絶対渡したくない

「烏丸さんさ、一体なんなの!? あんなにさ、なにもかも私の真似することないじゃん!」


 形の良い眉をつり上げたひかりは、先ほどから青筋を立てて怒り狂っている。油断するとじたばたと暴れようとするので、俺は「じっとしてろ」と彼女の足の甲を押さえつけた。


 穏やかな土曜日の昼下がり。ひかりの部屋で、俺は彼女の足の爪にネイルを施していた。

 自慢するわけではないが、俺はどちらかというと手先が器用だし、チマチマとした作業が苦にならない方だ。致命的に不器用なひかりに任せると、はみ出し放題ムラだらけの無残な結果になるため、彼女のネイルは俺の仕事になっている。

 俺の目の前に惜しげもなく足を投げ出したひかりは、先ほどから烏丸百合花に対する愚痴を垂れ流している。普段はそうでもないのだが、よほど腹に据えかねることがあったらしい。彼女の華奢な足首を掴みながら、ひかりのくるぶしは可愛いな、なんて馬鹿なことを考えていた。


「ちょっと悠太、聞いてるー!?」

「聞いてる聞いてる」

「彼氏からの初めての誕生日プレゼントだよ!? 悠太が私のために、私だけのために選んでくれたものなのにー! それを、そんな、そんなの……そんなのってないよー!」


 ひかりは憤って、膝に乗せたクッションをボスボスと殴る。本当は部屋に埃が舞うのでやめてほしいのだが、まあ今はやりたいようにさせてやろう。


 ひかりが激怒している原因は、俺がプレゼントしたものと同じネックレスを、烏丸百合花がつけていたことらしい。

 個人的には、そんなに怒ることかと疑問に思うのだが、ひかりにとっては我慢ならない事態だったらしい。昨日の放課後から、すこぶる機嫌が悪い。


「……そんなに嫌なもんか?」

「だって、だって! 他でもない悠太が、私のために買ってくれたものを、誰かに真似されるなんて……嫌だよ……」


 そう呟いて、ひかりはしょんぼりとクッションに顔を埋めてしまう。ちょうどトップコートを塗り終えた俺は、「次こっち」と言ってひかりの手を取った。膝に乗っていたクッションが、ソファからころんと転がり落ちる。

 爪を磨いてベースコートを塗ったあと、学校でも目立たないような、地味なピンクベージュを乗せていく。そのあいだひかりは、神妙な目つきで俺の作業を見つめていた。手指のネイルを施されているときのひかりは妙におとなしくて、ちょっと新鮮だ。


「烏丸のこと、あんま気にすんなよ。俺がひかりにあげたネックレスは世界にひとつだけなんだから」

「……うん……」

「そんなに嫌なら、またなんか買ってやろうか」

「ううん、いらない……」


 ひかりがかぶりを振ると、焦茶色の髪が俺の鼻先をくすぐって、甘い匂いが漂ってくる。


「……烏丸さんね。他人のものほど欲しくなるタイプなんだって」

「なんだそれ。趣味悪いな」


 そういう性質の人間が存在することは把握しているが、永遠に理解はできそうにない。「自分に興味のない男が好き」と言っていたひかりだって、彼女持ちの男には近付こうとしなかった。


「私、髪型とか香水とかリップ真似されるぐらいなら、ほんとに全然いいんだよ。悠太にもらったネックレスは、嫌だけど……まあ仕方ないなって思う」

「うん」

「……でもね、悠太のことだけは、絶対渡したくないよ……」


 ひかりの手が小刻みに震えている。きつく下唇を噛み締めている彼女をまっすぐに見つめながら、俺は口を開いた。


「他の誰のものにもなんねえよ。おまえが、もういらないって言わない限りは」

「い、いらないなんて、絶対言わない! 私の悠太だもんー!」

「ほら、できた。あとでトップコート塗るから、乾くまで動くなよ」


 俺はネイルのキャップを閉めると、ひかりの髪をぐしゃりと撫でた。彼女は「うん」と頷いて、ソファの上でじっとしている。俺の言いつけを健気に守っているところが可愛い。

 ……今だったらひかりに抵抗されずに、俺の好きなようにできんのかな。

 試しに顔を近付けると、ひかりの表情が強張った。名前呼びにはなんとか慣れてくれたようだが、事を進めるのはまだ早かったらしい。

 ショートパンツの裾からは、白くて細い脚がすらりと伸びている。無防備に晒された足首を掴んで、ソファに押し倒してしまおうか。

 うっかりそんな不埒なことを考えてしまい、いやいやと頭を振って煩悩を追い払った。ひかりの誕生日にあんなことをしでかしてしまったのだから、しばらくはおとなしくしておこう。


「……あ! 悠太、そういえば温泉どうする? いつ行く? もうすぐゴールデンウィークだもんね!」


 先延ばしにしていた問題を蒸し返されて、俺はぐっと言葉に詰まった。一泊二日の温泉旅館のチケットは、今も俺の部屋の引き出しに大事にしまわれている。

 ……ひかりの覚悟が決まるのが早いか、それとも俺の我慢が持たなくなるのが早いか。できる限り、待ってやりたい気持ちはあるのだが。

「保留だ」と答えると、ひかりは不服そうに「早く予定決めようよー!」と唇を尖らせた。




 数日後の放課後。俺は誰もいなくなった教室で一人、ひかりのことを待っていた。

 成績優秀で人望もあるひかりは、誰もやりたがらないクラス委員長に抜擢された。体良く押し付けられた形ではあるが、責任感の強いあいつはきっちり仕事をこなすだろう。

 ちなみに相方の男子は、自ら立候補した新庄だ。水無瀬さんのサポートができて嬉しい、と咽び泣いていた。新庄が一緒なら、俺もなんだかんだ安心である。

 スマホでSNSを眺めながら、明日の弁当のおかずは何にしようかな、と考える。今日は母も姉も飲み会だと言っていたので、夕飯は適当に作り置きを温めることにしよう。

 つらつらとSNSのタイムラインをスクロールしていると、教室前方の扉が開いて誰かが入ってきた。


「上牧くん。まだ残ってたの?」

「げ」


 露骨に顔を顰めた俺に構わず、烏丸百合花は膝丈のスカートを揺らしてこちらにやってくる。俺の前の席に腰を下ろすと、頬杖をついてあざとく首を傾げた。


「もしかして、水無瀬さんのこと待ってる?」

「そうだけど」

「意外と優しいんだね」

「意外と、は余計だろ」


 誠に遺憾である。毎日甲斐甲斐しく弁当を作って、週末には部屋の掃除までしている俺は、そこそこ優しい部類の彼氏だと思うぞ。

 俺がふてくされていると、烏丸は「ごめんね?」と目を細める。間近で見ると、水無瀬よりもアイラインを引くのが上手いな、と気付く。高すぎる顔面偏差値で誤魔化されてはいるが、あいつの化粧は結構雑だ。


「上牧くんって、女子に対しても容赦ないタイプじゃない。水無瀬さんを射止めるのが上牧くんみたいなタイプだなんて、ってびっくりしたよ」

「釣り合ってないって言いたいのか?」

「そんなことないよ。あの水無瀬さんが選んだぐらいだから、きっと相応の魅力があるんだろうね」

「……どうかな。あいつの趣味が悪いだけじゃねえのか」

「わたしは水無瀬さんが好きになった上牧くんのこと、気になるなあ」


 烏丸はそう言って、上目遣いにこちらを見つめてきた。水無瀬ひかりとは似ても似つかない、妖艶な笑みを浮かべている。


「あれ、前髪にゴミついてるよ」


 そのとき手を伸ばしてきた烏丸が、俺の前髪に無遠慮に触れる。その爪にツヤツヤとしたピンクベージュのネイルが塗られていることに気がついて、ぎくりとした。ひかりとまったく同じ色で、俺が施したものとまったく同じデザインだ。ここまで来ると、ストーカーの部類だぞ……。


「……あ」


 長い前髪を掻き分けた烏丸が、小さく声をあげる。ぐいと顔を近付けて、無遠慮にじろじろ観察してきた。


「……へえ。ふーん。上牧くん、こうして見ると意外と……そんなに……そこそこ……」

「……んだよ」


 さっさと離れてくれ、と振り払おうとしたが、一歩遅かった。教室の前方から、悲鳴にも近い声が響く。


「悠太! な、な、な、何やってるの……!」


 今にも泣き出しそうな顔な顔をしたひかりが、長い髪を振り乱している。何か妙な誤解をされている気がする。勢いよく立ち上がると、倒れた椅子がガタンと大きな音をたてた。


「何もしてねえよ」

「か、烏丸さんと、キスしてたあ! ゆうたのばか! 浮気者!」

「してない! 誤解だ!」


 とんでもないことを言い出したひかりに、俺は語気を荒げて反論する。角度的にそう見えてしまったのだろうが、完全なる誤解だ。さっさと振り払わらなかった俺が悪いが。

 しかしひかりは聞く耳を持たず、小さな子どもがイヤイヤをするように首を振った。


「やだやだ! 悠太が他の女の子とキスするのやだよお!」


 普段のひかりとのギャップに驚いているのか、烏丸はぽかんと口を開いて呆気に取られている。ひかりが俺以外の前で、こんな風に取り乱すのは初めてのことだ。


「み、水無瀬さん……あの、違うの。誤解よ」

「烏丸さん、どうして、どうして悠太のことまで取ろうとするの!?」

「え……」

「嫌だよ、他のなんでもあげるから、真似したっていいから、悠太は、悠太のことだけは私から取らないで……!」


 涙目でそう言い募るひかりに、烏丸はたじろいだ。俺はそんな烏丸に構わず、ひかりの手を掴んで「行くぞ」と教室を出る。


 人気の少ない階段の踊り場まで来たところで、ひかりが勢いよく抱きついてきた。俺は周囲を気にしつつも抵抗せず、彼女の背中に腕を回してやる。


「ゆうたのばかあ!」

「……ごめん」

「ほ、ほ、ほんとにキスしてない!?」

「神に誓ってしてない。信じてくれ」


 俺がキスしたいのは、世界でただ一人だけだ。

 ひかりは涙目のままだったが、こくんと頷いてくれた。俺はひかりの髪を撫でて、再び「ごめん」と耳元で詫びる。余計な誤解を与えてしまった自分の軽率さを恥じた。

 ひかりはしばらく無言のまま俺の胸にしがみついていたが、やがて意を決したように顔を上げた。


「……私が……私じゃ、キスさせてあげられないからダメなの?」

「はあ? 何言ってんだ」

「そりゃあ食べられないご馳走より、食べられるジャンクフードの方がいいよね……」

「また勝手な勘違いして暴走すんな」

「……よし、わかった」

「ほんとにわかってんのか?」

「悠太、キスしよう!」

「はあ!?」


 唐突なひかりの発言に、素っ頓狂な声で返す。こちらを見据えるひかりの瞳は、メラメラと決意に燃えていた。

 ……また、余計な意地張ってんじゃないだろうな。

 俺はしばらく悩んだあと、「ここではしない」と答えた。誰に見られるとはわからない階段の踊り場で、照れ屋な彼女にそんなことをするつもりはないのだ。

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