別に寂しくなんかない

 毎朝恒例の「おはよう!」のメッセージの代わりに届いたのは「風邪ひいたから、今日は学校休みます」の一言だった。

 寝起きの頭はまだうまく回転しておらず、二回読み返してようやく意味を飲み込めた。ベッドの上でスマホをぼんやりと眺めながら、そういえば昨日の夜はほとんどメッセージがこなかったな、と思い返す。珍しいこともあるものだと思いつつあまり気にしていなかったのだが、体調が悪かったのかもしれない。ここ最近は急に冷え込んだから、風邪でもひいたのだろうか。ろくなものも食わず、不摂生ばかりしているからだ。

 ともかく、今日は平穏に過ごせそうで何よりだ。起き上がった俺は、階下に降りて朝食の準備を始める。世間には朝食をまともに食べない人間も多いらしいが、俺は朝からしっかり食べるタイプだ。俺が起きる頃には母さんは慌ただしく出かける準備をしているので、朝食は自分で用意することにしている。

 トースターで食パンを焼き、ハムエッグとレタスを上に乗せる。寝ぼけ眼で起きてきた姉ちゃんが「悠太、あたしのぶんも!」と喚いたので、仕方なくもう一枚焼いてやった。俺は半熟派だが、姉ちゃんは黄身が固めの目玉焼きが好きだ。

 いつものように弁当をみっつ詰めたところで、はっとした。大きめの黒い弁当箱は俺の、四角くて白い弁当箱は母さんの。百均で購入した赤い弁当箱は、水無瀬のぶんだ。

 ……しまった。つい癖で、あいつの弁当まで用意してしまった。


「……姉ちゃん。今日弁当いる?」

「え? なくてもいいけど、あるならもらうわよ」


 姉ちゃんの返事を聞いて、俺は安堵の息をつく。せっかく作った弁当を無駄にせずにすんでよかった。

 それにしても、今日のメインである和風ハンバーグはかなりの自信作だったのに。悠太のハンバーグ食べたかったあ、と悔しがる彼女の顔が頭に浮かぶ。まあ、また気が向いたら作ってやることにしよう。

 今日はぐっと気温も下がって、やたらと秋めいた気候である。もう半月もすれば衣替えの時期だ。久しぶりに長袖のカッターシャツに袖を通し、クローゼットにかかっている赤いネクタイに手を伸ばしかけて――引っ込めた。ブレザーを着ないのだから、まだネクタイを締める必要はない。ノーネクタイのまま、学校指定のベストだけをシャツの上から着た。

 玄関から外に出たところで、ふとあるはずもない人の姿を探してしまう。毎朝飽きもせず俺を迎えに来て、俺の腕にぎゅっとしがみついて、あれやこれやとうるさく話しかけてくる女。


 ――おはよう悠太! 今日寒いね! ねえねえ、英語の小テストの予習してきた?


 そんな底抜けに明るい声が聞こえた気がして、俺はぶんぶんと頭を振った。




 水無瀬のいない一日はすこぶる平和……というわけにもいかず、俺はいろんな奴から「水無瀬さんはどうしたんだ」「体調でも悪いのか」と質問責めに遭い、心休まる暇もなかった。

 クラスメイトのみならず、違うクラスのまったく知らない奴にまで話しかけられるのには閉口した。俺が休んだところで誰も気にも留められないが、さすがは水無瀬である。女子たちも「ひかりちゃん大丈夫かなー」と心配しているようだった。あいつは「本当に仲の良い友達がはいない」だなんてひねくれたことを言っていたが、なんだかんだで人望のある女なのだ。

 特に新庄の心配ぶりは尋常ではなく、朝から「水無瀬さん、今頃苦しんでいないだろうか……」としきりに溜息をついており、水無瀬の住むマンションの方角に向かって祈りを捧げていた。この調子だと、そのうち滝に打たれて祈祷でも始めかねない。この季節にそんなことをしたら、新庄の方が風邪をひいてしまうだろう。

 終業のショートホームルームが終わったところで、思わず水無瀬の席に視線を向けてしまった。いつもならば、「悠太、一緒に帰ろう!」と尻尾を振って駆け寄ってくるところだ。当然ならば彼女の席は空っぽで、俺はなんとなく心に隙間風が吹いたような気持ちになった。

 スマホを確認してみたが、普段はうるさいほどに届くメッセージは一通もきていなかった。静かでいいけれど、それはそれでちょっと調子が狂う。


「上牧くん」


 名前を呼ばれて声を上げると、新庄がフラフラとよろめきながら近づいてきた。なんだか今日一日で少しやつれた気さえする。この男、よほど水無瀬が心配だったらしい。


「……頼む。僕に代わって、水無瀬さんの無事を、確認してきてくれないか……」

「はあ? なんで俺が」

「君は、水無瀬さんの彼氏だろう! 水無瀬さんが心配じゃないのか!」


 バン、と勢いよく机を叩かれて、俺はびくりと肩を揺らす。こいつが声を荒げるなんて、滅多にないことだ。俺が「声でけえよ」と言うと、「す、すまない」と恥じ入ったように目を伏せた。


「……ただの風邪だろ。ガキじゃねえんだし……」

「しかし、水無瀬さんは一人暮らしだろう。何かあったときに、気付いてやれる人間がそばにいないじゃないか!」


 たしかに言われてみれば、そうかもしれない。水無瀬の両親は仕事の都合で海外に住んでおり、半年に一回ほどしか帰国してこないらしい。一応近所に親戚が住んでいるが、あまり親しくないのだと以前に話していた。

 せめて、「もう大丈夫だよ」というメッセージのひとつでも届けば安心できるのだが。まったく何の連絡もないというのはやや不穏である。


「本当なら僕自身で彼女の無事を確かめたいところだが、そういうわけにもいかないだろう。上牧くん、この通りだ……」


 憔悴しきった新庄に深々と頭を下げられて、俺はぐっと言葉に詰まった。こいつは水無瀬のことが本当に好きで、心の底からあいつを心配しているのだ。恋敵である俺に頭を下げることすら厭わないぐらいには。

 ……まあ俺だって、まったく心配ではないと言うと嘘になる。俺は水無瀬のことを好きではないけれど、一応名目上は彼氏なわけだし、毎日毎日顔を突き合わせているのだから、それなりに情だって湧く。自分にだけ懐いてくる猫に向けるようなものに近いけれど。

 それに今日は母も姉も帰りが遅く、夕飯はいらないと言っていたので、早く帰る必要もないのだ。暇つぶしに、顔ぐらいは見に行ってやらないこともない。うん、別にそのぐらいはしてやってもいい。


「……わかった」


 俺が頷くと、新庄はぱっと顔を上げて「ありがとう!」と俺の両手を掴んだ。そのまま鞄からノートを取り出して、俺に握らせる。


「これは今日の授業のノートだ。よかったら、水無瀬さんに渡しておいてくれ」

「おまえ、ほんとにマメだな」

「頼んだぞ、上牧くん……君が最後の希望だ。水無瀬さんの無事を確認したら、すぐ僕に連絡してくれ。くれぐれも君まで風邪をひくなよ」

「部下を戦場に送り込む上官か?」


 やたらと大袈裟な新庄に辟易しつつも、俺は受け取ったノートをリュックにしまう。顔を見て無事を確認したらすぐに帰ろう、と心に決めて、俺は水無瀬の住むマンションへと向かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る