第十話 黄龍会

 ——半年前のこと。ある高級中華料理店で、二つの小さなグループの集会が行われていた。

 世界の主要な都市なら凡そ何処にでも中華街があるように、ここ東ヨーロッパのアジャルクシャン連邦共和国にも中華街がある。

 天井からぶら下がる沢山の提灯が、薄暗い店内に赤い灯を落とす。金色の装飾が施された柱の奥には、赤いビロードのカーテンで仕切られた円卓があった。宮廷料理を提供するこの店で、アジア人の集団とアジャル人の集団がテーブルを囲んでいた。


「立派な肩書に素晴らしい理念だな」


 『Make it a better place(より良い世界にしよう)』という、何とも耳障りはいいが当たり障りのない、ありきたりな企業理念が刻まれた社員証を、ニコライは回転テーブルを回して反対側の男に突き返した。

 穏やかな笑顔を浮かべた中国人は、社員証をポケットにしまった。細身で端正な顔立ちに、カジュアルなシャツの上から黒いジャケットを羽織る彼は、いかにも外国資本の企業で働くエリートらしく見える。アメリカの名門大学を卒業して、数々の有名企業を経てきたという触れ込みだ。

 彼は黒蛇ヘイシュウと名乗った。側には熊のように大柄の男——大風ダーフォン、背の低い男——千眼チェンイェン、黒髪を頭の上で束ねた中年の女——梅花メイファという仲間を連れていた。


「あのBEC社に入り込めたのか。すげえっす」


 ニコライの連れの一人、一番若いヤリックが感嘆の声をあげる。黒蛇はBEC社の事業開発室長というCEO直属の立場を利用して、BECを黄龍会に取り込もうと画策していた。


「標榜の通り、黒社会を許容する気は一切ないようです。裏表はありません。だから、こうして内部にいる僕の立場は貴重なわけです」

「俺達には関係ないな。興味があるのは、お前達が役に立つかどうかだけだ」


 ニコライが言うと、同席している仲間のアジャル人も頷いた。同席しているアジア人達はその言葉にムッと眉を釣り上げたが、黒蛇は笑顔を崩さなかった。


「僕達は仲間です。上も下もない。役に立つかどうかじゃありません、共に助け合うのが仲間です」

「だが、上からいきなり今日からお前らが仲間だと言われても納得がいかない」


 ここにいる、ニコライを始めとするアジャル人達は組織編成上、黄龍会の一員になったばかりだった。この外国の巨大組織はアジャルクシャンでも勢力を広げつつある。ニコライ達のボスは、将来性を考慮しその巨大組織の傘下に加わることにしたのだ。


「今は国際化の時代です。多様な企業や組織が統合して一つになる時代だ。僕達は、仲間になるのに人種国籍を問いません。もちろんロシア人だって」


 その言葉に、ニコライは勢いよくテーブルを叩いた。


「俺はロシア人じゃねえ、アジャル人だ」


 アジャル人はロシア人と間違われることを何よりも嫌う——ということを、共に商売をする者として知らしめておかなくてはなるまい。


「お前ら外国人には同じに見えるかもしれないが、言葉には気を付けろ」

「これは失礼」


 彼の落ち着き払った物言いに、ニコライはまるで自分の度量が小さいと馬鹿にされたような気がした。頭が良さそうなだけの細腕でヒョロっとした男に、自分達の縄張りを仕切られるのは、到底納得がいかない。


「仲間になった印に、一つ親善試合といこうじゃないか」


 ニコライは拳をポキポキと鳴らしながら立ち上がった。やや引きつった笑顔には、その拳で叩きのめす気満々の闘気が滲み出ていた。アジャル人達はいいぞ、と掛け声を飛ばす。


「友好の印に、と言うことでしたら仕方ありませんね」


 黒蛇が立ち上がって背を向けた。ビビって逃げる気か、とニコライは鼻で笑った。取り巻きのアジア人達が心配そうに慌てて駆け寄る。

 しかし黒蛇はそこで上着とシャツを脱いだ。仲間の一人、大風が上着を受け取って下がった。仲間は試合を止めようとはしない。

 上半身を見てニコライは驚いた。服の上からは細身に見えたが、背中も腕も満遍なくバランスの良い筋肉で割れている。更に、その背一面に彫られた黄色の龍が恐ろしい形相でこちらを睨んでいた。


 振り返ってニコライに向き直った黒蛇は、先ほどの穏やかなエリートビジネスマンとはまるで別人だった。鋭い目付きからはありありと闘志が伝わる。

 しかし体格も腕っ節の太さもニコライが上回っていることは確かだ。両腕の拳を突き出すように構える。

 黒蛇は特に構える姿勢も見せず、自然体で立っている。ニコライは一歩踏み出した。黒蛇は自然に歩くように、二歩踏み出す。三歩目で腰を落とし、激しい地鳴りと共に大きく踏み込んで肘を突き出した。

 気付けば目の前に黒蛇の顔があり、胸に強い衝撃を受ける。体が宙に浮き、天井が見えた。ニコライは後方のテーブルに背中から落下した。テーブルが倒れ、その上の茶器がガラガラと音を立てて床へ転がった。

「うぅ……」

 胸を押さえてうずくまる。痛みのあまり息が出来ず、声が出ない。怪力自慢で知られるニコライがたった一撃で吹き飛んだことに、彼の仲間達は唖然とするばかりだった。

 黒蛇は腰を落として肘を突き出した姿勢から自然体に立ち直り、右の拳に左の掌を重ねて軽く頭を下げた。


「失礼。手加減したので肋骨は折れていないと思いますが、怪我をさせてしまったお詫びに、ここは僕が支払います。それから、お近付きの印に手土産を用意しました。どうぞ納めてください」


 一瞬にして戦意を失ったニコライ達は、彼がアジア人達を連れて立ち去るのを黙って見送るしかなかった。

 ヤリックに支えられながら立ち上がってテーブルの上を見ると、繊細な木細工が施された四角い箱が残されていた。中は空だが、二重底になっている。

 二重底の中を開けたアジャル人達は目を輝かせた。ケシの実から精製された禁断の白い粉末——先ほどの痛みと屈辱を忘れるのに十分な土産だった。


 この一件を経て、アジア人とアジャル人は互いを仲間と認め、一つになった。黄龍会はまた一段と勢力を伸ばした。



 漁船に似せた船は、リビアの沿岸から五十海里の付近を航行していた。船には黄龍会の構成員達——大風ダーフォン千眼チェンイェン、ニコライ、ヤリック、そして大風の十五年連れそった妻でもある、梅花メイファが乗っていた。

 空は灰色で雲行きは怪しく、地中海の波がうねりを上げる。


 今回のチームを編成したリーダー、黒蛇ヘイシュウからの連絡が途絶えて丸二日。チームには焦燥が浮かんでいた。

 ルーベンノファミリーの内通者であるグスタボからの情報で、仲間が待機している船の場所は分かった。一行は予定通り、ルーベンノファミリーの船を襲撃した。戦闘では黄龍会側五名に死者はなく、相手側は全滅という大勝利を収めたものの、別行動を取った黒蛇とグスタボからの連絡が一向ない。そのため港で燃料を補給し、大急ぎで黒蛇がいるはずの島へ向かっている最中である。


「あの野郎、結局ノアは殺れたのかよ?」

 ニコライが苛立ち気味に呟いた。

「少なくともカルロスは始末したと聞いてる。残りは島に追い詰めたと」

 大風が答える。

「黒蛇は無事なのかよ?! あいつが死んでたら、あたし達にとっても痛手だよ? そもそも計画の意味がねえ」

 梅花は焦燥の色を浮かべ、早口で捲し立てた。


「黒蛇の狡猾さは俺達でさえも認めたくらいだ、敵一人にやられたりしねえよ。だいたい、黒蛇とグスタボの二人で奴一人を殺るだけじゃねえか。手こずるわけがねえ。無線が故障したかなんかだろ」

「だといいがな」


 ニコライは楽観的に言うが、皆、想定外の事態が起きていることを察知し心穏やかではなかった。

 黄龍会の次期幹部に最も近いとされている黒蛇は、反社会組織を嫌うあのBEC社へ潜り込めるほど巧みな男だ。二人でノア一人を始末するのにしくじる事などあり得ないと考えるのが普通だが、黒蛇ともグスタボとも連絡が取れないのは異常だ。

 いずれの顔にも焦燥の色が浮かび、無口で海上を睨んだ。


「島があったよ!」

 梅花が叫ぶ。

「あの島か?」

「分かんないね。グスタボから聞いてる方角だとこの辺りのはずだけど」

「ヤリック、船を近付けてくれ」


 操舵手のヤリックが舵を回す。

 最初に目に飛び込んできたのは、木造の小さな小屋だ。その手前には船を係留する桟橋もあったが、木は腐り所々足場が抜けていた。長く使われていない漁師小屋のようだ。


「様子を見に行くか?」

「いや待て。敵がいるかも知れん。迂闊に上陸できない」


 大風は慎重に、そのまま島を周回させた。周囲は目測で六キロメートル程度か。小さい島だ。背の高い木は少ないが、奥へ行くほど草木が生い茂っており、人がいるか見通せない。沿岸には赤い岩礁が連なり、南側には白い砂浜もあった。

 その砂浜には炭の跡が見えた。


「人がいる形跡があるな」

「ああ、キャンプの跡があるね」

「ここは無人島だ」

 操船担当のヤリックが地図を見ながら言った。


「黒蛇が言ってたのは十中八九、この島で間違いないだろう」

「調べに行こう」

「いや待て。敵が待ち伏せしているかも」


 慎重な大風はすぐに上陸しようとはせず、船から様子を窺おうとした。


「人がいるよ!」


 梅花の声で、一斉に緊張が走る。大風は船の縁に身を低め、カラシニコフに手をかけた。

 木の間をくぐって、島の奥から若い女が姿を現した。アジア人のように見える。

「助けて、助けてください!」

 女は船に向かって手を振り、助けを求めている。布一枚を体に巻いたような軽装で、手には何も持っていない。大風は銃を下ろした。

「ありゃ誰だ?」

 ニコライが訝しげに囁く。

「BECの社長だろ」

 梅花が答えた。

「死んだんじゃなかったのか?」

「黒蛇は多分死んだ、と言っていた。確認したわけじゃない」


 ヘリにBECの社長が乗っていることは、一応参加メンバーの全員が認識していた。しかし作戦の標的ではない上、戦闘員でもない——黒蛇曰く、『傀儡の子ウサギ』だとか——つまり気に留めるほどの存在ではないということだ。


「あいつはどうすんだ。生かすのか? 殺るのか? 黒蛇はなんつってた?」

「ケースバイケースで状況により判断する、と」


 仮に黒蛇がすでにやられているなら、BECの社長の始末をどうするかは、大風達の判断に委ねられる。といっても黒蛇が死んでいるなら、その女も始末する以外の選択肢はないのだが。


「あの女なら黒蛇がどうなったか知ってるんじゃないのかい。始末は聞き出してからだろ」

「ああ、そうだな」


 全員の意見が一致し、ようやく上陸が決まった。

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