12章その1 天啓と陥穽①

 四日目の朝。

 未明からの風に運ばれてきたのだろう、空には暗灰色の雲が低く垂れ込め、ぬるく湿った空気がサウスウェルズを包んでいる。

 聖堂に集まった面々は、疲れ切った顔でそれの前に立ち尽くしていた。

 例の場所に横たわっていたのは、セラだった。消えかけの扼痕とまだらに焦げた身体。焦げ跡以外に痕跡のない床に、塞がれたままの隠し通路。すべてが同じだった。

 死体を前に、ハルは不気味なほど静かだった。無表情に黙々と現場の検分を行うその姿は昨日までとはまるで異質なものだったが、そのことについて何か言う者はいなかった。誰もが皆、余裕がなかったのだ。

 死体を安置室へと運んだ後、審問が行われた。

 今回は場にローザも加わった。というより、彼女の告白から審問が始まった。

「すいません。話すべきことがあります」

 三人も犠牲が出るに至り、もはや自分の都合だけで伏せておくなどできない。そう前置きした彼女は、すべてを吐露した。

 クラッドの名は、その場にいる全員が知っていた。ただ、逃亡後にその姿を見たという者はいなかった。

「あの男が……あの罪人たちが生きていたとは」

 マズローが、この聖職者には珍しく憎々し気に声を荒げた。

「あの罪人たちのことは、片時たりとも忘れたことはありません。連中の罪はこの町の汚点であり、取り逃がしたのは私の一生の不覚です!」

 だが、話がローザの処遇に及ぶと意外にも言葉を濁した。

「ローザ、あなたたちは本当の姉妹より姉妹らしかった。罪を犯してしまったのもそのせいでしょう。それを裁くのがよいことなのかどうか……私には分かりかねます」

 悲しそうな顔でそう言うと、彼はミナたちに頭を下げた。

「どうか今しばらく、彼女の処遇を留保していただけませんか」

 異存があるはずもなく、二人は黙って頷いた。ほっとした司教の顔を見て、ミナの胸が熱くなる。そっとローザを見遣ると、泣きそうな顔で俯いていた。

 隠し通路に関しても、予想通り全員が知らないと答えた。代々の司教へ伝えられるはずの秘密だったのだろうと説明するハルに、一同納得した様子だった。

 その後の審問では、早朝に死体を見つけたのがロンゾだった点を除けば、これまでと何一つ変わらない答えが返ってきた。もちろん、セラを殺したと名乗り出る者もいない。

 次いで事件当夜の流れが確認された。

 まず、ミナとハルの口論はロンゾを含めた関係者全員、そして教会付近に住む住民何人かの耳にも届いていた。

 自室の扉から様子を窺っていたローザは、ミナの部屋から出てきたハルに声を掛けた。彼から簡単な釈明があった後、二人は念のためセラの安否を確認する。

 ドアは開けてくれなかったものの、中からははっきりと彼女の声が返ってきた。つまり、セラが殺されたのはそれ以降ということになる。

 一方のロンゾは、何事かと騒ぎ出した住民たちを何とか収め、修道院へと取って返した。また、マズローはウェルとノラに自室待機を命じ、こちらも様子を見るため宿舎を出た。

 二人は修道院入口でハルたちに出会い、説明を受ける。その後、ローザとマズローは自室へ、ハルは夜警を志願してロンゾと共に町へ出て行った。今の町は異邦人にとって危険だし、暴動のきっかけにもなりかねない――そうロンゾが繰り返し制止したが無駄だった。

 以降、二人による夜回りは朝まで続けられたが、怪しい人物を見かけることはなく、大きな物音も一切聞かれなかった。

 そして、早朝。関係者が出歩くのは危険だからと、前日のうちに聖堂の清掃係を買って出ていたロンゾが死体を発見することとなる。


 大規模な捜索が行われた。もちろんクラッドを見つけ出すためだ。町の中はマズローとハル、ミナの三人、そして敷地内はロンゾとローザ、残りの関係者で手分けして当たった。マズローの同行が効いているのだろう、住人たちは表面上は協力的だった。

 敷地内ではまず修道院、特にセラの部屋が重点的に調べられた。そこに不可解な謎があったからだ。

 一体、セラはどのような方法で聖堂へ連れ出されたのだろう?

 昨夜、彼女はミナたちにすらドアを開けようとしなかった。相手がクラッドなら尚更だろう。では、どうやって彼は部屋へ侵入したのだろう? そしてその際、なぜセラは大声を上げなかったのだろう? ミナとローザが一睡もせず襲撃に備えていたが、助けを呼ぶ声はついに聞かれることはなかった。

 疑問を解消すべく念入りに検められたが、彼女の部屋からはこれまで同様、目ぼしい痕跡は一切見つからなかった。ドアに鍵は掛かっていなかったが、こじ開けた形跡もなかった。雨戸は内側から閂が掛けられており、こちらにも細工の形跡はない。そして、どれだけ探しても秘密の通路といったものは存在しなかった。結局、この調査で得られたものは一層深まった謎だけだった。

 これ以外の場所でも、捜査は目を皿にして地に這いつくばり、髪の毛一本、蟻一匹見逃さないほどに徹底して行われた。言葉を慎重に選んで、町の人間すべてに隠し部屋について尋ねて回ることもした。だがいずれにおいても、それこそ毛の先ほどの成果も認められなかった。この町に隠し部屋は存在しない――それが最終結論だった。

 正午を大幅に過ぎた頃。徒労を抱え込んだ審察官たちは、誰が言うでもなく聖堂に集まった。

「なあ、落火の連中の証言は本当に信用できるのか?」

 ロンゾが苛ついた声を上げる。

「落火だぞ? しかも、片方はよりによってテパの連中なんかと組んでやがるんだぜ?」

「ミト教徒は偽証ができない」

 疲れた顔でハルが答える。

「そいつ、本当に信徒なのか? どこからか流れてきた異教徒じゃねえのか?」

「スロースは加護持ちだし、聖痕も確認した。間違いなくミト教徒だ」

 それを口火に、三人の間でいくつかの意見が出されたが、どれもこれもすでに一度考えられたか、もしくは憶測にすらなっていないものばかりだった。

 ――外壁のどこかに仕掛けがあるのではないか?

 隠し部屋の存在を諦め切れないロンゾから出されたアイデアだ。だが、外壁は巨石を二十メートルもの高さに積み上げたもので、全体が崩れないように強度を保ちつつ隠し部屋を設えることは不可能だ。そして、似たようなことは教会にも言える。設計図にあった通り、そこには隠し通路以外の仕掛けは存在しないと考えてよい。

 ――クラッドは町の住民になりすまして潜伏しているのではないか?

 全員が顔見知りであるこの町で、これはあり得ない。実際、審問時に住民一人ひとりと顔を会わせているロンゾにより、全員が町の人間で間違いないと断言されている。

 そもそも、クラッドは隻腕で加護持ちという強烈な特徴を備えている。他人になりすますのはまずもって不可能だろう。

 実際、住民の中に隻腕はいない。また加護については、住民に対する審問時にハルがその有無を尋ねており、全員が否定している。その際、聖痕がないことも同時に確認しており、住民に加護持ちがいないことは確実だ。

 ――クラッドは何らかの事故などで命を落としているのではないか? そして、死体は住民の誰かによって処分されたのではないか?

 ここで一つはっきりさせておくべきことがある。

 ここで一つはっきりさせておくべきことがある。

 住民たちへの審問には、ひとつの手落ちがあった。侵入者について、『引き入れたか』『匿っているか』という二つの問いしかなされなかった点だ。

 なるほど、普通であればそれで十分だったろう。だが、そこには落とし穴があった。で、侵入者と住民が繋がっている可能性が消えずに残ってしまったのだ。

 前述の「死体処分」説もその一つだ。『侵入者の死体を隠したか』とは審問していないので(暴動に繋がる危険があるため追加で質問もできないでいる)、可能性自体は否定できない。

 だが処分するといっても、バラバラにして埋めるか井戸に放るかくらいだろう。

 そして、バラバラにした可能性はない。解体時の痕跡が残らないはずがないからだ。例え作業した一帯を水で洗い流したとしても、刻まれた解体の跡を完全に消し去るのは不可能だ。ならば、死体を窓掛けなどに包んで血痕を防ぎ、使った後で燃やして処分してしまえば? だが、町にある物資はすべて共同財のような性質を持っており、どこに何があるのか皆が把握している。そのため、何かがなくなればあっという間に露見してしまう。これもあり得ないのだ。

 それでも墓所、井戸、畑と、いずれも念入りに調べられたが、怪しむべき点は何一つ見出されなかった。

 ――修道女の死体のいずれかが実はクラッドなのではないか? わざわざ死体が焼かれていたのは容姿をごまかすためではないか?

 けれど、いくら焼死体といっても男と女を見間違えるはずがない。加えて、クラッドは隻腕という特徴がある。死体検分が顔見知りによってなされているのも相まって、誤魔化すことはできない。

 そもそもの話、修道女とクラッドと入れ替わったとして、彼女はどこに隠れているというのだろう―― 

 万事がこの調子だった。どこか一部分でもいいから説明しようとすると、途端に別の問題に引っかかってしまう。いくら検討を重ねても、八方塞がりの現状が確認されるばかりだった。

 やがてまっとうな案は減ってゆき、普段なら一顧だにしないような、荒唐無稽なものが目立つようになった。

 例えば。

 ――別の加護持ちに協力してもらって、目にも(もちろんスロースの加護にも)とまらぬ速さで町に出入りしているのではないか?

 結論から言うと、これは不可能だ。

 まず、前提として瞬間移動はできない。加護によって何かを移動させたいのなら、そのものに外力を加えなければならない。

 そしてここが重要なのだが、加えられる外力は現実の力学を無視することができない。加護は超常の存在だが、だからといって力学を超越することはないのだ。

 例えば、マズローの『巨腕』。大地を抉り、異教徒の集団を撃退するほどの力を備えているが、破壊できないものがないかといえばそんなことはない。それは対象物の材質や強度、そして力学の法則に左右されるのだ。

 その大きな腕には炭を握り締めて金剛石にするほどの握力はないし、糸の代わりに鉄棒を使って編み物をするほどの腕力もない。そして、全力で人間を投擲したとしても、目にもとまらぬ速さを生み出すことはないのだ。関節などの力学的構造による制限、巨腕と人体の大きさの比から考えて、人がボールを全力投球する速度を幾分か上回るのがせいぜいだろう。

 巨腕がおおゆみ、投石器、強風――ほかの手段に変わっても同じだ。それらを再現する加護があったとしても、力学に基づいての速度が出るだけだ。音の速さを超えることすらありえないだろう。

 ついでに言えば、外壁や教会に隠し部屋がないと結論を下したのも、同様の背景からである。加護だろうと、建物の力学的な構造を無視することはできないのだ。

 こういったことはミナたちからすると常識だ。それでも一つの案として口に出してしまうところに、事態の深刻さが表れていた。

 議論が途切れたところでハルが背もたれに身を投げ出した。

「つまり、クラッドは俺らの知らないどこかにいるってことだな」

「つまり何も分かってないってことだろ!」

 ロンゾが長椅子を蹴りつける。つい昨日まではハルを止める側だった彼も、すでに自制の限界を迎えようとしていた。

 そして、それはミナも同じだった。ただ彼女の場合、蹴りつけたかったのは椅子ではなく、自分自身だった。

 絶対に死なせないと約束したのに、ハルも協力してくれることになったのに――セラは殺されてしまった。脳裏に浮かぶのは、今朝目にした焼けただれた顔。白濁した、恨みがましい二つの目が彼女を見つめていた。

 堪え切れずに天を仰ぐ。丸い闇が広がる。

 ――今の状況そのものだ。

 恒炎の光すら届かない、闇。この聖堂が建ってから今日にいたるまで光を拒絶してきたその漆黒は、まさに自分たちが置かれた今の立場そのものだった。

 ふいに、闇が揺らぐ。むくむくと泡のような膨らみができたかと思うと、それはあっという間に人の形へと成長した。ぐるりと巡らせた頭部の中央に見開かれるのは、白濁した瞳。

 ミナはぐっと目を閉じ、首を振った。息を整えて瞼を開けると人影は消えており、闇が頭上を覆っているばかりだった。

 ――しっかりしなきゃ。

 もう一度首を振る。いくら闇に覆われているとはいえ、そこに人がいればシルエットとして目に留まらないはずはない。だからこそ、ミナたちは知っている。実際には闇に紛れて息を潜めている者などいないことを。失意から、これまで何度も天を仰いできたのだから。天蓋には、闇の向こうには何者もいないのだ。

「なあ、やっぱり落火たちを捕まえるべきじゃないか?」

 ロンゾが何度目かの提案をした。声は当初と比べ物にならないほど大きくなっている。

「時間の無駄だ」

「何でそんなことが言える」

「複数人が同じ証言をしているんだ。証言に怪しいところもない。間違いなくあれ以上は何も出てこない」

「やってみなきゃ分からないだろ!」

 ハルの口から大きなため息が漏れる。

「それこそ何度もやったさ。頭の中で。証言を何度も検討したんだ。あいつらから得られるものはもうない」

「じゃあ、隠し部屋を探すぞ」

「結論は出ただろ? 隠し部屋なんてないんだ。時間の無駄だ」

「じゃあどうするんだよ!」

 殺気立った怒声に対して、少年は天を仰いだままだった。ロンゾはもう一度長椅子を蹴りつけると、ふいにハルの顔を覗き込んだ。

「なあ」これまでとは別種の、冷えた感情がそこに横たわっていた。「この事件のこと、もしかして他人事だと思ってないか?」

 ミナは思わず声の主を見た。黒髪の少年へと注がれる視線にぞくりと戦慄が走る。その赤茶けた目には、暴動を起こした住民たちそっくりの光が浮かんでいた。 

「この国の人間が死のうがどうでもいいって思ってるんじゃないのか?」

「ロンゾさん!」

 悲鳴に近い声が上がる。ロンゾの姿に、つい先ほど幻視した黒い人影が重なる。

 決壊しつつあるのだ。これまで鉄の意志で抑え込んできた感情が。昨日のセラと同じように。

 ――何か言わないと。

 けれど焦りが焦りを呼び、言葉は一つも出てきてくれない。声が、空気が凍り付いていく。このままじゃ――

「すまない」

 水面に波紋が広がるような、静かな声だった。

「役に立たなくて、すまない」

 ハルだった。しっかり相手を見つめ返して、言った。

「確かに、俺は異邦人だ。この国に来てからひどい扱いも散々受けて来た。そういったことを恨んでいないと言えばうそになる」

 少し眉をひそめながら、それでも声によどみはなかった。

「だが、それはそれだ。目の前で人が殺されるのは死ぬほどつらいし、殺したやつは許せない。絶対に。だから手を抜くなんてありえない。誓って、そんなことはしていない」

 まっすぐな視線の先で、ロンゾがきまり悪げに目を逸らす。「悪かった」。その口からくぐもった、呻きに近い声が漏れた。けれど、聞こえていないかのようにハルは言葉を続ける。その目はロンゾの向こう、ここではない遠くへと飛んでいた。

「だけど、やることなすこと裏目裏目さ。頭が悪いんだろうな。こんな俺が罪人を根絶やしにしてやるだなんて、よくもまあそんなおこがましいことを――」

 唐突に言葉が途切れる。

 きっと、それ以上は言葉を続けることができなかったのだろう。そう思い、ミナはすかさず口を挟んだ。

「ハル、もういいから」

 分かっているから――そう伝えようとしたが、相手の顔を見て声を詰まらせた。彼の頬は薄闇の中でも分かるほどに紅潮し、中空を睨む両目は獲物を前にした獣のように鋭く光っていた。

「くそ!」拳骨を頭に食らわせるハル。「馬鹿か? 馬鹿なのか? この頭は飾りか!」

「ハル?」

「そうか、そうだ……」

 ぶつぶつと呟き始める。

「だったら……そう、それしか……けどそうなると……」

 声が途切れ、その黒い双眸がこれ以上ないほどに大きく見開かれた。そこに浮かんでいたのは驚愕。それ以外の何物でもなかった。

「ハル!」

 叫びに近いミナの声に、ようやく彼は顔を向けた。だがその動きはひどくぎこちないもので、落ち着きなく何度も目を瞬いている。 

?」

「……論理的にそれ以外ありえないのなら、前提を棄却するしかない」

「ねえ、何を見つけたの!」

「ちょっとだけ一人にしてくれないか」絞り出すようにハルが答えた。「本当に馬鹿げた思い付きなんだ。だから整理する時間がほしい」

「だめ、今教えて! 私たちも協力するから!」

 ロンゾも顔を突き出す。

「知ってることはちゃんと報告しろって、こないだ自分で言ったばかりだろ? それに、また見当違いの推理をされても困るしな」

 引き下がる気がないのを見て取ると、ハルは諦めたようにため息をついた。

「確認しなきゃいけないこともあるし、手伝ってくれ」

 その言葉に、二人とも力強く頷いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る