13

「…笑い話だ。あれが俺の…

あんな奴が…紛れもなく、俺の…弟だと言うんだからな…!」


嘲るように低く喉を鳴らし、己を貶めるかのように笑う。



…その存在を、自らの存在意義を。

神をも疎む、その絶対的な存在理由レゾンデートルを──

“己の総てを”嘲笑う。


その血が示すもの。

闇を拠り所とし、それに身を任せて…ただ、感情を揺蕩わせる。

…それが逃げであると知りながらも。



懐音はようやく笑みを潜めた。

その美しい灰の瞳が、本来の透明さを取り戻す頃には、懐音の鼓膜は、朱音の悲痛な叫びによって震えていた。



「…氷皇…!」



「…!?」


それは思わず耳を覆いたくなるような、痛々しい…悲しげな呼びかけで。

懐音は反射的にそちらに向き直った。


それとほぼ同時、二人の状況を一瞬にして捉えた柩が絶句する。



…いつの間にか氷皇の手に握られていたもの。

それは、手のひらに隠れてしまいそうなほど小さい…

それでいて、ひどく切れ味がよさそうな、ひと振りのナイフだった。



氷皇は涙の乾いた瞳を、至極、静かに朱音に向ける。

…恐らくはこれ以上ないと思われる、切なげな感情を露にしながら。


「…誰に見られても、蔑まれても…

俺は、朱音にだけは…絶対にこの姿を見せたくなかった」

「…氷皇! あ… あたし、その姿に確かに一度は驚いたけど…

だけど聞いて! あたしは氷皇を、絶対に嫌いになんてならない!

だって…誰よりもあたしのことを考えて動いてくれた氷皇を、嫌いになんて…なれる訳がないじゃない!

だから…お願い、氷皇! お願いだから、そのナイフを渡して!」


「…この姿を見ても、まだ朱音はそう言ってくれるんだ…

嬉しい。やっぱり朱音は優しいね…」


氷皇は再び涙を溢れさせる。

だがそのナイフを持つ手は、反して首筋に、そっと当てられる。


「! 氷皇…?」


何かを危惧した朱音が、疑問を含めた声をあげると同時、氷皇は寂しげな中にも、精一杯の笑みを浮かべると、




「…俺はもう、人間には戻れない。

さよなら、朱音。俺のことは…忘れてくれていいから」




…瞳に涙を滲ませたまま、すっ、と、そのナイフを引いた。



氷皇の美しい、黒の双眸が閉じられる。


それと前後して、倒れ込むその体。

引力に引かれるままに、溢れかえる血。


徐々に室内は、せ返りそうな程の、鈍い…血の匂いに覆われる。


その全てを、完全に認識した途端──



…朱音の頭が真っ白になった。



「…氷皇…?」


呼びかけは虚しく部屋に染み込む。

その足元に倒れている氷皇の手には、血に染まったナイフが握られている。



既に絶命しているのか、その口元に最期の笑みを柔らかく浮かべたまま…

彼は、“ぴくりとも動くことはなかった”。



周囲に散らばった氷皇の、魔と化した証明の、漆黒の羽根。

それ自体が彼自身を弔っているかのように、柔らかな風を受けて、しなやかに揺れる。



それが黒でなかったら

結果がこうでなかったら…

それは崇高な天使の寝床に、限りなく近く──

不可侵な天上の永遠を、見る者の意識へ植え付けるはずなのに。



「…氷…皇…」


朱音の顔から、赤みが…血の気と呼べるもの全てが失せていく。

既に死人のそれに近いほどに白くも青ざめた顔色のまま、朱音は氷皇の体に縋りついた。


…まだ温もりを残したその体は、まるで生きているかのようで…

ただ眠っているだけのように見えて、とても絶命しているようには見えなかった。



「…あ…っ、ああ…!」



目に映るのは、血の赤一色。

目を閉じたまま、動かない氷皇の姿。


動かない。

彼は動かない。話すことも、笑うことも、泣くこともない。

その全てが出来ないのだ…

“もう二度と”。


…当たり前のように話していたその口は、もう開くことはない。

触れることさえ容易かったはずなのに、その体には、もう、あの包み込むような暖かさは、宿ることはない…!



一緒に笑って

一緒に怒って

そして一緒に…泣いたこともあったのに

これからは自分しか…それが出来ない。



同じ歳なのに

自分と同じくらいしか生きていないのに…

大切な、数少ない自分の理解者だったのに。

大好きだったのに。

それなのに。

先に、逝ってしまうのか…!?



“死んで…しまうのか?”



それを認識した途端に、不意にぞっとするような静寂と絶望が朱音を襲い…



「!…嫌だ、氷皇…

…逝かないでよ…、お願いだから…逝ってしまわないで…!

ねえ、氷皇…あたしの声、聞こえてるんでしょ!?」



朱音は氷皇を引き止めるかのごとく、そのだらりと下がった手を握りしめる。

…その手が無情にも、朱音の手から滑り落ちた時。




「!い…嫌あぁあぁあぁぁーっ!!」




朱音は両目から大粒の涙を流して、氷皇を抱きしめて慟哭していた。

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