にせもの彼氏

もえちゃん、おかえり」


 席に戻ると、大久保主任おおくぼしゅにんがにこにこと私の名前を呼ぶ。

 それにあいまいな笑顔を返し、気合きあいを入れるために、ワイングラスを一気にあおる。


「それでさ、萌ちゃん。さっきの話なんだけど」

「すみません、大久保主任」


 タンッと、グラスをテーブルに置いた。


「せっかくですが、おことわりします」

「……理由を聞いても?」


 よろこんで! と返したいところをグッとこらえ、まじめなトーンを意識する。


彼氏かれしおこられるからです」


 言った。

 言ってやった。


 大久保主任がポカンとした表情をしている。

 うそをついた申し訳なさよりも先に、達成感たっせいかんが湧きあがってきた。


 もしかして、自分の力だけでなんとかできるかもしれない。


 そんな期待をしていたときだった。

 

「そのぐらいじゃ怒らないけどな、俺は」


 声のした方向に、目が引き寄せられる。

 私の視線をうけて、瀬戸せとさんが薄く笑う。

 その笑顔に、ゾクリと寒気がした。


「俺は出張が多いから、好きに遊んでいいって言っただろ? だってけっきょく、いつも俺のところに戻ってくるもんな」


 瀬戸さんは、まるでいとしいものを見るように、私を見つめた。

 だれもが事態じたいを飲みこめず、シンとした空気が流れる。


「なにを、言っているの、玲於れお


 静寂せいじゃくを破ったのは、知沙ちささんだった。

 声がふるえているのは、瀬戸さんの異常な言動のせいだ。


 にせもの彼氏とはいえ、この設定は、あまりにもひどい。


「ああ、知沙。じつは前に話してた俺の彼女って、こいつなんだ」


 瀬戸さんに止める気がないことを知って、知沙さんが息をのむ。

 事情を知らない人が見れば、瀬戸さんのセリフに驚いているように見えるだろう。


 はにかむ瀬戸さんは、彼女を溺愛できあいする彼氏、そのものだった。


「秘密にしていたつもりはないんだけど。俺は・・

 

 瀬戸さんは、苦笑しながら、テーブルの面々を見渡していく。

 大久保主任、私、がっくんと視線をすべらせ、彼は目を細めた。


「今回の出張は1週間もあったから、たくさん遊んだみたいだな、萌」

「せ……」


 とっさに名字みょうじを呼びそうになり、直前でおど されたことを思い出して、うつむく。


「大久保さん。こいつ、思わせぶりな態度をとったでしょ。そういうやつなんです。男が好きで、俺1人じゃ満足できなくて、ほんとう、困った女だわ」


 瀬戸さんのセリフが、耳を滑っていく。

 言っている内容はひどいのに、慈愛じあいにあふれた言い方をするから、まるでのろけているように聞こえる。 

 

「うそだよね、萌ちゃん」


 大久保主任が、ちいさな声で、聞いてくる。

 答えることもできないまま、にぎりしめた自分のこぶしを見つめる。

 ふるえているのは、こぶしの方か、視界の方か。


 大久保主任の、私を呼ぶ声が、だんだんと切羽せっぱつまってくる。

 何も言えない私の態度は、瀬戸さんの言葉を、肯定こうていしているかのようだ。

 そこまでわかっているのに、どうすることもできない。


 ただ、こわくて、たまらなかった。

 平然へいぜんとひどい嘘をつく瀬戸さんも。

 責めるように名を呼ぶ、大久保主任も。


 ――嘘だと知らない人が、もうひとりいることも。

 

 ぎこちなく、慎重しんちょうに、目線を上げる。

 右隣の大久保主任も、左隣のがっくんも、視界に入らないように。


 あえぐように息をしながら、すがる思いで、瀬戸さんの顔を見る。

 笑顔をたたえた彼の瞳には、加虐的かぎゃくてきな色が宿やどっていた。 


「大久保さんが勘違かんちがいするのも、しかたないと思いますよ。そうだ、おわびに一晩、貸しましょうか? 秋津あきつが言っていたとおり、こいつ脱いだらすごいので」


「玲於」


 聞こえた重低音は、冷酷れいこくな響きだった。 

 場の空気を静止させ、皆の視線を集める。


「これ以上、萌さんを侮辱ぶじょくするな」


 まっすぐに瀬戸さんを見つめ、はっきりと発音する。

 そのことばには、強い怒りがにじみでていた。


「なに、がく。おまえも萌の被害者ひがいしゃなわけ?」

「言っていいことと悪いことの、区別もつかないのか」

「俺は事実じじつを言っただけだ」

「おまえのは、おどしというんだ、玲於」


 ハッとがっくんの横顔を見やる。

 ふいに彼がこちらを向いて、んだ瞳と目が合った。


「萌さん」


 たしかめるように私を見つめる彼は、おだやかな表情をしていた。


「なんでも相談してくださいって、言ったじゃないですか」


 そのことばは、しずかで、あたたかかった。


 彼は、いっさい私をめなかった。

 それどころか、心配そうに私に手をのばす。

 きゅっと目じりをぬぐわれ、うるんだ視界がクリアになった。

 そのやさしい指に、たまらなくすがりつきたくなって――。


「岳ー? 俺の彼女になにやってんのー?」


 瀬戸さんが、不釣ふついな明るい声を出した。

 優越感ゆうえつかんにあふれたゆがんだ笑顔を見て、私はようやく理解した。

 

 瀬戸さんがリベンジしたい本当の相手。

 それは、がっくんだ。


 がっくんが、瀬戸さんに目を向ける。

 そして、うんざりしたように、おおきなため息をついた。

 

「玲於も玲於なら、萌さんも萌さんだ」


 頭をなぐられたような衝撃しょうげきだった。

 はなすようなセリフに、顔から血の気が引いていく。


 がっくんに、嫌われてしまった。


 息が、うまく吸えない。

 胸がきしむように、くるしい。


 耳鳴りとめまいが起こり、焦点しょうてんが定まらない。

  

「どうした岳、負け惜しみか!?」


 瀬戸さんが、たえきれないように笑いだす。

 その声が、とても遠くに聞こえた。


 視界が白くなりかけたとき。

 私の意識をつなぎとめるように、左手になにかが触れた。


 テーブルの下、皆に見えない位置で、ギュッと手がにぎられる。

 渇望かつぼうしていた手の温度に、しんじられない思いで、顔を上げる。

 きっと彼はいつもどおり、私を安心させるようなおだやかな表情で――。


 安堵あんどしかけた私は、がっくんの顔を見て、かたまった。


 つよい力で私の手をにぎる彼は、それはそれは、不機嫌ふきげんなふくれつらをしていた。


 怒っているというより、盛大にねている。

 初めて見る彼の表情に、おもわず、まばたきをくりかえす。


「萌さん!」

「はいっ!」

 

 背筋せすじを伸ばしたがっくんにいきなり呼ばれ、反射的に姿勢を正す。


玲於れおと付きあっているのに、俺と寝たんですか?」

「ふえっ!?」


 瀬戸さんの笑い声が止まる。

 場の空気が、凍りついたのを感じた。


「答えてください!」

「え、そ、そ、それはっ、その」


 語弊ごへいしかない彼の言い方に、目を白黒させる。


 寝たと言っても、睡眠すいみんのほうだ。

 それでも、ここで説明するには、言葉を選んでしまう。

 動揺する私に、彼はたたみかける。


「じゃあ、なんで俺にキスしたんですか!?」

「ちょ! ま、それ、ええ!?」


 寝起きの悪いがっくんが、キスしたら起きると約束するから、つい。

 しかもあれは、彼の頬にかるく唇を当てただけだから、どちらかというと、じゃれあいの域だ。


「俺のこと、好きだって言ったじゃないですか!!」


 それは『好きか嫌いかでいったら好き』の話だろうか。

 そんなことを思っていると、握られていた手を、いきなり引かれた。


 抵抗する間もなく、がっくんの腕の中に落ちる。

 私を軽々と受けとめた彼は、左腕ひだりうでで私の後頭部こうとうぶをつかまえる。

 右手を私のほほにそえて、おおいいかぶさるように顔を近づけた。

  

 彼は、私にくちびるをかさねる――数ミリ手前てまえで、動きを止めた。


 だれかが、息をのむ音が聞こえた。

 はたから見ると、完全にキスをしているような体勢だ。


 周囲から守るような腕のなかで、私は彼と見つめあう。

 おたがいの顔がぼやけるほどの至近距離で、彼は私だけに、ふわりと笑った。

 

 さっきまでの絶望感ぜつぼうかんが、彼の体温にとけていく。

 どうしようもなく、彼の笑顔がいとしかった。


 そう思うと、もう止められなかった。

 引き寄せられるように、数ミリの距離をめる。


 くちびるがかさなったのは、ほんの一瞬だった。


 彼の目が、とろけるように甘くなる。

 私のおもいに、彼はついばむようなバードキスでこたえた。


 長いようで、短いようなキスのあと。

 そっと顔を離した彼は、まっすぐに、私だけを見ていた。


「俺のこと、好きですよね?」

「……はい」

「俺もです。明るくて、素直で、ちょっぴり鈍感どんかんな萌さんが、大好きです」


 そういって、がっくんは私の体を抱きしめた。

 

「あのー、おふたりさん」


 すさまじい棒読みに、ハッと我に返る。

 

「俺らのこと忘れて、いちゃつかないでほしいんですけど」


 テーブルに片肘かたひじをついて、半眼はんがんでこちらを見る彼は、あきれ果てた顔をしていた。

 がっくんの腕から離れ、彼をまっすぐに見つめる。


「瀬戸さん」


 もう、彼の名字みょうじを呼ぶことに、迷いはなかった。


「宮崎さん。彼氏役を熱演ねつえんした俺に、お礼とかないわけ?」

 

 瀬戸さんは、約束を守るように、ネタバラシをする。

 しかし、彼の図太さには、閉口するしかない。


「あるわけないじゃない、玲於」

「なんで知沙が答えるんだよ」

「あなた、うったえられても、しかたないわよ」

「かわいい後輩に『よろしくおねがいします』って言われて、はりきってやっただけだろ?」


 まったく悪びれない瀬戸さんの態度に、知沙さんが形のいい眉をしかめた。

 

「玲於の性格の悪さは、もう手遅れかしら」

「だいじょうぶですよ、知沙さん」


 ためいきをつく知沙さんに、がっくんが笑顔でこたえる。


「あとで俺がシメておきますから」

「きつめにね?」

「わかってます」


 同期ふたりの会話に、瀬戸さんがへらりと笑った。


「反省しなきゃいけないことなんて、なんかあった?」

「シメ甲斐がいがありそうで、たのしみです」


 まったく動じないがっくんに、さすがの瀬戸さんも笑顔をひっこめた。


「というわけで大久保さん」


 がっくんが、とつぜん大久保主任を名指なざしする。

 自分に矛先ほこさきが向くと思っていなかったらしく、彼はおどろいたように目を見開いた。


「俺はにせもの彼氏とちがって、彼女を貸し出したりはしませんから」

「……ふっ、はは、ははは」


 大久保主任が、いきなり笑い出した。


「いやおまえ、あれ見せつけられて、どうこうしようなんて、さすがに思えないよ」


 ひとしきり笑うと、手に伝票を持って立ちあがる。

 私を見つめ、すこしだけ目を細めた。

 

宮崎さん・・・・、おしあわせに。ご祝儀しゅうぎ代わりに、これぐらいは払わせてね」

「大久保主任……ありがとうございます」


 おれいを言うと、彼はふっきれたように笑った。


「じゃ、また明日会社で」


 大久保主任は、軽く手をかかげると、ふりかえらずに去っていった。


「大久保さんって、かっこいー」


 大久保主任の背中を見送った瀬戸さんが、かるい調子でめる。


「そうね。玲於れおとちがって」

「知沙」


 知沙さんは、ツンとすまして、ワイングラスをかたむけた。


「ええ。研修けんしゅうの成績で俺に負けたことを、いまだに引きずっている玲於とは、大違いですね」

「引きずってねぇよ!」


 むくれる瀬戸さんに、がっくんが追い打ちをかける。


「けっきょく玲於は、なにがしたかったんですか?」

「な、なにって」

「俺を見返したかったんですよね? で? 今日は勝てたんですか?」


 グッと瀬戸さんが言葉につまる。


「負けず嫌いなのはけっこうですが、玲於は俺たちからの信用を失いたいんですか?」

「……なんだよ、それ」

「萌さんを踏み台にしようとしたこと、俺はけっこう怒っています」


 ふたりは、無言でにらみあう。

 目をらしたのは、瀬戸さんだった。


「あー、もうわかったよ! 俺がわるかった!」

「反省してください」

「するする! もーおまえこわいからにらむなよ」


 瀬戸さんが、テーブルにつっぷす。

 ガシガシと頭をかいて、うわめづかいでこちらを見た。


「ごめんね、宮崎さん」


 シュンとしながら、私の反応をうかがう。

 そのようすは、叱られた子供のようだった。


 いまなら、ちゃんと私の話を聞いてくれるかもしれない。

 そう感じて、私は瀬戸さんに向きあった。 


「正直、瀬戸さんにはもう二度とかかわりたくないと思いました」

「……はい」

「ものすごく、こわかったです」

「……ごめんなさい」


 苦言を受け入れる彼の様子に、私は肩の力をぬいた。


「わかりました。ゆるします」

「よかった~!」


 瀬戸さんが、気が抜けたように笑う。

 これでいいんだろ、と言わんばかりに、がっくんの方を見た。


「玲於。詐欺師さぎしのような真似まねは、もうしないでくださいね」

「わかってるよ」

「『営業部の努力家エース』の肩書かたがきが泣きますよ」

「は!? なにそれ、俺のこと!?」

「あれ、しらなかったんですか? 他部署の俺の耳にまで届いているのに」 


 瀬戸さんが、ぎゅっと口元を引き結んだかと思うと、いきなりそっぽを向いた。

 

「それぐらいのめことばは、聞ききてるっつーの!」


 し目がちに頬杖ほおづえをつく瀬戸さんは、わかりやすく照れていた。


「瀬戸さん、耳まで真っ赤ですよ」


 つい、口に出してしまった。


「かんべんしてよ、宮崎さん」


 瀬戸さんが、おてあげのように天をあおぐ。

 それを見たわたしたちは、目を見合わせて、同時にふきだした。

 笑い声につられるように、瀬戸さんが破顔する。

 その晴れやかな明るい笑顔は、太陽のようだった。

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