第十八話 自然が課す試練

 クリスは慌てて途中の突き出た岩に登り、体を水から引き揚げた。しかし、突然大きく口を開いたサメが、ジャンプして海上へ頭を出した。

 気付かぬうちに、サメはクリスの真下まで来ていたのだ。一直線にクリスへ襲いかかる。

 サメの歯はリュックに引っかかり、クリスを水中へ引きずり込んだ。サメはリュックを咥えたまま激しく頭を振り、海中でクリスを振り回した。四メートルのサメにとっては人間の体など布切れのようなものだ。激しい水圧で手足の自由が利かず、体がちぎれそうだ。頭が真っ白になる。


 しかし幸い、振り回されるうちに鋭利な歯がリュックの持ち手を噛み砕き、逃れることができた。パニックで海水を飲みながら、海面を探して手足をバタつかせた。


「助けて! ノア!」


 島の何処にいるかも分からない人の名を呼ぶ。心からの必死の叫びだった。


 ホオジロザメはしばらくの間、リュックを咥えては放し、鼻先で小突いたりしていた。その隙に、岸壁まで泳ぎ切ることができた。

 リュックが餌ではないことに気付いたのか、サメは再びクリスを探した。腕に着けた時計が水中で光を反射し、サメを刺激する。サメは方向を変え、クリスへと向かった。

 必死で岩壁にしがみ付き、水から上がろうとする。しかしその時、強い波が岸壁を打ち付け、クリスを攫っていった。

 手が岩から離れ、体が渦に飲まれる——と思った時、手首が掴まれ、体が強く引き上げられた。水を吐いて目を開けると、手を伸ばすノアの姿があった。


 腕が引き上げられ、クリスは再び岸壁に掴まることができた。しかし腰から下はまだ水の中だ。サメは標的に狙いを定め、尾びれを振って勢いよく突進した。

 ノアが岸壁から躍り出た。サメが今にもクリスに噛みつこうと大きく口を開いて鼻先を上げたとき、そのギリギリ手前で両足で鼻先を蹴る。怯んだサメの軌道が僅かに逸れ、クリスは一撃を免れた。それでもサメの力は強く、反動でノアの体を吹き飛ばすには十分だった。彼はそのまま背中から海面へ落下した。

 ノアの全力の一撃も、サメにとっては軽く何か当たったかな? ——という程度だろう。

 再び軌道修正したサメは、今度はノアへ鼻先を向ける。体勢を立て直した彼は、ポケットからナイフを出した。サメが攻撃態勢に入る前に先手を打って向かって行く。

 彼はナイフでサメの鼻先を突き刺した。そして左手で、目の周辺を目掛けて連続パンチを繰り出す。

 弱点への連続攻撃を受け戦意を喪失したのか、サメはようやく向きを変え、岸壁から離れて行った。


 その間にクリスは岩をよじ登り、ようやく安全な場所まで逃れることができた。崖の上に辿り着き、両手を地面についてゼエゼエと荒く呼吸する。やがて追って登って来たノアも、同様に座り込んだ。彼は青ざめた顔で汗を拭った。彼も息が上がっていた。慌てて駆け寄った。


「大丈夫? あっ……怪我を!」


 見ると、腕の痛々しい縫い目から血が出ている。


「いや、昨日の傷口が開いただけだ。俺は大丈夫だ。お前は?」

「多分、なんとか」


 クリスは腕を回した。高速で振り回されたので手足や背中は痛いが、折れてはいないようだ。岩で肌が擦れたりして、擦り傷が何箇所かできていた。

 岬の下を覗き込むと、サメはまだ諦めが付かないのか、付近を旋回していた。リュックは噛み砕かれて海に沈んでしまったらしく、もうどこにも見当たらない。


「実は、衛星電話が入ったバッグを取りに行ったんだ。でもサメに取られて、もうダメだ。あれがあれば助けを呼べたのに……!」

「そんなことより、今生きてることに感謝しろ。二人とも死ぬところだったぞ。……まったく恐ろしい」

 彼は真っ青になって首を振った。

「お前でも恐ろしいと思うんだね」

「当たり前だ! 俺は人間の中じゃ強い方だと思ってるが、あんなのは怪物だ。どう頑張っても無理だ。分かったら二度と馬鹿な真似はするな」


 この小さな島では、人の無力さを思い知らされる。自然の中では、人間も捕食対象に過ぎない。食うか食われるかの営みに、嫌でも組み込まれてしまう。しかも人は自然の中で孤立すれば、何もしなくても数週間で死ぬ。人はあまりに脆く、儚い。


 しかし彼は、そんな化物へも身を挺して立ち向かってくれた。黄龍会に殺されかけたときといい、二度もクリスの命を救った。——いや、違う。その前も、秀英に撃たれる寸前を助けられた。ヘリのときだって、安全な位置まで高度を下げてからクリスを振り落としたのでは——。

 それに気が付いたとき、とても言葉にできない感謝の念が芽生えた。同時に胸がじんと熱くなる。いったいどう伝えられるだろう——そう思ったときクリスは自然に、彼の首に両腕を回していた。親愛の意を込めて、自ら抱擁をする。初めて触れる暖かさを感じながら。

 ノアは意表を突かれ、目を丸くしていた。しかしすぐに、抱擁を返した。彼女の背中に両腕を回し、より強く彼女を抱き締める。


 しばらくの間、そうして抱き合っていた。彼の体はとても熱い。互いの心臓の音まで伝わる。離れるタイミングを見失い、クリスの頬は赤らんでいった。一度は落ち着いた動悸が、別の意味で上がり始める。

 ノアが腕を緩め、クリスも顔を上げた。黒い瞳と紫色の瞳が互いを覗く。そしてどちらともなく顔を近づけ、唇を重ねた。互いに何も言わず、ただ熱く口付けた。


 もう、会社なんてどうでもいい。会社のポリシーも世間体も関係ない。この誰もいない孤島で、このまま人知れず死んでいくかも知れないというのに、誰の目を気にする必要があるだろうか。心を奪ってやまないその人が、決して関わってはいけない世界の人だったとしても、ここでは誰も知らない。




 ホオジロザメの襲撃から生還したその日、二人の距離は急速に縮まった。もう、わざわざ距離を取って食事をすることもない。一挙一動に怯えることもない。

 今までは会話を交わすことも無かったのに、会話が尽きなくなった。


「休みなんてないよ。休もうとしても、電話が来る——大抵はラクシュミーが説教するために掛けてくるんだ。朝から電話口で怒鳴られる。ひどいだろ? もう電話が鳴るのが怖くって……」


 串刺しのイワシを炙りながら語りかける。


「CEOなのに怒られるのか」

「むしろ怒られたことしかない」

 クリスは俯いて口を窄めた。

「私じゃ力不足なんだ。ラクシュミーは私よりずっと経験もあって、経営のベテランで……。会社を統治するってのがどういうことか、彼が教えてくれてる。でもすごく厳しいんだ。優秀な人なんだけど……」


「俺にもそういう部下がいた」


 ノアは焚き火に薪をくべながら、ぽつりと言った。


「お前のと違って、厳しくはなかったな。部下だったが、師であり父親のようだった。仕事の全てを教えてくれた。とにかく優しくて俺に甘かったよ」

「羨ましいよ、そんな人で」


 彼は火元を見つめたまま、遠い日を思い出すかのように目を細め、少し切なそうに微笑んだ。


 イワシの串が丁度いい頃合いに炙られた頃合い、クリスはそれを取って彼に手渡した。ノアはそれを受け取った——しかし不意に串が手から離れ、地面に落としてしまう。

 クリスは驚いて見上げた。彼はどこか真剣な顔で、自身の手先を見つめている。彼の右手が少し震えているように見えた。


「どうかした?」

「いや、手が滑った」


 ノアはハッとして、すぐに串を拾って砂を払い、何事もなかったかのようにイワシを口へ運んだ。


「そう言えばお前、俺のことを殺そうとしたよな? 躊躇なく」

「えっ、いつ!」

「俺が黒蛇ブラックスネークを殺った後だ」


 クリスは記憶を遡った。そうだ、秀英がクリスを襲った時、その背後からノアが秀英を襲った。そして姿を現したノアに対して、クリスは引金を引いた。


「あ、あの時は本当に殺されるかと思って……パニックになってて、その……」

 目を逸らしてモゴモゴ言う。それを見たノアはふっと笑った。

「冗談だ。お互い様だしな」


 その夜は話題が尽きず、食後は砂浜に寝転がって、夜空を見ながら過ごした。話題は仕事のことから互いの故郷のこと、星のこと、東洋に伝わる七夕伝説にまで及んだ。

 延々と寄せては返す波の音を聴きながら、満天の星空が視界を覆い、天の川の上を飛んでいるような錯覚に陥る。


 隣にいる彼の体温を感じ、落ち着かない。自分の手に、別の手が重なる感触がした。それを握り返す。胸の高鳴りを感じながら、少し頭を傾けて彼の方を向いた。ノアは天井に眺め入っている。つい、その横顔に見惚れてしまった。闇組織の幹部であることさえ忘れれば、頬の刺青など気にならないほど美しく逞ましい。

 ノアが顔を傾けてクリスを見る。目が合うと、彼は口角を少し上げた。子犬を愛でるような穏やかな瞳に、狩人の冷たい光は浮かんでいない。


「ねえ……この天の川を見て、貴方も綺麗だと思う?」

「思うさ」

「生き方は違っても、やっぱり私達は同じ人間なんだね」

「何を当たり前のことを」


 そうだ、当たり前のことを忘れていた。

 足元に広がる宝石箱に意識を移す。あり得ないと分かっていても、この美しい時間が永遠に続くんじゃないかと期待してしまう。

 ここは外界から切り離された世界。だからこそ成り立つ関係だ。帰れば何もかも元通りになる。——だが、彼の手はいつまでも暖かかった。



 二人だけの穏やな美しい時間が思わぬ形で終わりを迎えるのは、それからほど遠くない頃だった。

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