悪夢喰いの獏は月夜に笑う

花染 メイ

昔々、どこか大きな山の麓に、寂れた小さな集落があった。その集落では、古くから「獏」と呼ばれる特殊な役目を請け負う非常に稀有けうな力を持つ者達が活躍していた。この集落において、「獏」という言葉は、その役割を果たす彼らひとりひとりの事を指すこともあれば、彼らによって構成された組織全体を示すこともある。勿論この呼称は同じ名を持つ動物の伝説にちなんだものであり、彼らの役目とその能力の内容は、「人々の夢を食べること」だった。食べるのは主に悪夢で、人々は大抵、その夢をもう二度とみたくないがために獏を頼る。


中でも、今年16歳になる少年、桜田さくらだ鶴寿かくじゅは、老齢の者ばかりが所属する獏の集団の中では最も若い者の一人だ。元々、彼は獏の家系に生まれた子どもではない。しかし今は諸々の事情から 獏としての指南役 兼 保護者である桂 清太かつら せいたと共に暮らしていた。


「清太さん。僕、仕事に行ってきますね。留守をよろしくお願いします。」


ある日の夕暮れ時。

出掛ける間際の彼は、極めて生真面目な姿勢で清太に言った。


「はいはい。行ってらっしゃい。」


薄茶色の作務衣姿で手拭いを片手に玄関先までやって来た清太はそれに対し、「気を付けてなー。」と、軽い調子で返す。


「今回もいつ帰って来られるかわからないので、晩御飯はいりません。」


必要最低限の連絡事項を伝える鶴寿。

その口調は、あくまで淡々としている。


「了解、了解。」


「毎度ご迷惑お掛けして、申し訳ないです。」


大して気負った風でもない清太の返事にも関わらず、鶴寿は眉尻を下げて心苦しそうな表情を見せる。それを見た清太は、深い溜め息を吐いた。


「お前なぁ、何度も言ってるけど、いつまでもそんな畏まらないでいいんだってば。」


呆れたような彼の言葉に、鶴寿は黙って耳を傾ける。そして、それを噛み締めるようにこくりと頷くと、声のトーンを落とした。


「すいません、善処します。」


「いや、だから……」


その言い方がもう既に堅苦しいんだって。清太は、そう突っ込みかけてやめた。

歳の割に丁寧な言葉遣いや、楚々とした立ち振舞いは立派だし、それが桜田鶴寿という人間の美点でもある。しかし彼には、いささかしっかりしすぎている節があり、無理をして大人になろうとしている感じが否めない。以前から気になってはいたものの、清太にはどうすることもできないまま、今日に至っている。

彼は鶴寿の本当の父親ではない。

また、彼らは短くない年月を共に暮らしていながら、お互いの過去を全くといっていいほど知らなかった。自分は頼られていない、信用されていないと感じる淋しさと苛立ちを、清太は胸の奥に押し込める。


「まぁ兎に角、無理はするな。」


「はい。」


「何かあればすぐ連絡しろよ。」


「いつもご心配いただき、有り難う御座います。でも、きっと今回も大丈夫ですから。」


「…………」


人の気も知らずに、よくもまぁ、そんな事が言えるもんだと、清太は思う。まさしく親の心、子知らず。もっとも自分は彼と血の繋がりすら無い仮の親なのだが。

しかし、自分が世話を焼いているこの若者のことが心配で仕方がないのは事実だった。その心配を突っぱねる様にも聞こえる自分の物言いに育ての親である清太が地味に、いや、かなり傷ついているということに、果たして鶴寿が気がついているかどうかは、怪しいところだ。

普段は他人の気持ちに驚くほど敏感で、よく気のつくさとい子なのに、変な所で鈍いというか、抜けているというか……。

清太はやれやれと肩を竦めた。

そうこうしている間にも、鶴寿はさっさとこちらへ背を向け玄関の引き戸に手を掛ける。

ガラガラと音を立てて戸を開いた後、鶴寿はもう一度こちらを振り向いた。


「それでは、行ってきます。」


今日も彼は、複雑な思いで自らの育ての子を見送った。途端に広く、空っぽになる玄関先。

窓の外に顔を向けた清太は、しばしの間沈みゆく夕陽を眺めていた。


「まぁ……無事に帰ってきてくれさえすれば、それでいいさ。」


彼は自分にそう言い聞かせ、玄関から去っていく。どこか遠くの空から、もの悲しげなカラスの鳴き声が聞こえていた。

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