花火よりも眩しい
八月の夕べは、十九時を過ぎてもほんのりと明るい。真昼の太陽をふんだんに浴びたアスファルトはまだ熱を持っていて、足元からじわじわと熱が立ち上ってくる。
今日は透たちと一緒に夏祭りに行く予定だ。黒のキャップをかぶって、Tシャツの上に半袖のシャツを羽織り、黒のパンツにサンダルを合わせている。もともと部屋着に近いTシャツで家を出ようとしたのだが姉ちゃんに捕まり、「あたしの弟がそんなダサい格好でデートするなんて許せない!」と罵倒され、無理やり着替えさせられてしまったのだ。気合が入っていると思われそうで憂鬱だ。
水無瀬との待ち合わせ場所である駅前には、花火大会に向かうであろう浴衣姿の人間がたくさんいた。キョロキョロと探すまでもなく、俺は水無瀬の姿をすぐに見つけてしまった。なにせ無駄に目立つのだ、あの女は。
水無瀬は浴衣を着ておらず、カジュアルなTシャツにダメージデニムを履き、足元はスニーカーだ。先日見た清楚なお嬢様ファッションとはずいぶんとギャップがある。
改札近くの柱に立っている水無瀬は、無表情でスマホを弄っている。遠目から水無瀬をチラチラ見ている男がたくさんいたが、彼女は眉間に皺を寄せてかなり険しいをしており、どことなく近寄り難いオーラを放っている。美女の無表情とは恐ろしいものだ。うちの姉ちゃんの機嫌の悪いときもあんな感じだな、と俺は思った。
「水無瀬」
声をかけると、水無瀬はスマホからぱっと顔を上げる。剣呑な雰囲気はどこへやら、目尻を下げてとろけるような笑顔を浮かべた。
「悠太ー! 待ってたよ、久しぶりー!」
「つい二週間前会っただろ」
「もう二週間も会ってなかったんだよ! 寂しかったあ」
そう言って水無瀬は勢いよく抱きついてきた。彼女を窺っていた男どもは、「なんだ男連れか」といわんばかりにがっかりと肩を落として去っていく。俺はいつものように、乱暴に彼女の身体を引き剥がした。
「おまえ、浴衣じゃねえのか」
別に浴衣姿が見たかったわけではないが、俺は尋ねた。夏休みに入る前に「私の浴衣に興味ないの?」みたいなことを言っていたから、てっきり浴衣で来るものかと思っていた。
「うん。あんなの着てたら、死ぬほどナンパされちゃう。それに、よく考えたら私一人で着付けできなかった!」
水無瀬は俺の腕にしがみつきながら答える。なるほど、やけにカジュアルな格好はナンパ避けの意味もあるのだろうか。混雑した花火大会では歩きやすい格好の方がいいだろうし、合理的で俺は良いと思う。姉ちゃんはよく足が痛いと喚いていた。
「行こっか。瑠衣ちゃんと透くん、早めについたからウロウロしてるって。川沿いの公園で合流しよ」
水無瀬が言ったので、俺たちは二人並んで歩き出す。水無瀬がいつも以上にぴったりとくっついてきているので、正直暑いし歩きづらい。げんなりした俺は水無瀬を横目で睨みつけた。
「ちょっと離れろって」
「やだ! 絶対離さない! 悠太、片時も離れないでね! よそ見しないで、私のことだけ見てて!」
「いや、おまえじゃなくて花火見に来たんだけど」
俺の腕に必死でしがみついている水無瀬は、なんだか何かを恐れているようにも見える。人混みを掻き分けながら進んでいくと、出店が立ち並ぶ公園に到着した。Tシャツに短パン姿の透が俺たちを見つけて、「よー」と軽く片手を挙げる。
「うっわー、ラブラブだな」
これ以上にないくらいにベタベタしている(ように見える)俺たちを見て、透は苦笑する。ぶんぶんと腕を振って引き剥がそうとしたけれど、水無瀬は俺の腕をがっしりと掴んで離さなかった。この馬鹿力め。
「あれ、ヒカリーナ浴衣じゃないんだ。ちょっと残念、見たかったのにー」
透の隣でわたあめをかじっていた長岡が言った。長岡はピンク地に白の朝顔が描かれた浴衣姿で、濃い紫色の帯を締めている。なんとなく違和感を覚えた俺は、まじまじと見つめたあと「あっ」と小さく声をあげた。
――長岡、浴衣の襟の合わせが逆だ。
俺も数年前に浴衣の着付けを覚えさせられたため、付け焼き刃の知識ではあるのだが、着物の襟は左を上にして合わせるのが正解らしい。右を上にするのは「左前」と言って、死装束と同じになるから縁起が悪い、なのだとか。
「……上牧、なにじろじろ見てんの? キモッ」
俺の視線に気付いた長岡が、怪訝な表情で透の後ろに隠れる。別に見たくて見てるわけじゃないから、そんな変質者を見るような目でこっちを見るな。
「……長岡。その浴衣、自分で着付けたのか?」
「え? お母さんにやってもらったよ。お母さんも久しぶりだったみたいだから、かなり苦戦してたけど」
「るぅ、浴衣ほんとに似合ってる。めちゃめちゃ可愛いよ」
「うん! 髪型も凝ってて可愛い!」
透と水無瀬に褒められて、長岡は「ほんとにー?」と照れ臭そうに頰を染める。
俺は悩んだ。浴衣が左前になっていることを、長岡に指摘するべきなのだろうか。俺自身はそこまで気にならないが、マナー違反であることを知ったら、長岡は気にしてしまうかもしれない。自分で着付けたわけではないのだからすぐには直せないだろうし、せっかく気分良さそうにしているのに、水を差すのも憚られる。
結局俺は、何も言わないことにした。おせっかいな人間が指摘しない限り、長岡は何も知らずに今日一日を楽しく過ごすことができるだろう。
「悠太?」
ぐいぐいと俺の袖を引いた水無瀬が、俺の顔を覗き込んでくる。俺は首を横に振ると、「タコ焼き食いてぇ」と言って歩き出した。水無瀬は俺にくっついたまま離れようとしない。
「おまえ、今日いつも以上にひどいな」
「世の中にはね、人混みに乗じて良からぬことを考える人間がたくさんいるんだよ。嫌だろうけど、今日は我慢して私のこと守ってね!」
良からぬこと……というと、もしかすると痴漢の類だろうか。待ち合わせ場所に立っていた、他人を寄せ付けないオーラを放っていた水無瀬の姿を思い出す。彼女はこういう場所で、何か嫌な思いをしたことがあるのかもしれない。そう考えると、いつものように突き放す気にはなれなかった。
「……今日だけだからな」
「ありがと!」
水無瀬はそう言って「嫌々言うこと聞いてくれる悠太も好きだなあ」と笑った。俺はかぶっていた黒いキャップを脱いで、ぽすんと水無瀬にかぶせる。
「うわっ、なに?」
「おまえの顔は無駄に目立つんだよ。それでもかぶっとけ」
「そ、それって私がみんなから注目されちゃうくらい可愛いってこと!? すっ、好きにならないでよね!」
「ならない!」
大きな声で否定すると、水無瀬は目深にかぶったキャップのつばをほんの少しあげて「なら、いい」と微笑んだ。こんな顔を周囲に見られてしまうのはまずい。俺は舌打ちすると、「ちゃんと隠しとけ」とキャップを押し込んだ。頭が小さいせいで、ぶかぶかだ。
「悠太、水無瀬さん! こっちの方ちょっと空いてるから、場所とっとくわー! おれらのぶんもタコ焼き買ってきてー!」
大声で叫んだ透に、俺は「おー」と返事する。長岡はニコニコしながら透としっかり手を繋いでいて、その幸せそうな表情を見ていると、余計な指摘をしなくてよかったな、と思う。
考えてみれば、他人の浴衣の着方など、ほとんど気にならないものだ。よくよく見ると、今俺の前でタコ焼きの列に並んでいる女性も、浴衣の合わせが左前になっている。
ふと視線を感じて斜め下を見ると、水無瀬がじっと俺の顔を見つめていた。睨みつけている、と言った方が正しいかもしれない。さっきまでの笑顔はどこへやら、どことなく不機嫌そうに口を「へ」の字に曲げている。
「……なに?」
「……べっつにぃ」
水無瀬はそう言いながらも、頭を俺の背中に押しつけてくる。肩甲骨のあたりをぐりぐりされて、地味に痛い。やめろよ、と言いながらタコ焼きを二パック購入した。原価を考えるとぼったくりのような値段だが、こういう場所で食べるからこそ価値があるのである。
俺は水無瀬を引きずるようにしながら、透たちの元に戻る。タコ焼きを食っているうちに、どーん、という音とともに夜空に花火が打ち上がった。周りから、「わーっ」というどよめきが聞こえる。
「きれいだねー!」
はしゃいだ声をあげた長岡に、透は「うん」と答えている。透はせっかくの花火に見向きもせず、花火に照らされる長岡の横顔ばかりを見つめていた。おまえは何しに来たんだよ、とツッコみたくなる。
俺だって、恋人にデレデレしている友人の顔を見に来たわけではない。上空を見上げると、色とりどりの花火がどんどん打ち上げられる。
ふいに、隣にいる水無瀬が、こてん、と俺の肩に頭を預けてきた。キャップをかぶっているせいで、その表情はよく見えない。
「……悠太がいるなら、浴衣着てきてもよかったかな」
「はあ? なんでだよ」
「よく考えたら、悠太が一緒ならナンパの心配もないし……最近は美容院とかでも着付けしてもらえるし……」
ぶつぶつと呟く水無瀬に、俺は「はあ」と気のない返事をする。ふいに二の腕をつねられて、痛みに驚いた俺は水無瀬の方を見た。
「いてっ! 何すんだよ!」
「悠太、瑠衣ちゃんの浴衣すごい見てるし……さっきも、浴衣姿の女の人見てるし……やっぱり、私も浴衣着てこればよかった!」
「はあ? おまえ、何言ってんの……」
「別に、悠太に私の浴衣姿見てデレデレしてほしいわけじゃないけど、他の女の子にデレデレされるのはもっと嫌!」
水無瀬は俺の腕にしがみついたまま、むーっと頰を膨らませる。なんてめんどくさい女なんだ、こいつは。
俺は溜息混じりに「デレデレしてない」と答える。水無瀬は未だ疑いのまなざしで、じーっとこちらを睨んでいる。
「悔しいから、私も来年は絶対浴衣にする!」
「……あ、そ。勝手にしろよ」
「そうだ、悠太が私の着付けしてくれたらいいんじゃない? 悠太なら器用だし、きっとできるでしょ?」
「ば、バカ!」
名案とばかりに人差し指を立てた水無瀬に、俺は慌てふためいた。男に向かって、おいそれとそんなことを言うんじゃない。水無瀬はそんな俺の動揺などつゆしらず、「うん、いい考え」とうんうん頷いている。
「ね、来年も一緒に来ようね。約束だよ」
そう言って突き出された小指をてのひらでぎゅっと掴んで、俺は「保証はしない」と冷たく答えてやる。このうえなく嬉しそうに笑った水無瀬の顔がやけに眩しくて、夜空に煌めく花火なんて一瞬で霞んでしまった。
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