第十四話 命の選択

 クリスの頭にAK-47の銃口が向けられ、その引き金に指がかけられたとき、朦朧とする頭の中に鳥の声が響いたような気がした。

 続いて、カン、という硬い音が洞窟に響いた。


「おい、誰かに狙われてるぞ!」


 千眼と梅花は洞窟の外から銃弾が飛んできたことに気付き、一斉に洞窟の入り口へ注意を向けた。


 あれ、なんの合図だっけ……。


 クリスは薄れる意識で合図を思い出そうとしていた。

 ——鳥の声真似が三回聞こえたら、声のする方へ走る。短く五回聞こえたら、伏せるか物陰に隠れる、だ。


「船の音だ!」

「まさか船を乗っ取られたか?!」

「いや違う、ヤリックだ」

 洞窟の外から海上を見た千眼が言う。クリスは霞む目で洞窟の入り口から挿す光を追った。

 誰かが叫ぶ声が聞こえてきた。

「敵がいるぞー! 気を付けろー! 多分あれがノアだ!」

「もっと早く知らせに来いよ」

 梅花メイファが舌打ちする。


 船のモーター音と共に、自動小銃の鋭い連射音が響く。

「ノアか! 出てこい!」

 千眼が叫ぶ。

「あっちだ!」

 外からの叫び声に呼応して、千眼も梅花も外へ出て行った。続いて鳥の声が三回聞こえ、今度は合図だとはっきり理解した。声のする方へ走れ、だ。

 ノアはまだそこにいるらしい。自分を見捨てて逃げてはいなかったのだ。彼はまだ何処かで戦っている。


 後ろ手に縛られたままうつ伏せに倒れていたクリスは、膝を曲げて体を起こし、そのまま立ち上がった。縄は外れそうにもない。

 千眼に頭を殴られたせいで、立った瞬間、荒波の上に立っているかのように地面が揺れる。脳を直接揺さぶられているような気がした。しかし一歩ずつ、出口へ歩みを運ぶ。


 だめだ、今意識を失ったらだめだ、頑張るんだ……!


 気が遠くなりかけ、なんとか気を失わまいと深呼吸する。

 間も無くして、強烈な目の痛みと不快感に襲われた。痛くてとても目を開けていられない。


「うっ……うぅっ……オェェ」


 胃から何かが突き上げられ、耐えきれずに嘔吐した。ほとんど空の胃からは、胃液が出るだけだった。


「ゲホッ、催涙ガスだ、ゴホッ、あの野郎!」


 声からすると、痛みに苦しんでいるのは黄龍会の二人も同じようだった。

 目を開けらないものの、光の明るさを頼りに洞窟から這い出る。洞窟を出ると、眩しい日差しが更に目を苦しめた。

 耳をつんざく銃声が幾重にも響く。どこへ向かえばいいのか分からない。ノアが何処にいるかも見当が付かない。ただこの恐怖から逃れたかった。

 反射的に、銃声が聞こえる方角と逆方向へ向かっていた。隠れられそうな場所がある森の方へと。

 かろうじて細目を開け、森を目指した。岩場に足をかけるも、足元が眩み転倒する。すぐに起き上がってまた岩場を登る。

 岩場を上り切ると、おぼつかない足取りで走り出した。

「待ちやがれ!」

 女の声と足音が後ろへ迫ってくる。どこへ向かうか考える暇はなかった。クリスは無意識に、島の高台へ向かっていた。




 ノアが洞窟がある岩場の真上に辿り着いたとき、海岸に三人の姿はなく、洞窟の中から男の怒号と何かを殴打する音が聞こえていた。クリスの偽りがバレたのだろう。

 同時に船のエンジン音を聞いた。東方向から微かに、そして徐々に近付いている。移動した船が、丁度仲間を迎えに到着したということか。

 クリスがまだ生きていることを祈って口笛を吹き、洞窟の上から入り口を目掛けて威嚇射撃をする。


 しかし今度はノアの足元に銃弾が飛んだ。


「敵がいるぞー! 気を付けろー! 多分あれがノアだ!」


 船上のヤリックが発砲してきたのだ。ここは海からは遮る物がなく、立ち所に見つかってしまった。こうなった以上、乱戦は避けられなさそうだ。

 少しでも洞窟の連中の足止めになればと、催涙弾を投げる。そしてすぐに後退し、島の内側へ移動した。木の影に隠れ、船の行方を窺う。


「ノアか! 出てこい!」

「あっちだ!」


 銃声と共に、カラシニコフを持った千眼が飛び出す。催涙弾で視界は封じられているはずだが、所構わず乱射している。千眼に向けて発砲しようとしたとき、銃弾が二の腕を抉り、手元を狂わせた。


「千眼! 上だ!」


 船上のヤリックが、仲間にノアの位置を知らせようと叫んでいる。ヤリックからも銃弾が飛んでくる。ノアは屈んで身を潜めた。

 身を低くしたまま、海岸へ接近しつつある船を目指して移動する。この海岸は水深が深く、船を接岸できる場所が多い。どこかで船を着けるはずだ。

 千眼がノアを追ってくる。千眼の後ろには女——梅花が続く。

 チラリと、クリスが洞窟から這い出してくるのが見えた。彼女はよろめきながらこちらと反対方向へ向かった。腕を縛られている。負傷しているのか足元はおぼつかなく、転びながらも立ち上がって岩を登っていく。


「あたしはあの女を片付ける! あんたは奴を!」

「ああ!」


 ノアを追ってくる千眼にカラシニコフを構え、木陰から身を乗り出した一瞬で正確な一発を放つ。千眼が弾丸に倒れた。——三人目。


「千眼!」


 ヤリックが叫ぶ。

 再び遠くを見やると、クリスが林の中に姿を消すところだった。トカレフを持った梅花が、追っていく。

 なぜそっちへ——心の中で舌打ちをした。自分の射程範囲内にいれば、助けられたかも知れないのに。あの状態では抵抗のしようがないだろう、すぐに追いつかれてトカレフの餌食になる。


 気を取られている間に、一発を肩に食らった。思わず小さく呻く。ヤリックからの銃撃は続いている。

 船がいるのは逆方向。クリスを追えば船に逃げられる。今はヤリックを撃って船を奪うのが最優先だ。船さえ奪えばこの島にも、残った雑魚達にも用はない。

 彼女の命を軽んじているわけでは決してなかった。ノア自身が他人の命に構ってなどいられないほど追い詰められている状況ではあるが、短い間でも協力し合ったよしみだ。可能なら共に、安全な場所まで連れて行くつもりでいた。


 だが今船を奪わなければチャンスはもうない。自分の仲間はもう助けに来られないだろうから。組織の喉元まで迫った刃を防ぐためには、自分が生きて帰るほかない。残念だがクリスを助けに行く余裕はない。


 ノアは背を向けた。——が、足が止まる。彼女がここで終わる——死ぬ、そう悟ると、不思議と脳裏には次々と彼女の顔が浮かんだ。ある種の走馬灯のようなものだろうか。



 二十代の頃は、組織を率いるのにがむしゃらだった。組織の繁栄のためなら多少暴力的な手段を使ってもいいと思っていたし、捨て身で突っ込むことに疑問はなかった。歳を重ねてからは、死を恐れないことと自分の命を粗末にすることは別物だと理解し、もう少し自分の身を顧みるようになるのだが。



 彼女を初めて知ったのは、アジャルクシャンで開かれた社交パーティーに潜入したときだった。パーティーには政治家の他、大手企業や各界の要人が、新たな交友を求めて、あるいは新たな取引相手を求めて参加していた。


 そこに見慣れない、場違いな外国人が一人いた。周囲の会話から探りを入れると、彼女は無名の実業家らしかった。アジャルクシャンに事業を進出する準備をしており、ある企業の要人の紹介で、初めて参加したようだった。経験も人脈もほとんどなく、社交の場にも慣れていないのか浮いていた。

 だが、何故だか目を離せなかった。細身のドレスが似合う華奢な肢体に、透き通るような肌、何より意志の強い眼差し。荒野に凛と咲く花のようだった。

 所詮は二度と会うことのない女。ノアはすぐに頭から彼女の存在を消した。


 しかし間もなく、仕事の先々でその名前を聞くようになる。ソーラーパネルの開発や不動産投資事業を成功させた彼女の会社は数年で見る間に拡大し、組織の障害となるまでそう時間はかからなかった。


 八年前、組織のアジトとなっている邸宅で、ノアは組織が拉致した女の見張りに付いていた。今後組織に何らかの影響を及ぼすであろう企業のCEOだ。目的は組織への服従を誓わせること。それまでは勝手に自殺されても困る。

 その女、クリスは恐怖に肩を震わせ、声も出ないでいる。捕えられた小動物のような女が、いったいどうして一企業を背負っていけるのだろうかと不思議に思う。

 マフィアの力を見せて脅せば簡単に服従するだろう——そう思っていたが、一向に首を縦に振らないことにノアは苛立ちを覚えていた。ただ首を縦に振って、今後ファミリーに金を納めると約束するだけでいい。それだけで、何事もなく家に帰れるというのに。


「人生の最後の食事は何がいい?」


 あえてそのような言い回しをしたのは、少し脅して懲らしめよう——というノアの意地悪な魂胆が顔を覗かせたからだ。マフィア流の脅し文句が慣習になっているせいで、そんな台詞は自然に出る。

 

 味噌汁? 味噌汁ミソスープってなんだ。


 邸宅の廊下を歩きながら、ノアは頭を捻った。名前からしてミソなる物が主役のスープなのだろうが。

 ネットで軽く調べると、発酵食品を溶かしたスープに野菜などの具材を入れたものらしい。食卓に必ず添えられる定番料理だというから、こちらでいうボルシチのようなものだろうか。


 翌日、見様見真似で作ったそのスープをクリスに出したとき、彼女は青ざめて硬直した。その様子を見て、勘違いさせたことに気付く。

「これは、今回はそういう意味じゃない。……わざわざ街に一つしかないアジア食材店まで行かせて調達したんだ。味わえ」

 すると彼女はスプーンひと匙を口に入れ、スープを啜った。

 ノアにとっては始めて体験する食べ物だ。これが正解なのか、美味いのか不味いのか見当もつかない。

 ほどなくして、彼女の目から涙が溢れ出した。脅しが効いたのだろうか。それともお袋の味を思い出したのだろうか。

 だがその反応はどちらとも違った。彼女は真っ直ぐ目を見て微笑んだ。


「美味しいよ、ノア。ありがとう」



 その後も組織は彼女を脅し、危害を加えた。ノアは自ら暗殺を指示した。直接対峙する機会も何度かあった。いつ何時見ても、眼差しは変わらなかった。どれほど無力を思い知っても、クリスは生きることへの希望を捨てなかった。

 心まで貫くほど真っ直ぐなその瞳が、自分を見る。

「美味しいよ、ノア。ありがとう」

 そう言いながら。


 記憶が走馬灯のようにひとりでに再生されるのを、ノアは無理矢理に頭から振り払った。心の海の奥底へ沈めていた本心が、表層へ浮き上がってくるような気がしたのだ。

 自動小銃を構え直し、代わりに部下の顔を思い浮かべる。そしてボスの顔、家族のように過ごしてきた側近達の顔を。

 弱者を食い物にする黄龍会からアジャルクシャンを守れるのは、ルーベンノファミリーだけだ。組織は大義を背負っている。こんな所で一生を終えるわけにはいかない。

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