シーン2-2 夢語り

 場の空気が穏やかになったところで、優希は今日いずみに話したかったことを話し始める。


「昨夜は『夢』をみたんですよね、先生」

「ほう、そうなのか。十日ぶりくらいになるのかな?」


 優希の話に軽い調子で相槌を打ついずみであったが、その目の奥には極めて真面目な色が浮かんでいる。


「今回はどんな『夢』だったんだ?」

「犬です」

「犬? ……どんな犬だ?」

「すごく大きな犬でしたね……いつかテレビで見た狼なんかよりもずっと大きい犬で、目は紫色に光ってたりして……」


 優希は『夢』の話をしているにも関わらず、実際にどこかでそういう生物を見てきたかのような口調で話し、いずみの方も優希のことを馬鹿にしたりなどせず真剣に話を聞いている。もし、今保健室に事情を知らない誰かがいたとしたら、二人のやり取りを聞いて怪訝なものを感じたに違いない


「それでどうなった?」

「逃げようとしたんですけれど、たまたまそこに知らないおじさんが通りかかって襲われそうになってしまって……」

「見捨てたのか?」

「いえ、おじさんを助けました」

「ほう!」


 最後に優希が言った言葉にいずみは嬉しそうな表情をした。


「お前も一人前に人助けが出来るようになったんだな……よくやった!」

「止してくださいよいずみ先生……『夢』の中の話です」

「『夢』であろうと現実であろうと差はないさ。そういうことをしようとする姿勢をお前が持っていること、それが私にはとても嬉しいぞ!」


 いずみは手放しで優希を褒めちぎるが、しかし、優希は寂しげに微笑むばかりであった。そんな優希の様子を見たいずみも居ずまいを正し、改めて優希に問いかける。


「何かあったのか?」

「おじさんを助けたのはいいんですけど、助けた後で言われてしまったんです。化け物だ、って……」

「……」


 優希はその言葉を苦悶に満ちた表情で絞り出すように言い、その言葉の重さを誰よりも知っているいずみは言葉を失い黙り込む。

 それきり、二人とも何も喋らなくなってしまった。無言のまま、ただ時間だけが過ぎていく。

 そして、間もなく五限目の授業が終わろうかというタイミングで優希が先に口を開く。その顔は悲しみに満ちていた。


「いずみ先生……」

「……どうした、優希?」

「僕は……僕は、いつまでこんな生活を続ければいいんですか?」


 優希は胸の奥から吐き出すようにその言葉を口にした。相手がいずみであっても、決して言うまいと思っていた言葉が出てきてしまった。

 学校では過酷ないじめに遭い、いじめから助けてもらった相手には注意され、挙句の果てに『夢』でも化け物扱いをされる。平気を装っていても、優希の精神は既にギリギリのところに達しつつあったのだ。

 その言葉をいずみは真正面から受け止めた。優希の性格から考えて、今の言葉は言いたくて言った言葉ではないだろう。だが、今それを言わなければどうなるか、自分でも分からない。そんな悲痛な叫びが言葉に込められていたのを、いずみは敏感に察知している。

 今の優希には言葉での励ましは無意味だろう。必要なのは、温もりだ。凍えて怯える心を溶かす暖かさだ。

 いずみは慎重に周囲の状況をうかがい、誰も近くにいないことを確認したうえで椅子から立ち上がり、優希に歩み寄るとその体をそっと抱きしめる。

 こんな姿を誰かにちょっとでも見られたら自分の立場が危うくなるのをいずみは百も承知しているが、それでもやらねばならなかった。


「先生……?」

「悪かった、優希。私がもっと気を配っていれば、お前をこんなに苦しませずに済んだのにな」

「そんな、先生は……」


 優希は何かを言おうとしたが、いずみは黙っていろと言うように抱きしめる腕に力をこめる。いずみの豊満な胸に顔を埋める格好になった優希は赤面するが、大人しくいずみの言葉に耳を傾ける。


「安心しろ優希。お前は人間だ。誰よりも心優しく気高い心を持った。化け物なんかじゃない」

「……」

「だから、忘れないでくれ。人として、その優しい心を。その心はいつかきっと、お前自身を助けるはずだ。必ずな」


 いずみは優希を抱きしめる力を少し弱めると、目線を優希の顔に合わせる。

 優希もいずみのことを黙って見つめる。その目にはうっすらと涙が浮かんでいる。

 いずみは涙ぐむ優希の顔を見て、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。


「まだ怖いか? ……なら安心できるまで抱きしめてやろう」

「先生……いずみ先生っ……!」


 堪え切れなくなった優希は自分からいずみのことを抱きしめる。いずみもそれを嫌がりはせずにむしろ積極的に優希を自分の方に抱き寄せる。

 五限目の授業の終了を告げるチャイムが鳴り終わるまで、二人はずっと抱き合ったままだった。

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