄介?」

「え?」


 ミケがぽつりと声を零すので、聞き間違いかと思ってつい聞き返す。


「ミケとエヤ、ここにいたら邪魔……?」


 床に降りたエヤがミケの顔を不思議そうに見た。彼女には思いつきもしない発想だったのだろう。


「イタルの迷惑なら、われたち出ていく。われたち未熟。だから、お荷物」


 ミケの声が小さくなっていく。喋りながらだんだん彼女の顔が俯いていったからだ。顔が見えないけど、ミケの背後には置いてけぼりの幽霊のような、どこか侘しいオーラが漂っているのが伝わる。


「ミケ」


 俺はミケの視線に合うように屈みこんで、どうにか彼女の表情を見ようと試みた。名前を呼ぶと、そっとこっちを見てくれるからその悲しそうな顔がよく見える。多分だけど、その目を見ると分かる。彼女が泣くことはないのだろうと。でも、どんよりとした瞳からは彼女の心模様が痛いほど分かってしまう。


「二人はお荷物なんかじゃないよ。邪魔でもないし、……厄介、でもないとは言い切れないけど……でも、別に出て行かなくていい。もう段ボールだって片付けたんだ。ここにいていいんだよ」


 ミケの両手をぎゅっと握って、軽くぷらぷらと揺らしてみる。こんなので気分が明るくなるはずはないけど、二人の目の前でため息ばかり吐くような俺は、どうしても気が利かない。俺にできるのはこれが精一杯だ。

 ミケは俺の目をじーっと見て、まだ不安そうな顔をしている。


「気配りの出来ないにんげんで悪い。ミケたちのことを傷つけるつもりはなかった。言葉を知らなくて悪かった」

「…………ほんと?」

「ああ。そうだよ。本当」


 小さな手がぎゅっと俺の手を握り返してきた。その微かな力に、俺の罪悪感は大きな鞭を食らったように身体中に響く。


「ミケちゃん。そうだよ、お兄ちゃんの言うことなんて気にしないで。お兄ちゃん本当気が利かなくて、こんなだから全然モテないんだよ。不器用なお兄ちゃんのこと許してあげて。あと、私もびっくりしすぎて余計なこと言っちゃったね。ごめんね、ミケちゃん、エヤちゃん」


 一言余計な心寧が傍に来て、ミケの頭をよしよしと撫でる。

 いちいち悪口を挟まないと気が済まないのか、この妹は。

 ちょっとした情けなさで俺の心はすっかりへたり込んでしまった。


「ううん」


 ミケは小さく首を横に振ると、心寧のことを見上げてぺこりと頭を下げる。


「ココネ、ありがとう」

「ミケちゃん、これからよろしくね。……ふふっ、かわいい……」


 ミケと目が合った心寧はすっかりそのあどけない表情に射られたようだ。頬をふにゃりと溶かしてミケの頭を撫で続ける。


「ココネチャン! 信じてくれてありがとうだす!」


 エヤもすかさず心寧に駆け寄り、嬉しそうに笑顔を向ける。心寧の頬がまた一段とだらしなくなった。


「お兄ちゃん、とりあえずのところは叔母さんにも黙っておこう。バレた時にまた考えよう」


 二人の虜になった心寧は先ほどまでの俺に対する警戒やらなんやらがすべてなかったかのように明るい笑顔で言い放った。まったく調子のいい奴だ。


「そうだな。ひとまず親戚の子を預かってることにするつもり。叔母さんには通じないけど」

「叔母さんにバレたらまた説明するしかないね」

「…………そうならないことを祈る」


 叔母さんは出張も多い人間で、オーナーとはいえ住んでいる地域は違う。だからあまり会うこともないし、修行が長引かない限りはバレる危険性も低いだろう。

 すべては二人の修行次第。心寧に抱きしめられている二人を見やり、俺も改めて気合いを入れ直した。俺が気合いを入れたところで意味はないだろうけど。


「ところでさぁお兄ちゃん」


 心寧が二人から離れて神妙な面持ちで俺を見やる。


「二人、このままずっと閉じ込めておくつもりじゃないよね?」

「まさか。人聞きが悪いからその言い方はやめろ」


 それじゃ修行が終わるわけもないだろうし。俺は途方に暮れている問題を思い出して肩を下げる。


「どうしようか俺も考えてみたんだけど、小学校ももう通えないらしいし、シッターを雇うわけにもいかないし、もうどん詰まりだよ。俺の知識だけじゃ」

「もう。お兄ちゃんは本当に疎いなぁ」


 心寧は呆れたようにため息を吐くと、鞄からスマホを取り出した。


「この前ね、取材でフリースクールを運営しているボランティア団体のところに行ったの。もしかしたら、そこなら通えるんじゃない?」

「フリースクール?」


 聞いたことがない言葉だ。心寧の言う通り、俺は自分の生活に関係ない知識はあまり持ち合わせていない。耳慣れない言葉にぽかんとする俺に心寧はスマホをぐいっと見せつける。


「何らかの事情で学校に通えない子とかを預かるところなの。学校代わりとしてね。そこから学校に通うことを目指したり、社交性を身につけたり、通う目的は様々なんだけども」

「へぇ……そういうのがあるんだ。学童とはまた違う?」

「うん。ここは放課後だけじゃなくて、昼間から通えるから」

「そうなのか」


 心寧のスマホに映し出されているのは、”たぬきの塾”という名前のフリースクールを特集した記事だった。心寧が取材に行ったというフリースクールなのだろう。


「ここならちょうどこの近くにあるし、二人も通えるんじゃないかなぁ?」

「たぬきの塾?」

「うんっ。先生たちも皆いい人だったし、規模もそこまで大きくはないからちょうどいいかもしれないよ?」

「ふぅん……」


 記事に目を落とすと、このフリースクールの運営代表、浦邉大志の写真が載っていた。まだ若そうに見えるけど、彼の笑顔を見る限りは確かにいい人そうではある。

 しかし人を見た目で判断してはいけないしな。

 ソファに座ってこちらを見ているエヤとミケに目を移してみる。すると二人は同時に首を傾げて反応してきた。


 うん? なんだこれは?

 俺の知らない感情。そう例えて言うなら、初めて芽生えた保護者心のようなもの。そんな使命感のようなものがじんわりと胸に滲む。


「……ちょっと考えてみる」

「うん。そうするといいよ。私的には悪くないと思う。全く知らない人じゃないし、代表の浦邉さん、いい意味で変わってるからさ。ここなら、二人の特殊な事情も詳しく話す必要もなさそうだし。あ、見学とかしてみてもいいかも。私が繋いであげるから」


 いい意味で変わってるってのが引っ掛かるけど、色んな人に取材している心寧が言うなら悪い人でもないんだろうな。

 でも二人を安心して預けられる場所なのか、心寧の言う通り一度確かめておかないと少し不安だ。

 なにせ二人は普通の子どもじゃない。それにマーフィーから預かっている天の住人なんだから余計に気がかりだ。どうにか穏便に修行を終えたい。


「…………そうだな。ありがとう心寧」

「いーえ! もうお兄ちゃんだけだと心配だもん。なんかあったら手伝うよ」


 心寧はそう言ってニーッと笑った。余計なことばっか言うけど、やっぱりこいつは頼りになる。確かに俺だけだとフリースクールなんて辿り着かなかった道だし。

 俺が改めて心寧の提案に感謝を実感していると、心寧はさっと鞄を手に取る。


「じゃあそろそろ帰るよ、私」

「送るか?」

「ううん。大丈夫。お兄ちゃんはミケちゃんたちの相手をしてて」

「分かった。気を付けて帰れよ」

「分かってます!」


 得意げに振り返った心寧は、ミケとエヤに笑顔で手を振って家路についた。


「ココネチャン、いい人だすな!」


 玄関の鍵を閉めると、エヤがそう言って笑いかけてくる。


「うん。自慢の妹だよ」

「んふふふふふ」


 少し不気味に笑うエヤ。この笑い方が癖なのはもう分かっている。


「じゃあもう二人は寝る準備しなさい」

「えー? もうだすか?」

「そうです。寝る子は育つって言うからな」

「われたちは子どもじゃないよ」

「はいはい」


 ぶーたれる二人を横目に俺は心寧に教えてもらったたぬきの塾についてスマホで調べ始める。

 フリースクールか。

 確かに二人にとっても良い場所かもしれない。

 寝る支度のために部屋へと入っていく二人の背中を見送りながら、ふとカーテンの隙間から見える夜空に目を向ける。

 もしかしたら、見かねたマーフィーが俺の願いを聞いていてくれたのかも。


「…………いや、ないよな」


 心寧の突然の訪問に活路を得た俺は、そんなエヤとミケが聞いたら首を傾げるようなことを考えてしまった。

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