堕ちゆく灯火

凛々サイ

昇る太陽

「お前は私が恐くないのか……?」


 その言葉は彼の過去全てだった。


――


「サラリア、ここの洗濯もお願いね」


 今日も白い敷布の山がこの灰色の石で出来たゴル城の無機質な地下へ運びこまれる。

 軽やかに広がる青い空へ登った眩しい太陽とはよそに、今日もサラリアは黒い豊かな長い髪を後ろで高く一つにきゅっと結び、ひんやりとした水に褐色の手を幾度となく濡らしながらこの殺風景で薄暗く冷たい空気が漂う石造りの部屋で敷布をごしごしと洗う。目にかかってくる真っすぐに切り揃えられた自身の前髪が少し疎ましくも感じた。

 

 日によっては食事の用意や城中の掃除をする時もあった。かなり重労働の日々だったが寝る場所に衣服、食事を与えられる事にサラリアは感謝をしていた。

 二十歳のサラリアは既に両親を亡くし一人取り残されてはいたが、働き手を募集していたこのゴル城から必要とされ、居場所を与えられたかのような喜びさえも感じ、奉仕していた。


 そんなサラリアの雇い主でもあるゴル城の主は皆から恐ろしいと噂されており、必要以上に誰もが近付こうとしてはいなかった。

 ヒードというこの城の主は五十年程前に戦争中の隣国であるリンガー王国を裏切り、婚姻するはずだったその国の姫君を生贄に黒神チェルノボーグと契約し、密偵として忍んでいた男まで殺し、黒魔法の力を手に入れた後、今だにこのゴル帝国とその国との戦争は続いている。

 そしてその力で僅か二十歳という年齢で不老不死になったというその主はこの世界の全てを手に入れるつもりだと噂されている。それだけ聞けばかなり残酷で非情な王だと誰もが思うだろう。だがサラリアはそれだけではない何かを感じていた。

 

 彼と初めて会った時、否、見かけた時だった。サラリアのような使用人は滅多に城の主に会うことはなく、許されることでもない。だがその主は特定の時間になるとある場所の窓から姿を現すのだ。

 

 それはいつものように夕日に照らされ、ぱりっと乾いた海風で豊かに舞う多くの敷布を取り込む時に気が付いた。海沿いにあるこのゴル城にはいつも岩盤に打ち付ける激しい波音が響く。その音に包まれるかのように一人の青い長髪の若い男性が夕日を見つめながら高台にある小窓から顔を覗かせていたのだ。


 視力の良いサラリアはすぐにその男性があの皆から噂されている主だと分かった。あの長髪、そして噂通りに右目の横には黒神チェルノボーグとの契約の証である稲妻のような刻印が見えた。それになによりその場所の窓はあの主の部屋だったからだ。

 初めてその姿を見た時は自分のような使用人が主の姿を遠巻きに、それにまるで覗き見かのように見てはいけない、とすぐに顔を伏せ急いで敷布を取り込むと逃げる様にその場を後にした。


 だがその主ヒードはまた次の日もそしてまた次の日も夕刻の時間になると顔を出し、地平線に沈みゆく太陽を静かに真っすぐと見つめているのだ。そしてその目はなぜかとても悲しそうに見えた。


 毎日その小窓に現れる彼を目にする度になぜかサラリアは次第にいつも夕刻を待ち、主を一目見たいと思う様になってしまっている自分に気が付いた。それはなぜなのか。噂されている恐ろしい主を見たいという怖いもの見たさからなのか。それとも他の何かからなのか。どれにせよこんな事いけない、とサラリアは何度も思い、幾度となくこの気持ちを抑えようと思った。今日は上を絶対に見ないと意気込み、カラカラに乾いた敷布に手を掛けた途端、その純白布で自分を隠すかのようにそっと主が佇む小窓を見上げてしまうのだった。


 そして彼の夕日を眺める悲愴感漂う悲しい目に吸い込まれそうになるのだ。サラリアは叶うものならばいつまでも見つめていたいと、繰り返し岩に打ち付ける波音と共に時間が止まればいいと何度も思った。そんなことを思っている自分がいることに初めて気が付いた時、自身の中に何かが芽生えてしまっていたことに戸惑った。

 

「見つめるだけならいいわよね……」


 叶うはずのない思い。激しく吹く海風に飛ばされそうな純白の敷布をぎゅっと握り締めそう一言呟いた。


 そんな明るく晴れた日々が続いた後、空が大泣きしているかのような雨の日が訪れた。サラリアは洗濯を諦め、使用人を統括している女中頭からの指示を自室で待っていると戸を素早く叩く音がこの小さな部屋に響いた。


「サラリア、今日は城中の掃除をしていくよ!」


 戸を勢いよく開けた途端に腰に手を当て話しかけてきたのは、恰幅かっぷくの良い女中頭アリッサだった。サラリアと同じ群青色の足首まである衣服に真っ白な前掛けを身に着け、胸を張っている彼女は見るからにやる気満々と言った感じだ。

 いつも彼女の勢いに押されっぱなしのサラリアは使用人統括でもある彼女の指示にただ従うしかなかった。


「はい、どのお部屋からでしょうか?」

「あんたには一番上をやってもらおうかね! 誰も行きたがらないしさ」


 彼女の言葉の意味がサラリアにはよく分かっていた。『一番上』の階、それはあの悪い噂が絶えない主の部屋がある場所だった。だがサラリアにとっては今までにもらったことのない最高な贈り物を手にしたかのような気分だった。だがここで喜ぶのもおかしい事かと思い、サラリアはアリッサの前で平然を保った。


「承知しました」


 アリッサに一言そう呟くと、豊かな黒い髪を後ろで一本にギュッと結び、彼女の横をそそくさと通り抜け、上階へ向かい始めた。その足はなぜか急かすように足早になり、平然を保つ自分とは裏腹に心臓も高鳴っている。嬉しさを隠し切れないのか口角が上がっている自分にも気が付いた。もしかするとこの城の主を近くでお見掛けすることが出来るかもしれないと淡い期待を膨らませながら掃除道具と洗い立ての純白の敷布を胸に抱え階段を一歩一歩登って行く。


 目的地の最上階へ辿り着くと階段を駆け登ったせいなのか、興奮と緊張のせいからなのかドクドクと自身の胸から大きくその音が響いていた。

 心臓を落ち着かせるように辺りを見渡すと、床には冷たそうなくすんだ白の大理石がいくつも敷き詰められ、格子窓がいくつも並んだ壁には海やゴル城を描いた大きな風景画が壁面いっぱいにいくつも飾られている。天井には花をかたどった白く細かい彫り細工が可憐に広がっていた。

 華やな場所に見えもするが、なぜかサラリアは無機質な空気に包まれているような少し寂しい空間に感じた。

 

 この最上階にはゴル城の主、ヒードしか過ごしてはいなかった。他の王族もこの城に住んではいたがまるでヒードを避けるかのように違う階で過ごしているのだ。


 彼は孤独なのではないか。約五十年前に黒神チェルノボーグと契約後、不老不死になった彼に寄り添える人が誰かいるのだろうか。サラリアはまともに会ったこともない彼を思い、至らぬ心配をしてしまう自分に心底可笑しいと思ってはいた。だがいつも考えてしまうのだ。あの夕日を眺めるもの悲し気な目を初めて見たあの日から。


 サラリアは使い古された白い綿布を格子の窓に当てつけるように拭き始めた。窓の外側は雨雫が上から次々にぶつかり、下の雨粒を吸収しながらどんどんと速度を上げ次から次へ流れ行く。外からの波音は下の階に比べると静かであったが今日は大雨だ。その波音もゴル城の壁石に打ち付ける雨音で完全に打ち消されているようだった。外は朝なのに薄暗く荒れたこの天気を眺めながら掃除をしていると自分の気持ちさえも暗くなってくるようだった。彼が住まうこの上階へいるからなのだろうか。会ったことさえもない彼の気持ちをまるで感じ取ってしまうかのように思えるのだった。


「そこの方」


 背後から低い声で話しかけられ振り向くとそこには長い剣を腰に挿している黒い長髪を下の方で一本にくくった少し顔色の悪い四十代ぐらいの兵士だった。

 

「はい、何か御用でしょうか?」


 サラリアがこうやって掃除をしていると城中を警備している兵士から掃除の依頼をされることが多いのだ。今回もそうだろうと思っていた。


「ヒード様が今湯浴みをされている。今のうちに部屋を掃除してくれ」


 その言葉をサラリアが聞いた時、思わず顔が火照ったところをその兵士に見られていないか焦ってしまった。信じられないことだった。自分のような身の者が王族、それも思いを寄せている男性の部屋へ入り掃除をすることになろうとは。


「はい、かしこまりました」


 精一杯の平然を装い、持ってきていた真新しい麻の敷布を握りしめ、緊張しながらも案内された場所へ進んだ。


「早く終わらせてくれ」


 どうやらその兵士は主の部屋の警備兵のようで王の部屋の前でそう述べると、その扉を大きく開けた。サラリアの目の前に広がったその部屋の床は高貴な赤黒い絨毯に包まれ、天蓋付きの大きな黄金色のベルベットがかかった寝台が左隅にあり、近くには蝋燭が置かれている小さな丸机が添えられている。その反対側には黄金細工が施された赤くふっくらとした座り心地が良さそうな豪華な椅子が一つぽつんと壁際に佇んでいた。そして部屋の中心にはある小窓が目に入った。そう、いつもあの外から眺めていた窓だ。この広い空間にはなぜかその窓一つしかなく、光をあまり取り入れることが出来ない薄暗い部屋だった。


 一見豪華な部屋ではあるが、その光を灯さない場所になぜかサラリアは寂しさを感じた。警備兵に扉を閉められた後も、思いを寄せる男性の部屋をひと時の間見つめていた自分にはっと気が付き、慌てる様に箒を動かし掃除を始めた。床を掃き、その窓を拭き始めると彼が見ていた海原へ雨雫越しに視界を寄せた。今彼と同じ景色を見ている。それだけで心の奥から喜びを感じてしまうこの気持ちが溢れ返るようだった。だがそこで今までなぜか疑問に思いもしなかったことが脳裏に浮かんだ。


「なぜいつも夕日を見つめているのかしら……」


 この小さな窓から必ず落ち行く夕日を毎日主は見つめている。サラリアは窓を拭く手を止めじっと地平線を見つめた。そうすることでもしかすると彼の心境が分かるかもしれないと思ったからだ。だが太陽はまだまだ空の上だ。それに今日は大雨で夕日さえも見ることが出来ないだろう。そんな日でも彼はまた夕刻の時間にこの場所へ立つのだろうか。そして見えない夕日をまた見送るのだろうか。


「見送る……?」


 その言葉にはっと気が付く自分がいた。彼はいつも沈みゆく太陽を見送っていたのではなかろうか。毎日海の中へ帰っていく太陽を見つめ、時の流れを感じていたのではないだろうか。

 不老不死である彼にとって『時間』という概念を感じるには、もはや不滅の太陽にすがるしかなかったとしたら。


 サラリアはふらふらと彼の寝台の方へ向かった。なぜかその目には涙が溢れ返っていた。誰にも寄り添えず誰にも弱音を吐くことも出来ず、思いを口にすることさえも出来ない。もしそんな思いを一人で彼が抱えているとしたら。


 握りしめた真新しい麻の敷布を蝋燭が置いてある丸机にそっと置き、視界を溢れる水滴に奪われながらも寝台に広がる使い込まれた敷布を変えようとした。

 だがその彼の淡い名残ある敷布を握り寄せた瞬間、なぜか彼のとてつもなく重たい思いを受け止めた感覚に襲われた。その敷布を体全体で強く握りしめたまま寝台の脇に力なく座り込んでしまった。彼がなぜ他国の姫の命や密偵の命を奪ってまで黒神チェルノボーグと契約したのかは分からない。だがそこまでしてでもまだ、あの主の思いを救い切れていないとしたら。


 サラリアは次々に溢れる涙と喪失感に襲われながら、彼の名残りある敷布を頬に寄せ、全身で彼を感じた。

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