雨蛙

1

 昔からカンの鋭い子どもだった。音感もあったし、察しもよかった。なのにおっちょこちょいだとか抜けてるとか言われるのは、そういう風に振舞っていたから。


「はーー今日もバイトだぁ」


 スマホのカラフルな予定表アプリを見て、私はため息をつく。青は講義、ピンクは遊びの予定、赤はバイトの予定だ。大学生の夏休みは長い。8月の広大な空間は赤とピンクで埋まってしまっていた。

 下着姿のまま私はクローゼットを開いて、着ていく服を探し始める。私は寝るときはパジャマを着ない。寝相が信じられないほどに悪いからだ。

 昔から私はピンクが似合うと言われて育てられてきた。クローゼットの中は様々な色相のピンクで溢れている。私はその中で薄いピンクの、フリルのついたブラウスを手に取った。

 4年生。周囲の人たちはほとんど就職が決まっており、大学院に進学する人たちは既に試験も終わって、みんな残り少なくなった単位をその手から取りこぼさないようにだけ必死だ。私が1年の入学式に着たきりのスーツはクローゼットの奥で既に埃まみれになっている。私は過去の自分を探すことなく、デニムのスカートを取ると静かにクローゼットを閉めた。そう。私は就職活動をしていない。

 上から順に手際よく服を着替えると、私は裸足のまま部屋を出た。無駄にゴツゴツした装飾が手に痛い階段を降りて、向かう先はリビング。私は朝は拭き取り化粧水で済ませるタイプだから。

 ドアを開くと、ニュースキャスターの声と、朝に相応しい陽気な歌が隙間から流れ込んでくる。正確な年齢は聞いたことがないのでわからないけれど、恐らく40代ぐらいの女性がテーブルの隣に静かに佇んでいた。私はその表情が少し失望の方向に傾くのを見逃さなかった。


「おはようございます、花依お嬢さま。今日もバイトですか?」

「おはよう田中さん。うん、そうなの」

「そうですか。頑張ってくださいね」


 大学入学から死ぬほど繰り返された会話。だだっ広いテーブルにはご飯とワカメのお味噌汁、焼鮭ときんぴらごぼうと今日の花。にこにこと笑う田中さんは私が小さい頃からこの家で住み込みの家政婦をしてくれている。流れるように席に着くと、いただきます、と手を合わせた。私が朝ごはんに手をつけるのを見届けた瞬間、田中さんはキッチンへとそそくさと戻っていく。私は生まれてから一度も母がキッチンに立っているのを見たことがなかった。

 田中さんのご飯は機械で作られたみたいに規則的だ。日によって魚の種類は変わるけれど、白ご飯とお味噌汁は固定だ。きんぴらごぼうは昨日の夕飯の残りだろう。冷蔵庫で10時間ぐらい冷やされていたためか、思っていたよりもずっと冷たかった。白ご飯は少し硬めで。味噌汁は濃いめだった。いつも。

 私が結婚したら、これが母親の味になるんだろうか。まあ、お相手方もきっとこんな感じだろう。

 単調な白米の味に飽きてきたのでふりかけでもかけようかと田中さんを呼ぼうとしたとき、リビングのドアが開く。


「……おはよう」

「おはよう、パパ」


 のっそりとした足取りで、50代の男性がテーブルへと歩いてくる。覚束無い歩き方とは裏腹に、服装は既にスーツで、しかし髪の毛は寝癖だらけ。私の父親。この地域一帯の元地主で、現在は会社の社長だった。


「あらあら、おはようございますご主人。今日もお早い出勤ですね」


 田中さんがキッチンからすぐに私と同じメニューを持ってくる。そして最後に、卵のふりかけを添えて、またキッチンに戻っていく。父親は一言ありがとう、と添えて席に着いた。


「パパ、そのふりかけちょうだい」

「いいぞ。持ってけ」


 欠伸を噛み殺しながら、父がふりかけを無造作に渡してくる。この会話も毎日繰り返されているものだ。


「最近どうだ」

「どうって……順調だけど」

「お前は春から俺の会社に勤めることになるんだから、粗相がないようにしっかり社会のことを学ぶんだぞ」

「もう私バイト始めて4年目なんだけど……」


 TVの音をBGMに、私たちは他愛ない会話を交わす。最近のこと、ニュースのこと。どうでもいいことばかり。これもいつものことだ。


「ご馳走様でした」


 先に私が席から立ち上がる。焼鮭は半分以上残っている。父は少し顔を顰めていたけれど、特に何も言わずに味噌汁を啜っただけだった。


「今日は7時間勤務でその後ちょっと出かけるから遅くなると思う」

「お、そうか。あまり遅くなるなよ」

「はーい」


 メイクをする前に牛乳を飲みたくなったので、キッチンへと足を進める。ゴミ出しにでも行っているのか、田中さんがそこにいなかったことに安堵しながら、私はコップを手に取った。


「そうだ、花依」

「ん、なあに?」


 たっぷりと牛乳を注いだガラスのコップをテーブルに置こうとしたとき、丁度食べ終わって私の分まで皿を重ねていた父親が思い出したかのように私に話しかけてくる。


「昨日顔馴染みの警察官に聞いたんだが、この辺りで白骨遺体が出たらしい。遅くなるなら不審者には気をつけた方がいいぞ」

「白骨遺体?」


 物騒な単語だ。残酷に平凡で、過不足なく裕福な私の日常に相応しくない非日常。


「身元も判明したらしい。お前が通っていた高校の女の子だったそうだ。さんと言うらしいが、知っているか?」


 その瞬間、コップは私の手から重力に従う林檎のように無機質な大理石の床に吸い込まれていった。嗚呼、ニュートン。なんてことなの。私は、その名前を確かに知っていた。6年前、泡となって消えた、私の美しい「人魚」の名を。

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