第二十話 最後の闘い

 ノアは地獄の苦しみの中にいた。体のコントロールを失い、動けば激痛が走る。何も考えられない。日に日に増す苦痛からただ逃れたかった。ヘロインは間もなく底をつきようとしていた。


 もう十分だ。ここまでの人生だったのだ。

 夕刻、クリスが小屋へ戻るとノアは弱々しい手で彼女の腕を掴み、自分の眉間を指した。呂律の回らない舌で言う。


「頼む……次はここを……」


 意味を理解したクリスはハッと身を遠ざけた。だが手を離さない。頼めるのは彼女しかいないのだから。

 クリスはしばし沈黙した。唇を噛み、充血した目で涙を零さんとしているのが伝わってくる。そして首を横に振った。


「ごめんね……できない。やっぱり死んで欲しくないんだ。だから、残される時間がある限り、助けが来る一抹の望みに賭けたい。辛い思いをさせてごめん……私の我がままだ」


 ノアは絶望に包まれ、そして時を置いて諦めの感情が沸いた。


 ——そうだな、俺は今まで大勢を殺してきた。……確かに、楽に死のうなんて、おこがましいな。


「じゃあ希望を持てるように明るい未来の話でもしてくれ」


 クリスは想像を巡らせた。


「こんなのはどう? お前は組織を抜けて普通の人になる。あの国もいずれ変革が来て、腐敗のない国になる。スラムはなくなって、闇組織はもういらない。お前は普通の暮らしをして、何も恐れずに光の下を歩く……」

「そうなったら、一緒にいてくれるか」

「もちろん」


 クリスは眉を震わせ、笑顔を作った。起こり得ない未来だと本音では分かっていた。


「Прекрасне та далеке……Якщо за мене вийдеш」

「え?」


 何かを呟いているが、目は虚ろで焦点は合っていない。もう夢の中にいるのだろうか。


「Не будь до нас жорстоке(どうか慈悲を)……」




 十三日目、すでにノアは動くことも話すこともままならず、意識も混濁としていた。

 心音が弱まっている。それを見たクリスは決意を固めた。今日一日待っても助けが来なければ、今夜この苦しみを終わらせる。自分の手で。知らないうちに遠くに行ってしまう前に、せめて笑顔で見送るべきだ——そう思った。


 クリスは断腸の思いで海岸へ出た。希望を与えてくれない天と海を恨めしく見つめる。

 しかしこの日は違った。海岸線から程遠くない距離を走る、一隻の小さな船が見える。これほど海岸から近くに船を見たことは今までなかった。それもタンカーではなく、小型のボートだ。

 クリスは最後のチャンスだと思い、黒い炎を上げ、旗を振った。

 ボートは徐々に接近した。操舵席には一人の女の姿が見える。

「おーい! 助けてー!」

 力の限り叫ぶ。


 小型のプレジャーボートは、漁師小屋の付近の桟橋で止まった。黒のウェットスーツを着た若い女が降りてきた。燃えるような赤いロングヘアをなびかせるアジア人。クリっとした瞳に色白の、アイドルを彷彿とさせる容姿だが、クリスは違和感を憶えた。——こんな場所に一人?


 レジャー客が来るような場所ではないし、ダイバーだとしても普通単独行動はしない。クリスは拳に力を入れた。


「私は遭難して、助けを求めています。どうかそのボートに乗せて欲しい」


 女は値踏みするように睨み、言った。


「あんた、BECのクリス?」


 自分のことを知っている割には、救助に来たようには見えない態度。そうすると、この女の正体はおおよそ見当が付く。クリスは後ろポケットの拳銃に手を回した。


「そうだ。貴方は?」

「あんたに用はない。あたしが探してるのは、あたし達のボスだけよ」


 やはり、黄龍会ファンロンか——。クリスはポケットからMP-443を抜き、両手で正面に構えた。

 女は苛立ったようにきつい目つきで睨む。


「残念ながらお前のボスは死んだ。私達は帰りたいだけだ。ボートを貸してもらう。命は取らない。後で救助を手配する」

「断ったら?」

「断れば殺す!」


 クリスは鬼気迫る迫力で声を荒げた。これが本当に最後のチャンスだろう。これを逃せば、彼は助からない。何があっても逃すことはできない。


「その拳銃、見覚えがある。あたしの仲間から奪ったの?」


 構えているのはグスタボの拳銃だった。ノアからもらった弾を補充してある。


「残念ながら、その通りだ。もうここにお前の仲間は一人もいない」


 女は睨みつけたまま押し黙っている。


「後ろを向け! 早く!」


 クリスは間合いを保ちながら彼女に近付いた。彼女はゆっくりと背中を向けた——かと思うと、一回転して跳躍し、後ろ回し蹴りを放つ。


「死ぬのはあんたよ!」


 その足のリーチは、クリスとさほど変わらない身長から想像出来たよりもずっと長く、不意を突かれた。蹴りが手にヒットし、拳銃は遠くへ吹っ飛んでいった。両手の指に痺れが走り、顔をしかめて動きを止める。

 両者は同時に飛んでいった拳銃へ向かって走る。

 クリスは女の背後へ周り、タックルした。女は地面に倒れるが、俊敏な身のこなしで起き上がり、クリスへ向かって高らかに正面蹴りを入れる。後ろへ下がって避けた。

 今度はクリスが一歩前へ出て、女を掴みにかかった。すると逆に体を掴まれ、みぞおちに膝を入れられる。


「うぐっ……!」


 内臓に届くような、不快な痛みが襲った。しかし、すぐに痛みを無視して顔を上げた。

 体が熱く燃える。これまでは、自分が生き延びることだけを考えていた。しかしこの戦いは、自分ではなく他人のためだ。

 真っ直ぐと女を見据える。女は前進しながら連続でキックを入れた。テコンドー使いと見え、足技を中心に仕掛けてくる。避けるのが精一杯だった。


 ——勝つことはできなくても、見切ることはできる。あいつに比べればスピードは大したことない。


 クリスは腕を使って攻撃の軌道を逸らし、勢いを削いだ。あえて防御に徹し、攻撃をギリギリで受け流しつつジリジリと後退する。そのしぶとさに女は苛立ちを募らせ、攻撃のスピードを増した。


「ボスも仲間も死んだのに! あんたも同じところに送ってやる!」


 どこか悲愴を漂わせながら金切声でそう叫ぶ。

 女が大きく跳躍して、激しい勢いで回し蹴りを放つ。顔の左側面へ命中したが、クリスは顔を右後ろへ捻って、できる限りダメージを削いだ。それでも命中したことには変わりなく、クリスは地面へ倒れ込んだ。

 女がかかと落としを入れようと足を振りかぶる。倒れたまま少し手を伸ばすと、狙った通りにそこには、昨日片付けた漁網が置かれていた。漁網を掴み、片側を持ったまま女の軸足に向かって投げつける。投げた勢いで網が女の足に絡み付いた。

 軸足のバランスを崩したことで、上げた足の勢いも削がれた。上げた足を掴み、両足を漁網で包んだ。両足を持って引き摺り、遠心力で放り投げる。

 投げ飛ばした後、走って拳銃を拾った。その間、女は足に絡んだ漁網を必死で外そうとしている。


 今度こそ十分な間合いを取って、拳銃を彼女に向けた。この引き金を引けば、終わりだ。緊張に鼓動が上がっていく。

 クリスの表情を見た女は、鼻で笑った。


「あたしを殺すの?」


 その言葉にドクンと心臓が打たれる。女はゆっくりと立ち上がった。


「BECの社長が、武器を持ってないあたしを撃つの?」


 女は両手をヒラヒラと上にかざしながら、一歩ずつクリスへ近づく。クリスはそれに合わせて足を下げた。体術だけで攻撃してきたところを見ると、確かに彼女は武器を持っていない様子だ。丸腰で、しかもたった一人で仲間も伴わずにいったいどうして——。


 クリスの表情には、人を殺す度胸の無さがはっきりと出ていた。それは、構えた拳銃の安全装置を未だに解除していないことからも窺える。


「なら最後の警告だ。船を渡せ」

「仲間を殺したあんたには死んでも渡さない。……撃てばいい。世間はどう思うかしら?」


 もう覚悟したはずだ。誰かの命を犠牲にしてでも助けたいって。


 クリスは震える手で撃鉄を降ろした。そして小さな声で自分に言い聞かせた。

「……この島でずっと、命を奪い合ってきた。もうグスタボをこの手で殺してる。いや、私は最初から、沢山の人の死を踏み台にしてきた。生まれた時から皆、我が身を守るために誰かを犠牲にしてる。引き金を自分で引くか、他人が引くかの違いだけだ。……今更何を言ってる」

「何をブツブツ言ってるの?」


 瞳に覚悟の色が浮かんだ時、手の震えは止まった。心臓に照準を合わせ、引き金に指を添える。女の表情から笑顔が消え、蒼く強張っていった。

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