TRINITY-序章-夢
残骸の河原
かつて、ひとつの世界が終わりそうになった。
かみさまは、逃げ惑う人々を新しい世界に導いた。
その世界は昔のかみさまのための本棚で埋まった、かみさまのための楽園だった。
かみさまのための楽園は、ほかの人を招くのにはいささか現実的ではなかった。
だから、人々を救うために、かみさまはじぶんのための大切な本を捨ててしまった。
けれど、まだ人の心が残っていたかみさまはそれを消し去ることはできず、そのまま箱のなかにしまいこんだ。
だから、この世界にはかみさまの捨てた箱がどこかに存在するという。
いまも淡い夢を見ながら、時の流れを漂っているのだろう。
*
古い本にこういう。
越前來獻三枚、闔閭得而寶之、以故使劍匠作為二枚、
一曰干將、二曰莫耶、莫耶、干將之妻也。 ――呉越春秋・闔閭内傳第四
*
むかしむかし、とても偉大な王様が、支配した隣の国から三本の剣を献上されました。
名剣の産地として知られたその国から献上された剣は、それはそれは素晴らしいものでした。それを見た王様は自分の国の刀鍛冶二人に、それに負けぬ素晴らしい剣を二本作るように命じました。
その二人は夫婦でした。
夫は考えうる限り最高の材料と最適の環境で剣を作ることにしました。
しかし、何故か鉄が溶けません。剣が作れないまま、いたずらに三月の月日が流れます。
なぜ剣が作れないのだろう。妻はなぜかと問いかけます。夫はわからないと答えます。
やがて彼らは師匠のことを思い出します。彼らの師はこうしたときに、夫婦で炉にその身を投じたところ、鉄が溶けたのです。
そこで妻は自らの髪と爪を切りそれを炉の中に投じ、三百人の男女の子供にふいごを踏ませたところ、ようやく鉄が溶けだしました。
そうして、雌雄二振りのすぐれた宝剣が作られました。
彼らは陽の剣には夫の名を、陰の剣には妻の名をを与えました。
しかし、その剣は本当にとてもよくできた宝剣なのでした。
それゆえに夫は陽剣を隠して手元に置き、陰剣のみを献上しました。
しかし、そのことが。
このお話から、たくさんの別の物語の始まりを作り出してしまうのです。
*
川の流れる音が聞こえている。
目の前に広がるのは、荒涼とした大地だった。どこか遠くで大きな川の流れる音。
ひとつふたつ。
少年は小石を集めては積んでいる。河原。ここはそう、いうなれば河原のような場所。
少年は終わりない作業を続けていた。
本当は、もう楽園に行けているはずだったのに、彼は楽園に入り込むときに大きな過ちを犯した。
この世の理である”暗号”をなくしてしまったのだ。楽園の扉ではじかれて、気が付くとここにいた。
ここには監視役の鬼がいて、少年たちを見張っている。
終わりのような光景。でも、作業は終わりなく続いていく。
小石を拾って集めて、そうして組みなおして。
――ダメですね。これでは間違いです。うまくログインできません。
冷徹な鬼はそういって、集めて積み上げた石をバラバラに砕いてしまう。そうすると最初からやり直し。
――楽園に行きたいのでしょう? あなたは鍵をなくしてしまったのですから、もう一度探さなくてはいけません。
鬼は機械的に無感情だった。
けれど、少年たちが鍵を見つけさえすれば、楽園への扉を確実に開けてくれる存在ではある。
実際に、子供たちの中には、楽園への扉を開いたものもいたという。
――ダメですね。全然記号があいません。
そういってはじかれて、いったいこれは何度目だろう。
少年は悲しくなってしまった。一体いつまで、一体、どれだけ、こんなことをしていなければならないのだろう。
鍵をなくしてしまった自分がそんなにも悪いのか。
いつか誰かが救済してくれるのだと鬼たちはいうけれど、それはいつになるのだろう。
ある時、少年の心に魔が差した。
そうだ、ここを逃げ出してしまおう。
何もここの楽園の扉を開けなくたって、ほかにもいい場所はあるに違いない。
――いけません。この場所を出てしまうととても危ないのです。
――ばらばらにされて消えてしまいますよ。
そこを逃げると人食いの鬼がいるという。鬼たちは自分も鬼のくせにそういって押しとどめようとしたけれど、少年の足は走り出していた。
どこかここではない場所に。
どこか、もっと自由なところに。
けれど、走っても走っても、殺伐とした河原が広がるばかりなのだった。やがて、黒く蠢く幽鬼たちの現れる場所に来て、ようやく少年は立ち止まり、あたりを見回した。
どこか隠れるところ、どこか隠れるところ。
ふと見ると、近くに建物のようなものがあった。ずいぶん粗末な建物だったが、身を隠すことはできそうだった。
ようやく一息ついたとき、不意に気配があった。
――小僧、
慌ててそちらを向く。
そこには経帷子を着た死神が座っていた。
*
目が覚めると、けたたましいアラーム音が響いていた。
慌てて彼はスマートフォンに飛びつく。
「あ、はい、もしもしぃ……」
『何がもしもし、よ、
「あれ、っ、
電話から聞こえる幼馴染のジャスミン・ナイトの声で、タイロは我に返った。
『目が覚めた? おはよう、泰路』
「え、なに、おはよう? って今何時?」
『ギリギリ遅刻にならない時間よ。今日あんた早番でしょう?』
「あ、やべっ……!」
タイロは慌てて布団を蹴り飛ばして飛び起きる。
「あれ、どうして俺が寝坊してるってわかったのさ、夜寿美ちゃん」
『幼馴染の勘かしらねえ。とにかく、起こしてあげたんだから、ちゃんと間に合わせてきてよね』
「は、はあーい、恩に着ます」
ジャスミンが電話を切る。
ジャスミンとは、保護施設のころからの幼馴染でよく知っている。識別票の情報のヒントになるとかいう理由で、仕事仲間でもめったに呼び合わない本名で呼び合う兄妹同然の仲なのだ 兄妹同然に育ってきたが、どうも大人になってからは彼女のほうがしっかりしている気がした。
(行動を完全に読まれている)
タイロは歯磨きをしながらため息をつく。
「んー、俺だって別に毎度寝坊してるわけじゃないんだけどさあ。あの夢がなあ……」
寝ぐせのついた髪をなでつけながら、タイロはぼんやりとつぶやいた。
子供のころ、しかもある時期から、ずっと時々見る夢。あれはいったい何なんだろう。
しかも、いつも決まったところで目が覚めて、最後に出会う男の顔が見えないのだ。
(俺の記憶、って感じじゃないんだよねー。体感はあって生々しいんだけどさあ)
そんなことを考えながら時計を見やって、タイロは慌てた。
「っと、のんびり考えてる時間なかった! 早くいかなきゃ!」
彼は、このE管区シャロゥグ地区の管理局獄卒管理課の獄吏だ。
たぶん、今日もロクな仕事が待っていない。
そう思うと、タイロはなんで今日は平日なのかと深々とため息をついてしまうのだった。
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