人形の瞳

小夜 鳴子

1

 違う路線に乗るあかりにばいばいと手を振って、私は改札へと歩き出した。ICカードをタッチして電光掲示板を見ると、「普通 19:53」とある。隣の電光掲示板は、あかりが乗るであろう電車は20時を過ぎてから来ることを示していた。

 高校1年生の頃から使っている英単語帳を取り出して、ホームにて電車を待つ。あと1分で電車が来る。向こうのホームであかりが手を振っていたので、また振り返す。そのまま去ってゆく背中に、小さくまたね、と呟いた。

 単語帳に取り付けた付箋の通りに単語を眺めてゆくと、とあるpから始まる単語に目を留めた。今日の単語テストでわからなかった単語だった。付箋の色は青色。もう随分と前に覚えたはずの単語だった。

 身内に、1度覚えたことは絶対に忘れない、という人間がいる。彼女はそんな驚異的な記憶力を持っているのにも関わらず、人形師を営んでいる。私がため息をつく度に、彼女はこの能力を君にあげたいよ、と苦笑していた。

 ぷしゅー。電車が来たのだ。自動でドアが開いて、サラリーマンと男子高校生と、私が乗り込む。平日の夜の電車は空いていて、静かだった。

 ガタンゴトン、と電車が揺れて、サラリーマンも揺れた。この人はいつも隈が酷い。いずれ死んでしまうのではないか、なんてことを考える。疲れきった彼の胸ポケットには煙草のケースがボロボロになって詰め込まれていた。男子高校生の方は、よく日焼けした顔にニキビがぽつぽつ。利発そうな顔をした彼は、塾で私より1つ上のクラスで授業を受けている。隣の県の有名な公立高校の制服を着た彼は、物理の公式を眺めているようだった。私が落ちた高校。

 英単語帳に目線を移しつつも、周りのことが気になって仕方がない。ドアにもたれながら、私はpから始まる後悔を見つめていた。

 後悔は電車を止める。電車を下りながら、塾に行くためにたった一駅を移動する行為を虚しく思った。自転車で行けば、と快活そうに笑う母の姿が目に浮かぶようだった。私には体力がない。

 改札でICカードをタッチして、いつものように西口から駅を出ようとしたとき、見覚えのある顔が私を見つめていることに気づいた。大きな瞳と小さな鼻、あの男子高校生と違ってニキビのない綺麗な肌が窓から差し込む月明かりに照らされている。


「……まあやちゃん」


 まだ子供らしいピンク色の唇が、私の名前を紡いだ。


「また抜け出してきたの?」


 ひさめくんはコクリと頷いた。月明かりに照らされた駅の階段を、手を繋いでゆっくりと下りていく。

 ひさめくんは、私の従兄弟だ。母の姉のななせさんの子どもで、彼はよく家を飛び出して私の家にやってくる。その理由はいつもおんなじで、なぜ家出をしてしまうのか、よくわかってしまう。人形師である彼の母親は、気難しい人だから。


「明日には帰るからさ、まあやちゃん家に泊めてよ」

「……お母さんに聞いてからね」


 どうせ、母は少し困ったような顔をして、それでも頷くに決まっているのだ。母はいつも姉と、その息子に優しい。穏やかな表情が目に浮かぶようだった。

 階段を下りるとすぐに、私の住むマンションが見える。駅前に住む私は、今まで遅刻をしたことがない。


「今夜は餃子だって言ってたよ」

「ほんと? 僕、餃子だいすき!」


 ほんの少しませたところのある従兄弟は、食べ物のこととなると急に子どもっぽくなる。何度も一緒に夕食を食べてきたけれど、好き嫌いもなく、よく食べる子だった。きっと元気な男の子になるだろう。そして可愛い女の子に恋をして、幸せに生きてゆくに違いない。


「まあやちゃんは、勉強頑張ってる?」

「そこそこ。ひさめくんもちゃんと学校に通ってるの?」

「うん。もう自分の名前書けるようになったんだよ」


 ロビーの鍵を開けると、エレベーターに乗り込んで「8」のボタンを押す。彼は小学1年生。ななせさんは恐れていたようだったけれど、彼の知能は人並みで、今のところは学校にも馴染めているようだし、何の問題もないように見える。


『ひさめには、私のような人生を送ってほしくないんだ』


 ななせさんは、ひさめくんによく似た人形を見つめながらそう言った。


「僕、まあやちゃんみたいな大人になりたいな」

「駄目だよ」


 ドアが開く。途端に冷たい空気が流れ込んできて、ほんの少し身震いしてしまった。駄目なんだよ。こんな、私みたいな人間になっちゃ。


「あ、でも、まあやちゃんと同じになっちゃったらまあやちゃんと結婚できないよね」


 ひさめくんが、キラキラした瞳で私に微笑んだ。彼が私のことを好いているのは前から知っていた。それが恋情なのか、憧憬なのか。まだ年若い彼にはごちゃまぜになっていて、まだわからない。けれど、そのうち気がつくだろう。私が、尊敬できるような人間ではないのだと。


「あ、いい匂いする」


 『805号室』と書かれた部屋の前で立ち止まると、彼はチャイムを鳴らした。私は鍵を持っていたけれど、黙ってドアが開くのを待つ。


『はーい?』

『ひさめです』

『あら』


 元気よく返事をすると、すぐにドアが開いた。


「おかえりなさい」


 思っていた通りの顔で、母は微笑んだ。

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