第十二話 騙し利用される者

 クリスはノアからの合図を待っていた。合図は二種類。鳥の声真似が三回聞こえたら、声のする方へ走る。短く五回聞こえたら、伏せるか物陰に隠れる。綿密な作戦を決めたところで戦闘経験のないクリスがその通り動けるはずもないから、シンプルな二つだけになった。

 森の音に耳を凝らしていたが、聞こえてくるのは本物の小鳥の音だけだ。銃声も人の声も聞こえない。本当にノアは上手く立ち回っているのだろうか——と不安が過ぎるが、気配を消すのが彼のやり方だったなと思い出す。


「黒蛇は死にかけなのか?」

「あなた方が言う黒蛇とは、秀英のことですか?」

「そうだよ。あたし達は黒蛇の仲間だ。だから安心して質問に答えな」

「彼は……重症です。意識がありません」

「やっぱりな。だから連絡がねえんだ」


 クリスは事前にノアと打ち合わせたルートを歩む。高台を大きく南から北東へ迂回しながら、北の洞窟を目指す。もう歩き始めて一時間は経っただろうか。背中に銃を突き付けられている状況では、永遠のような緊張の時間が流れる。


「うちの亭主、死体の確認にどれだけ時間食ってるんだい?」

 すぐに後を追うと言っていた大風が現れないことに痺れを切らした梅花が言う。

「俺達を見失ったんだろ。梅花、迎えに行ったらどうだ?」

 しめた、とクリスは思った。メンバーを引き離すチャンスだ。ノアからは事前に、メンバーをなるべく孤立させるよう言われていた。


「いや、行き違いになっちまいそうだ。いいよ。あいつもいい大人なんだから自分で来るさ」

 梅花はそのままクリスと共に足を進めた。


 とうとう千眼と梅花を引き離すことができず、ノアからの音沙汰もないまま海岸まで辿り着いた。頭には焦りが広がる。


「この下です」


 クリスは岩場の上に立った。秀英が隠れていた洞窟がある場所だ。

 洞窟の上の岩は崩れやすいように細工がしてあり、敵が中へ入ったと同時に手榴弾で入り口を爆破する算段になっていた。だが、手を縛られては手榴弾は使えない。

 振り返って二人を見る。銃を手にした二人は訝しげにクリスを睨んでいる。額から汗が流れるのを感じた。


「降りろ」

 千眼がクリスを促した。

「いえ、私は後から……早く彼を見てあげてください」

「いいからさっさと先を行け」


 千眼はクリスの腕を掴み、岩伝いに数段下へ降りた。海岸に面した岩場に、直径一・五メートルほどの小さな穴が姿を現した。

 入るのを躊躇うが、千眼が洞窟の中へ押し入れた。梅花もすぐ後へ続く。これでは、ノアが来たとしても自分も一緒に閉じ込められてしまう。クリスはただ祈るばかりだった。


 どうすればいい、ノア、早く来てくれ……!

 

 このままでは秀英が死んでいることが知られてしまう。一歩ずつゆっくりと足を運ぶ毎に、心臓の脈打ちが速くなり息苦しくなっていく。


 ノアが陰から梅花と千眼を狙撃することを期待していた。万が一、クリスがいる中を発砲する場合の合図も決めていた。その合図を今か今かと待っていた。

 洞窟の奥行きは五メートルもなく、足を踏み入れた二人はすぐに、洞窟には誰もいないことを知った。

 梅花が奥へ駆け寄って、古びた毛布を捲る。空だ。今度は梅花と千眼が同時にクリスの方を見る。


 元々、黄龍会の人数も行動も事前に読むことは難しかった。故に計画通りに行かないことは織り込み済みで、あえて細かい計画は立てなかった。ノアはその場の状況に合わせて立ち回ると言っていた。——だから、この先の計画はない。白紙だ。


 走るか? 出口へ向かって?

 クリスは逃げようかと一瞬出口へ向かって体を向けたが、そんな余裕はなかった。


「おい舐めんなよ!」


 千眼が銃を振りかざすと同時に、頬に激しい衝撃が走る。千眼が、逆手に持った自動小銃の銃床部分でクリスを殴ったのだ。


「誰もいねえじゃねえか! 騙したのか?! 説明しろ!」

「いえ、場所を間違えたようです。似たような洞窟がいくつかあって……」

 千眼はクリスの首を掴み、疑いの眼差しで睨む。そもそもクリスは嘘が下手だ。


「だが、黒蛇の奴ここにはいたようだね。あいつのカフスボタンが落ちてるよ」

 梅花が洞窟の奥で、小さな白いボタンを拾い上げた。

「本当にあいつのか?」

「ああ、見覚えあるよ」

「でも、今は別の場所に……」


 クリスが自信なく苦しい言い訳をしようとしたとき、外からパンパンッ、と何かが弾ける音がした。銃声のようだ。二人が一斉に外を向く。

 やっと来たか、とクリスは内心安堵した。


「見てくる!」


 千眼が真っ先に外へ出ていった。

 今のうちに自分も外へ出るべきだろうか。梅花一人なら出し抜けるかと様子を窺うと、鋭い目つきでこちらを凝視している。動くのは無理だ。

 その後、外からは合図も銃声も聞こえない。そうしているうちに、数分も経たずに千眼が戻ってきて、一層の剣幕でクリスを睨みつけた。


「こいつはやっぱり何か企んでる!」

「どういうことだ?」

「外に人はいない。近くの木にブービートラップが仕掛けてあった。それだけじゃねえ。この洞窟の上の岩陰にこんなもんも」


 千眼が手榴弾を見せる。クリスは蒼白した。——見つかった。

 梅花もクリスを睨んだ。


「やっぱりな。こいつはあたしらを騙してる」


 反射的に後退るが、振り上げられた銃が頭部に向かって下される。激しい衝撃とともに、脳内に閃光が走った。


「黒蛇に何をした? 何を企んでる? 正直に言え!」

「知りません! 私は何も……!」

「そんなわけねえだろ!」


 鈍い音が何度も響く。千眼は銃床で彼女を殴り続ける。

 腕を後ろに縛られているクリスは後頭部を庇うこともできず、激しい痛みを感じながら地面に倒れ込んだ。皮膚の裂ける感覚がする。クリスは悲鳴を上げながら、ただ体を縮めることしかできなかった。


「楽に死にたければさっさと言いな」

 梅花が脇腹を蹴り上げる。

「がッ……!」

 臓器の強い痛みに悶えた。吐き気が襲う。

「知らない……きっと秀英が仕掛けたんです」


 シラを切り通す。数秒の沈黙の後、千眼はクリスの背中を蹴り飛ばした。


「あいつは手榴弾なんか持ってってねえよ。んな適当な言い訳、通用すると思ってんのか」

 梅花がクリスの髪を鷲掴みにし、強引に顔を持ち上げ、その耳にトカレフを押し当てた。

「黒蛇をどうしたか言いな。まずはこの左耳を吹っ飛ばすよ」

 地面が波打つように揺れている感覚に襲われ、視界が二重、三重にも重なる。脳震盪を起こしているのだ。

「待てよ、ノアが死んだこと自体疑わしいぞ。死体を確認しに行った大風も戻ってこねえ。……こいつ、ノアとつるんでるんじゃ」

 梅花はハッとした顔をした。

「そうなのか?! おい!」

 銃口がグリグリと耳に強く押し付けられる。

「そう……だ」


 クリスはやっとの思いで掠れた声を絞り出した。これ以上誤魔化すのは不可能だ。全てを話した方が、まだ時間稼ぎができるかもしれない。


「黒蛇は死んだ……ノアが殺した。私は囮になるよう言われた……。ここへ誘い込むようにと。でも、私は利用されただけ……! ボートを奪って逃げるための囮として……」

「なんだと?!」

「もういい。奴がこいつに手の内を明かすとは思えねえ。利用したのは本当だろう。この女を囮に使って逃げる気だ。今頃船を襲ってる」

「なら、こいつを始末して助けに行こう!」

「ああ」


 千眼がカラシニコフの銃口をクリスに向けた。

 ——当初から恐れていた。ノアがクリスを囮にしたまま、一人で逃げることを。そして今、彼は約束に反して一向に助けに現れない。恐れは現実のものになった。もう彼の助けは期待できない。一人でこの状況から生き抜く術を考えるしかない。

 クリスは朦朧とする意識の中知恵を絞った。


「待て……取引しないか? 私を人質にすれば……会社から身代金を踏んだくれる」


 突然態度を翻したクリスに、梅花は拍子抜けした顔だ。


「あたし達もそれなりにあんたの会社のこと調べたのよ。会社の規則で、もし社長が誘拐されても身代金は支払わないって明言してるらしいじゃない。今までも支払った実績はないしね」

「私が金を出させる……必ず、身代金を渡すと約束する……こんな仕事しなくても、一生遊んで暮らせるぞ……殺すより得だ」

「会社では悪に屈しないなんて言っときながら、やっぱ自分の命は惜しいのか」

 梅花がケラケラと笑う。

「死にたくない……金ならいくらでも……好きな金額を言え」

 梅花は目の色を変え、クリスの髪を手放した。力の入らない頭が重力に任せて地面に落ちる。口の中で血と砂の味が混じった。鼻血も出ている。額から流れる液体が目蓋の上を滴り、目が赤く霞む。


「金よりもまず奴をどうにかしねえと、だろ。だいたい人質戦法はリスクも高え」

「ふうん。ま、仮に金が手に入っても大部分は上納しないといけないしねえ」

「あいつを殺すならお前達に協力する。知っていることを話す! ……あの男に利用されて死ぬくらいなら、一矢報いてやりたい」

「ハハッ、そりゃそうだ」


 切り抜けられた——と思ったが、千眼は首を横に振った。


「いや、さっきからこの女は全く信用できねえ。そもそも黒蛇は証人を殺すって言ってたし、大風もそう言うだろうぜ。疑わしきは消せ、だ」


 千眼は再びカラシニコフをクリスに向けて構えた。殺傷目的で作られたその銃に撃たれれば、他の拳銃と違って死は免れない。引き金に指がかけられる。

 もうこれ以上、生き延びる方法が思い付かない。


 精一杯やって来たのに……! 頑張ったのに……。またラクシュミーに叱られる……中途半端なままで終わらせてごめん……。


 ラクシュミー、ジェシカ、秀英——会社の面々が頭に浮かぶ。それから古い友人達の顔が。社員達の前で大口を叩いた夢をまだ何も成し遂げていないというのに、死はこんなにも抗えないのだろうか。

 クリスは悔しさに目を閉じた。

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