ママ、いかないで。

おもながゆりこ

第一話 青い鳥を求めて

     プロローグ

     

     

     

 青い鳥は意外な場所にいました。

 散々探したのですが、本当に意外な場所にいました。




     ★




 健さんは奥さんに電話して私の所にいると言った。

 私はよせばいいのに、と昔の演歌を思い出しながら黙っていた。

 よせばいいのに、本当によせばいいのに。

 そんな事をしたら、あなたの妻はこのアパートに来ようとしてタクシーを飛ばすだろう。場所を明確に覚えていないから、運転手に当たり散らしながら車をあちこち迂回させ、苛立ち、また精神を病むだろう。修羅場になるのは目に見えている。

 よせばいいのに、あなたは何故わざわざ修羅場を望むのか?

「逢いたいです。逢えますか?」

 確かに私はあなたにそう言った。だが本当に逢いたくてそう言った訳ではない。

「逢いたいです。逢えますか?って、俺に言ったじゃねえか」

 そう息巻くあなた。だから何?それがどうしたの?

「お前、俺に逢いたいです。逢えますか?って言ったよな」

 はいはい、確かにそう言いましたよ、認めますよ。

 ただね、何故そんな事を言ってしまうのか、自分でもよく分からないんですよ。そう言って相手が慌てふためくのが面白いんです。その後、急に態度が変わり、色々便宜をはかってくれるのも嬉しいんです。

「逢いたいです。逢えますか?」

 そう、それは私の常套句。

「逢いたいです。今○○に居ます。来てくれますか?」

 そう言えば、たいていの男性は落ちる。こっちから逢いに行くのではなく、どこそこに居るから来い、と言う。あなただけではない。男たちは勇んで飛んでくる。私のゲームだ。

 健さんが受話器に向かって言う。

「舞ちゃんから電話が入ってね。泣きが入っていたんだよ。で、心配だったから来たの」

 私のせいにして、男らしくないねえ。映画俳優の高倉健さんとエライ違い。だいたい泣きが入っているって何なのよ。

「舞ちゃん?今代わるね」

 そう言って私に受話器を差し出す健さん。うまく話を合わせろ、そう顔に書いてある。

 誰がそんな事をしてやるもんか。無視していると受話器に向かい

「ああ、舞ちゃんトイレに入っちゃった」

 と言う。


 ああ私は何故いつもこういう事をしてしまうのか。本当に病気だ。




 十八歳になり、年を誤魔化さずに水商売を出来るようになった私は、遂に銀座デビューを果たした。それまでは埼玉のクラブで年をふたつみっつ上に言って働いていた。若いから、器量もスタイルも良いから、どこでも雇ってもらえた。

 源氏名は舞(まい)。本名は山路美知留(やまじみちる)。

 水商売には本名でやると夜の世界から抜けられなくなるし、続けたとしても上に上がれない、というジンクスがある。だから源氏名は必須だった。

 舞ちゃん、舞ちゃんって指名してくれる客は幾らでもいたよ。

「昼間は何しているの?」

 たいていの客はこう聞く。

「〇〇さんを思って過ごしています」

 そう言うと必ずウケる。

「俺を思って昼間過ごしているの?あはははは」

 昼間は派遣で画廊勤務。派遣でなきゃ美大出身でもない私が、銀座の画廊なんて雇ってもらえないよ!

 受付に座り、ふらっと入って来た客が、展示されているシャガールやらカシニョールを見てまたふらっと出て行く。それで商売になるの?って、思われそうだけど、経営は何とか成り立っている。そこの仕事が終わると、そのまま歩いてクラブへ出勤。



 クラブは銀座でも一等地、並木通りにある。在籍ホステス、二百人を抱える大所帯。下は十代から上は五十代まで、銀座のホステス特有のオーラを放っていた。ビルの一階から三階まで姉妹店になっていて、それぞれ売り上げを競うようになっている。

 私は三階の「クラブ江里子」。江里子組って呼ばれる所に属していた。一階は麻耶(まや)ママの率いるクラブ麻耶、二階は深雪(みゆき)ママが取り仕切るクラブ深雪。

 私は江里子ママの人柄が好きだから、江里子組に配属されて良かった。江里子ママはね、きっぷが良くて江戸っ子って感じの人。サバサバしていて私の事も可愛がってくれる。だから好き!ママの悪口言う人もいたけど、私は絶対言わなかったよ。

 そこに新しく入って来たのが咲(さき)さん。年は二十六歳だから中堅になるんだけど、この道十年とかで、じゃあ十六歳からやっていたの?私と同じじゃん!って思った。

 最初見た時、こういう人を妖艶って言うんだなって思った。何か大物政治家の愛人でもやっていそうな雰囲気。

 水商売にも仕事が出来る、出来ないってあるけど、咲さんは出来る!一度付いたお客さんの名前やどこに勤めていて、役職が何で、有名人の誰とつながりがあるとか、好きなお酒の銘柄、前回どんな会話したかとか、全部頭に入っていた。


 私も負けていないよ。小さいメモを持ち歩き、そのお客さんの特徴や、どんな会話したか、ちょこちょこメモっていた。

 咲さんは他の人と違う!美人だししっとりしていて声も綺麗。もうひとつ、咲さんには普通の人が一生経験しないような事を知っちゃいましたって雰囲気があるの。そこが人を惹き付けるんだよね。だからママにもすぐ気に入られ、ママの御贔屓さんの席には必ず咲さんが座っていた。

 咲さんはあっという間に人気ホステスに昇りつめた。本当にあっという間。それまでナンバーワンだった京子ちゃんはナンバーツーになり、悔しそうに咲さんを睨んでいる。

 銀座のクラブって言うと、高級で高給(駄洒落じゃないよ)そうなイメージだけど、実際は日当で、働いた分だけ収入になる。夜の七時半から十一時半までの四時間勤務で、一万二千円。世間の人が思っているほどの収入ではないの。

 これは派遣も同じ。派遣は朝の十時から始まり夕方の六時に終わる。日当七千円。

 目黒のアパートにひとり住まい。

 勿論、生活費は自分で全部まかなっている。誰の助けもなく。自力でやっているよ。

 昼も夜もクタクタになるまで働いて月収三十八万円くらい。ボーナス?何それ、そんなもんないよ。ゴールデンウイーク等で出勤日数が少なければ収入も減る。家賃や水道光熱費、食費や雑費諸々支払いを済ませ、貯金をするとたいして手元に残らない。何の為に働いているのか?何の為に生きているのか?時々分からなくなるよ。

 どうしてそんなに働くのって聞かれそうだけど、忙しければ忙しい程孤独を忘れられるから。さびしいならどうしてひとり暮らしするのって聞かれそうだけど、親が親であって親でない、機能不全な家庭に育ったから。




 父親の顔は知らない。母親は十六歳で私を産んだ。つまり私の年にはもう小さい子のいるお母さんだった訳。私を産めばその彼氏が自分と結婚してくれるって思っていたのか何だか知らないけど、決してそうはならなかった。父親は私ごと母親を捨てた。お互い高校生だったっていうのもあるんだろうけど。

 母親は高校を中退して私を産み、ホステスをしながら一応育ててくれたけど、家事もしないし、親らしい事は全然してくれなかった。食事は出来合いのお弁当やパンばっかりだし、部屋はいつも散らかっているし、怪我しても火傷しても赤チンだけ塗って放っておくし、夜になると私を布団に押し込んで

「寝てな」

 って、言い残して仕事に行くし、良い親とは決して言えなかったよ。

「ママ、行かないで」

 って、泣いて追いかけても、振り向きもせずに玄関を出て行く。

「ママ、置いて行かないで」

 って、私の声にも反応せず行っちまう。

 ガチャリ、外から鍵を掛けてツカツカと、ヒールの音を響かせて遠ざかっていく母親。取り残された私はたったひとりで過ごすしかなかった。テーブルの上にパンが幾つか置いてあって、お腹すいたらこれを食べろって事だろうと思った。

 ただ、数が少なくてさ。いつ次のパンを買ってきてくれるか分からなかったから、ちびちび食べたよ。この一個のパンでお腹いっぱいにしなきゃいけないんだ、明日の朝はこっちを食べよう、とか思いながら。

 

 誕生日を祝ってくれた事もなく、

「今日、みちるの誕生日だよ」

 って、試しに言った事あるけれど、

「うん、おめでとう」

 としか言ってくれず、ケーキもプレゼントも何もなかった。勿論クリスマスにサンタさんが来た事もなかったしね。何回か言ったけど結果は同じ。

 抱っこして欲しくて母親に向かって両手を上げても無視するし、椅子に座っている母親の膝によじ登って座ろうとしても拒否された。私の頭を撫でて欲しくて母親の手を持って自分の頭に乗せてみた事もあったけど、すっと引っ込めて撫でてもくれなかったし。甘えられるのが嫌だったんだろうね。何回も挑戦したけど結果は同じ。

 だから段々そういう事は望まなくなった。突っぱねられて惨めになるばっかりだし、何より私は愛される価値がないんだって分かったからさ。

 本当に母親らしからぬ母親で、自分の事ばっかり!私の事はまるきり眼中にないんだから!

 いかにも水商売って風貌で、首の後ろやら肩やら太ももの両側に入れ墨なんてしちゃって、見せびらかさんばかりにミニスカート履いたり、肩の露出した洋服を着たり、派手なギャルママだったよ。段々大きくなるにつれ、そういう母親が恥ずかしくて嫌になった。

 

 おぼろげに覚えているのが、いっぺんだけおじいちゃんとおばあちゃんって人に会った時の事。この子?って、いうような、変な目で見られたよ。孫の私に優しい言葉のひとつもかけてくれなかったし、こっちも何なんだろうって思った。

「若気の至りの子なんでしょう」

 だってさ。ワカゲノイタリ?なんじゃらほい。意味が分からなかった。

 

 勿論小さい頃は母親が好きだったよ。本当に大好きだった。どこかへ連れて行ってくれれば嬉しかったし、そこで知らないおじさんやらお兄さんに紹介されて、あれ?この前の人と違うって心の中で思いながらも、母親を愛してくれるならいいかなって挨拶していた。

 多分私が二歳くらいの時の事。そのうちのひとりに

「パパって呼んでくれる?」

 って、懇願するような顔で言われたのを覚えている。訳が分からないまま頷いたもんだよ。何となくこの人にすがったら生活が良くなるような気がしたからね。

 綺麗な教会で結婚式も挙げたし、母親もその時だけはしおらしい顔で花嫁衣裳着ていたし、私もドレス着せてもらえたし、披露宴で新しいパパが私を抱っこして

「二人を幸せにする事を誓います」

 って、宣言して大勢から拍手喝采受けていたし、私にもまあまあ優しかったし、その人の事は割と好きだった。母親もしばらくは水商売を辞めて家にいる生活するようになったし。

 でね、そのパパが出張で家を空け、翌日帰って来るっていう日の事。知らない男が家に来て、母親とイチャイチャしていたの。子ども心にも、あれえ、何かおかしいなって思っていたよ。黙って見ていたけど。

 そこへ翌日帰る筈のパパが

「ハーイ、ただいま!」

 なんて言いつつ、ビデオカメラ(当時はとても珍しかった)を回しながら笑顔で家に入って来たんだよ。

 どびっくり!母親と私を良い意味で驚かせようとしたんだろうね。

「パパ!」

 と叫んで家に入らせまいとしたよ。母親を庇いたかったからね。勿論パパが傷つくのも嫌だった。

 だがパパは見てしまった。下着みたいな恰好でくっついている母親と知らないお兄さんを。

 まだ昭和四十年代、そりゃあ今と違ってスマホもSNSもない時代だったから、その映像を世界に向けて発信、なんて事はなかったけど、その場は凍り付いたよ。

 その後どうなったか、よく覚えていない。その男が服を掴んで窓から飛び降りて逃げて行ったのだけは見た(アパートの一階だったので、怪我しなくて済んだのは不幸中の幸いだった)。パパもその日のうちに家から出て行った。

 母親は埼玉の坂戸にアパートを借り(それまでどこに住んでいたかよく覚えていない)、再び水商売を始めた。そして男ばかり作るようになったよ。

 母親の関心は自分の事だけ!自分がいかに綺麗でいるか、ホステスとして売れるか、それしか興味なくて、実の娘にさえ無関心を決め込んでいた。

 本当になんにも言わないの!学校の成績が悪くても帰りが遅くても!

 掃除も洗濯も全然やらないし、うちはいつもゴミ屋敷みたいで、そのせいか喘息になり、咳が止まらずいつもコンコン咳をし続けているような子どもだったよ。


 小学校の入学式でさえ、露出の多い派手な格好で来て、記念写真もうちだけ浮いていたし、その頃からうちは他の家と違うのかなって段々分かってきたのを覚えている。  



 学校で自分の名前の由来を聞いてきましょうって言われた時の事。

 息せき切るように家に帰り、母親に

「どうして美知留って名前にしたの?」

 って、聞いたら

「童話の青い鳥の話が好きだったから」

 って、極めて素っ気ない返事が来ただけで、あんまりよく考えて付けてくれた名前でもなかったみたいだし。

 学校の図書室で、青い鳥の絵本を見つけて読んでみて、母親はこの話が好きなんだって思った。親子だからって訳じゃないけど、私も青い鳥の話は気に入ったよ。私もチルチルミチルみたいに青い鳥を見つけたいな。名前がミチルだから見つけられるかな、なんてね。〇〇子って名前が主流だった時代にしてはハイカラな名前だったしさ。

 学校の授業参観にも、面談にも、運動会にも、母親はまったく来なかった(入学式に来てくれただけ良かったんだろう)。友達は教室に自分のお母さんが入って来ると、妙に舞い上がっちゃってさ、私も心の中でいつも、今日はもしかして、今日こそ来てくれるんじゃないか?と期待していたけど、母親は一度も来なかった。

 みんなのお母さんはちゃんと来て、あれやこれや世話してくれている様子だったけど、私の母親は一度も来なかったし、友達が家に遊びに来ても、布団の中でただ眠っているだけで、こんにちは、さえ言わず、おやつ出してくれる訳でもなく、本当に「お構いもしません」状態だった。

 反対に私が友達の家に遊びに行った時の事、そこのお母さんがお茶やおやつ出してくれたのはいいけど

「あなたのお母さん、お仕事は何している人なの?」

 って、咎めるような目つきと口調で聞かれた。返事に困って黙っちゃったよ。

 家に帰って母親にその事を話したんだけど

「ふうん」

 としか言ってくれなかった。娘が嫌な思いしているのに、全然心配してくれず、話もろくに聞いてくれず、余計傷ついたな。

 次にまたその友達の家に遊びに行った時の事。私が家に上がる際に他の友達の真似をして靴を揃えたら、そのお母さん、独り言のようにこう言ったよ。

「親が水商売の割に、きちんとしているわね」

 勿論傷ついた。


 次の日学校に行ったら、その友達に

「うちのお母さんが、山路さんのお母さんは夜、男相手に働いている人だって言っていた」

 って、見下すような顔で言われたし。それも返事のしようがなかった。

 ひどい友達になると

「うちの親、山路さんの親は水商売だから、そんな家の子とは遊ばない方がいいって言っていた」

 って、面と向かって言うし。その友達、給食の時間に牛乳をお酒みたいな注ぎ方しながらこうも言ったよ。

「山路さんのお母さんの真似」

 別の友達が調子に乗って、近くに居る男子と腕を組んでしなだれかかりながら

「山路さんのお母さんの真似」

 って、言いやがった。そうしたらまた別の友達が、絵の具で腕に模様を描いて

「山路さんのお母さんの真似」

 だってさ。みんな嘲笑って私を見るし、たまらなかったよ。

「山路さんって、いつも同じ洋服だね」

 とも言われたし。それもしょうがないじゃん。母親は自分の洋服はちょこちょこ買うけど、私の洋服なんてめったに買ってくれないし。心の中で呟くのが精一杯だった。

 先生が見かねたのか、私がひとりの時に

「山路さん、大丈夫?」

 って、聞いてくれた事があったけど、その時も返事のしようがなくて黙っちゃった。大丈夫じゃなかったし、それより友達が私の母親の真似をするのをやめさせて欲しかった。

 ただその先生、運動会でお弁当を食べる人がいない私を可哀想に思ったのか、二人分お弁当を作ってくれて、一緒に教室で食べてくれた。他の子たちはみんな校庭で家族と食べていたけどね。友達にからかわれたりいじめられたりしないよう気を使ってくれているのは分かったけど、先生の憐れむ目は嫌だった。

 その先生、私が卒業するまで毎年必ず運動会のたびにお弁当作って持って来てくれて、教室で一緒に黙って食べてくれたよ。勿論遠足の時も、作ってくれたお弁当を他の子に分からないようにさっと渡してくれた。もしかして家庭に問題がある私を気の毒に思って、毎年自分が担任を引き受けるって校長先生か誰かに言ってくれていたのかな?

 家庭訪問の時も、母親がネグリジェで玄関を開けるから恥ずかしかったな。いくら女の先生ったって、そんな恰好で出て来る母親なんて見た事ないみたいで、びっくりしていた。

 それで、何回目かに

「お母さん、私がお片付けをお手伝いしましょう」

 とか言って、乗り込んできたよ。うちがゴミ屋敷みたいになっているから、見るに見かねたんだろうな。

「あらあ、どこから手をつけましょうねえ」

 だって。せっかくの日曜日、彼氏とかいないのかね?先生ったら汗だくになりながら、一日がかりで私の家を片付けて、山のようなごみを捨てて、洗濯までしてくれて、

「ああすっきりしたわね」

 とか言って、帰って行ったよ。何回もそうしてくれた。帰り際、

「先生、有難う」

 って、小さい声で言うと

「いいのよ、山路さん」

 って、また可哀想って目をされた。母親はその先生に有難うとさえ言わなかったけどね。


 卒業式の時も、他の友達はみんな新しい洋服を着て誇らしげにしていたけど、私は普段着で出たよ。母親は来なかったしね。

「山路さん、卒業おめでとう」

 って、私の胸に花を飾ってくれたのは、六年間担任を務めてくれた先生だった。

「先生、何度もうちを片付けたり、お弁当作ってくれたり、色々気づかってくれて、有難う」

 そう言おうとしたけれど、何故か言葉にならなかった。

 もう会えないから、今言わなきゃって思ったけど、どうしても口が動かなかった。




 小学校はともかく、中学校は授業参観が少ないし、来ないお母さんも増えるから気が楽だった。制服もあるし、いつも同じ洋服だとかいじめられなくて済むしね。

 母親は相変わらず昼間は寝て、夕方クラブだかスナックだかに出勤していき、夜更けや明け方に酔っぱらってイカレて帰って来てガーガー寝る。この繰り返し。

 それでもグレる元気はなかった。グレている友達もいたけど。両親揃っていて、まともな家庭に育っていながら何が嫌でグレるのかい?って、思っていた。

 私なんて生まれた時から片親で、お金もなく、ほっとかれて、会話らしい会話もなく育った子だよ、なんて言えなかったけどさ。

 それより早く大人になってこの生活から抜け出したいって思っていた。この家もこの母親も嫌いだけど、坂戸自体も田舎でなんにもなくて、嫌いだった。




 ああ東京へ行きたい!

 電車に何時間か乗れば行けるけど、遠くて光り輝くような大都会。

 是非とも東京に出たい!

 必ず青い鳥が見つかる筈!

 そう、私を幸せにしてくれる青い鳥!

 母親を、私の理想とする良いお母さんにしてくれる青い鳥!




 中学でもひとりだけ、いつも私を心配そうな眼差しで見てくれている先生がいたな。美術担当で、まだ教師になって日も浅くて、あまり教師として免疫が出来ていないような女の先生だった。

「山路さん、山路さん」

 って、何かと声かけてくれてね。その先生も色々と気づかってくれてさ、小学校で六年間お弁当を一緒に食べてくれた先生の魂が受け継がれているような気がしたもんだよ。惨めな気持ちに変わりはなかったけどね。




 高校に進学する時も、私はうちの経済状態をじゅうぶん分かっていたから、県立に行くしかないって言われずとも思っていた。埼玉県内でも偏差値の低い県立高校を受け、何とか入学。美術の先生はおめでとうと言ってくれたけど、母親はそれすら言ってくれなかった。

 本当に私の事なんてどうでもいいんだろう。新しい男の事しか頭にないんだろう。

 その美術の先生、卒業式の日も

「山路さん、元気でね」

 って、言ってくれた。変わらぬ憐れむ目で…。


     

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る