第13話『抗う覚悟』

 背後に回ったのはいいが、そこから出来る事など何もない。ミノタウロスの頑丈な身体に、俺の腕力ではたとえ剣でも大した傷はつけられない。


 つまり、逃げ回ることだけが俺に唯一できる抵抗だ。


 ミノタウロスが、その巨体からは考えられない程の速さを誇る怪物なのは間違いない。それでも、目の前の猛牛よりは俺の方が僅かに移動速度は勝る。


 故に、逃げに徹すれば時間を稼ぐことは出来るだろう。


 だが、逃げに徹したところでミノタウロスの体力がどれほど削れるかなんて、たかが知れている。あの大斧を片手であれほど振り回した後でも息切れ一つ起こさないバケモノだ。体力を削って、いずれ見せるであろう隙を狙うのはあまり得策ではない。それに、その隙に飛び込めるほどの度胸もない。


 まさに絶体絶命である。と、絶望を味わう暇もなく迫りくる大斧を横に跳んで避ける。


 信じられない程の疾さで振り下ろされる斧に、冷や汗が止まらない。眼前の猛牛から放たれる闘気に足が竦む。それでも、何とか命を繋ぎとめているのが現状だ。


 攻撃に転ずることなどできない。攻撃へ転じた瞬間に殺される未来が脳裏に過ぎるし、攻撃へ移る隙などこの猛牛はみせてくれない。これをセレスの奴は五歳で討伐したのかよ。呆れを通り越して恐怖を覚える。


 隙も作れず、度胸もない。俺からミノタウロスに攻撃を仕掛ける状況を作り出すこと自体が困難になっている。


 

 では。


 負傷覚悟で剣を抜き、斧が振り下ろされようとビビらずに攻撃を仕掛ける。それができる度胸はなくとも、自信はある。自身はあるのだ。


 だが、いざあの猛牛の振り回す斧を見ると、あれに挑むなど無謀だと心が察してしまう。ミノタウロスの懐へ飛び込もうとする足が、咄嗟に止まってしまう。


 結局俺はこんな状況でも怪我を負うのが恐ろしいのだ。


 当たり前だ。擦り傷やちょっとした切り傷ならともかく、あんな容易く自らの腕を切り落としてしまうだろう威力をもつ斧の連撃の中に飛び込める筈がない。


 そんな度胸が、今の今まで面倒事を避けてきた小心者にあろう筈がない。逃げて逃げて、勝てる相手にしか勝負を挑んでこなかった俺には、格上と闘う資格もない。


 そんな思考に意識を向けてしまっていたからだろうか。少々、足元が疎かになってしまっていたようだ。


 足がもつれ、体幹が一気に不安定になった。身体が地面へと吸い寄せられるように倒れていく。ここにくる道中でふざけながら言ったことが、実演できなかった。


 転ぶことを事前に防ぐことなど、人は咄嗟にはできないし、そんなことに頭を回せない。こういう時に、本能は本当にやって欲しい事をしてくれない。


 転んだ時の衝撃を抑える為に、無意識に手を前に突き出して地面につけてしまった。そんな暇があったなら、せめて剣を抜いておけば良かったのに。


 地面に倒れた俺を、致命的な隙を見せた俺を、猛牛が見逃す謂れはない。


「オゴ――――え」


 声にならない悲鳴があがる。


 なんとなく分かる背中からの感触。何かに、踏みつぶされた感触がした。


 背骨が完全に真っ二つに折れた。内臓が幾つか潰された。喉の奥から何かが湧き出るように昇ってきて、口の中へと到達する。


 吐き出した。吐いても吐いても、それらは口の中から無くならない。


 感触が消えた。どうやら、猛牛は足を退けてくれたようだ。既に虫の息になった俺を、殺す価値のない稚魚だとして見逃してくれたか、と。淡い期待を胸に抱いてしまった。


 それが、より絶望を感じてしまう行動だと、知っていたのに。


 身体が宙に浮かんだ。いや、何かに足を掴まれて吊るされていた。頭が下に向けられ、頭に血が上る。息が苦しい。顔が熱い。


 それが、突如として治った。


 助かったと思った時に、自分が凄まじい速さで宙を飛んで移動している事に気がついた。地に足はついておらず、空気の抵抗で目を開けていられない。


 全身に衝撃が走った。新たな痛みと同時に、体がひしゃげそうになったところを持ち前の悪運で生き延びる。死ねれば、楽だったろうに。相も変わらず、いざという時に期待に応えてくれない肉体に、ほんの少し怒りを感じた。


 そしてやっと気づいた。投げ飛ばされたのだ、あの猛牛に。


 そして、ダンジョンの壁へと身体が打ち付けられ、危うく潰れそうだったところを生き延びたのだ。だがそれに気づいたところで、後少しの命である事に変わりはない。


 人が生きる為に必要な器官が潰れ、ダンジョンの通路を赤く染め上げてしまう程多くの血を流し、呼吸はもう止まってしまいそうな程弱々しい。


 持って数分が良いところ。立ち上がる事すらままならないだろう。


 足音が聞こえる。死を伝える足音が、ダンジョン内に響き渡る。

 猛牛が、俺の息の根を止めようと、殺気を隠さずに近づいてきている。


 だが、自らの死を眼前に、恐怖は感じない。

 

 死を受け入れたから? 違う。


 痛みでそれどころではないから? 違う。


 もう息も絶え絶えで、何も考えられないから? 断じて違う。








「ムカつくんだよ、テメエ」


――抗うと、決めたからだ。


 もう立てない筈の身体に、熱が籠る。魂が燃えているような気がする。それらがたとえただの勘違いで、錯覚だったとしても、今は己を炎と化していたい。


 立ち上がる。


 ぶるぶると情けなく震える足で、血を流し過ぎて、碌な感覚が残っていない身体で、立ち上がる。


 何も感じない。何も分からない。それでも、戦う意思だけは今更ながら燃えている。


 敵を見る。気高き猛牛にも似た魔物を見る。どこか嬉しそうにこちらを見つめる、その狂気の使者に告げた。


「失せろ」


 最大限の気迫をもって、ミノタウロスを挑発する。その挑発に、彼の猛牛は喜々として乗ってきた。


 奴の願いが強者との戦いだとするのなら、俺はそれに当てはまっていない。けれど、奴は俺を強者と見なした。


 ならば――


「相打ち上等、来いやクソ牛! 手前てめえのその願い、粉々に打ち砕いてやるよ!」


 強者ではない弱者の俺が、コイツを倒す。


 弱者に倒されることこそ、コイツにとって最大の侮辱、最低の羞恥。俺にここまでしてくれたこのクソ牛に、最高の倍返しを食らわせてやる。


 それでこそアルキバートの生き様で、それでこそ俺らしい。死の間際まで相手を馬鹿にし、蹴落とし、最低へと至らしめる糞男。


 それがこの俺――


「アルキバートだ!」


 


 


 



 




 

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