全部夏のせいだ

 期末試験が無事終わり、あと一週間もすれば夏休みだ。梅雨もすっかり明けて、窓の外はさんさんと眩しい太陽が降り注いでいる。今年は空梅雨だったらしいから、水不足にならなければいいのだが。


「はー、やっとテスト返しも全部終わったねえ。これで安心してゆっくり寝れる……」


 そう言って長い息を吐いたのは、今回も見事学年トップを獲った水無瀬である。もぐもぐと俺の作った弁当(今日のおかずは、ピーマンの肉詰めだ)を美味そうに食べている。

 俺が試験後に気合を入れて掃除をしたおかげで、埃っぽかった部室の空気は清々しい。畳も窓ガラスも、隅から隅まで全部綺麗に拭き上げたのだ。そこまでしたところで誰に褒められるわけでもないのだが、昼休みの居心地の良さは格段に増したのでまあ良しとしよう。


「そーいや悠太も、今回結果良かったよね? もしかして私のおかげ?」


 水無瀬がふふんと鼻を鳴らして言った。

 たしかに普段は全体で中の下あたりをウロウロしている俺だが、今回は全教科平均点を上回ることができた。水無瀬と勉強した成果は間違いなくあると思うが、素直に認めるのは癪である。


「いや、俺が勉強頑張っただけだし」

「それって私と勉強してたからだよね? 感謝してくれてもいいよ! でも好きにならないでね!」

「ならねえよ」

「おまえら、やっぱ一緒に勉強してたんだ。いやー、相変わらず仲良いな」


 パンを食べながら口を挟んできたのは透だった。透の隣に座って、うんうん頷いているのは三組の長岡ながおか瑠衣るい――透の彼女である。

 昼休みにまで水無瀬と二人きりになるのが嫌な俺が、毎回のように透を引っ張り出していたところ、「おれも彼女連れてきてもいい?」と言い出したのだ。水無瀬が「ぜひ!」と言ったので、四人で昼飯を食べることになってしまった。


「水無瀬さんと上牧、付き合ってるってほんとだったんだ。もしかしてカモフラなのかな、なんて噂もあったのに」


 長岡は好奇心を滲ませながら、水無瀬に向かって親しげに話しかけた。

 長岡は黒髪を低い位置でふたつに結んで下ろしており、高校生にしては幼い顔立ちで、どちらかといえば地味な方だ。それでも透は絶世の美少女である水無瀬には目もくれず、さっきから長岡の顔ばかりを見つめている。あの水無瀬ひかりを差し置いて、「おれにとっては彼女が世界で一番可愛い」と豪語させるのだから、恋愛感情というのは不思議なものだ。


「水無瀬さんに彼氏ができたのもびっくりだけど、相手が上牧なのはもっとびっくり。上牧、女子からすっごい評判悪かったから」


 長岡はそう言ってギロッと俺を睨みつけたが、俺は「そーだっけ」と肩を竦めて誤魔化す。たしかに長岡の言う通り、中学時代の俺は女子から蛆虫のごとく忌み嫌われていた。

 俺と長岡は同じ中学の出身で、なおかつ三年間同じクラスだったため、他の女子に比べるとまだ話す方だ。そもそも透と仲良くなったきっかけも、「おれ長岡さんのこと好きだから協力して」と言われたことだった気がする。俺が協力するまでもなく二人は次第に距離を縮めていき、いつのまにかくっついていた。


「え、そうなの? なんで?」


 不思議そうに口を挟んできたのは水無瀬だ。長岡は指折り数えながら、俺の欠点をつらつら並べていく。


「えーっとね。愛想がない、やる気がない、感じが悪い、口が悪い」

「おかしいなあ。愛想がないのも感じが悪いのも、悠太の長所なのに……」

「あと、掃除のときにわざわざ拭き残しを指摘してくるのが小姑っぽくてうざい」


 最後のやつ、おまえの個人的感情入ってねえか?

 俺が長岡を睨みつけると、彼女はさっと透の背中に隠れた。小柄な長岡は、長身の透の後ろですっかり見えなくなってしまう。


「おい悠太、るぅのことビビらすなよ」

「俺なんかにビビるようなタイプか? こいつ、中学の頃に手掴みでゴキブリ捕まえてクラス中にドン引きされてたぞ」

「ちょっと透くんに余計なこと言わないでよ! そういうとこがダメなんだよ、上牧は! デリカシーがない!」


 俺は知っている。ゴキブリごときでは眉ひとつ動かさない彼女の中学時代のあだ名は、「熊殺し」だった。柔道の県大会で準優勝した経験のある女なのだ、こいつは。身長は百五十センチほどしかないが、その気になればおそらく俺のことなんて軽々投げ飛ばせる。

 もちろんそんな凶悪な内面を知ったうえで彼女にベタ惚れな透は、よしよしと長岡の頭を撫でている。お似合いのバカップルである。


「長岡さんと相川くん、仲良いね」


 バカップルを見る水無瀬の表情は、羨ましがっているというよりは微笑ましく思っている、という感じだった。水無瀬には、彼氏に頭を撫でられたい願望などないだろう。


「うん! 透くん、優しいしかっこいいし大好きー」


 恥ずかしげもなくノロけた長岡に、透はデレデレとだらしなく眉を下げた。

 入学当初からずっと長岡に片想いしていた透は、念願叶って恋人同士となった今も彼女に夢中なのだ。水無瀬ひかりのことなんて、これっぽっちも目に入らないくらいに。


「ねえねえ、水無瀬さんは上牧のどこが良くて付き合ってるの?」


 長岡の質問に、水無瀬は頰を染めてチラリと俺を見る。「こっち見んな」と冷たい視線を投げつけると、水無瀬は興奮気味に「こういうとこ!」と叫ぶ。


「メッセージは既読無視が基本だし、腕組んだらウザそうに振り払われるし、口も態度も悪いし、あとたまにゴミを見るような目で見てくれるところもいいよね」


 そう言って、水無瀬は恥じらうように両手で頰を押さえた。完全に恋バナのテンションだが、言っていることはなんだかおかしい。

 長岡は特にツッコみもせず、「そうなんだ、変わった趣味だね」と素直に頷いている。


「あとね。悠太の作ったごはんは美味しい!」


 水無瀬はひじきの煮付けを口に運んで、咀嚼して飲み込んだのちニッコリ笑う。相変わらず美味そうに飯を食う女だ。何を出しても美味しい美味しいと食ってくれるので、作り甲斐がある。


「水無瀬さんって、もっと近寄りがたい感じかと思ってたけど、意外と喋りやすいね。ねえねえ、ヒカリーナって呼んでいい?」


 俺は驚いて長岡の顔を見た。あの水無瀬ひかりのことを、そんなダサいあだ名で呼ぶ奴は一人もいない。さすが熊殺し、なんて怖いもの知らずな女なんだ。水無瀬のファンから怒られないだろうか。

 しかし水無瀬は嬉しそうに「いいよ!」と長岡の両手を取った。はしゃいだ声で、ぶんぶんと長岡の手を振り回している。


「私、友達にあだ名つけてもらったの初めて! エカテリーナ二世みたいで可愛い!」


 初めてのあだ名がそんなのでいいのか、と思ったが、口を挟むのはやめた。エカテリーナ二世が何者なのかも俺はよく知らない。世界史の授業で名前を聞いたような気もする。


「あ、もし呼びたかったら悠太も呼んでいいよ!」


 水無瀬の言葉に、俺は頰を引き攣らせた。申し訳ないが、それだけは死んでも嫌だ。



 授業を終えた放課後、俺と水無瀬はいつものように並んで帰路についていた。夕方になってもまだ陽は高く、アスファルトが熱を跳ね返している。

 俺は既に汗だくなのに、相変わらず長袖にベスト着用、ネクタイまで締めている水無瀬は涼しげだ。俺とは体感温度が違うのだろうか。


「楽しみだなあ、夏休み! ねえ悠太、二人でいろんなとこ遊びに行こうね」

「行かねえよ」


 はしゃいだ声を出す水無瀬に、俺は溜息をつく。せっかくの夏休みにまで、恋人ごっこに付き合わされるのはごめんだ。水無瀬は「えー」と不服そうに唇を尖らせた。


「いっぱい行きたいところあるのに! 海とかプールとか、花火大会とかー」

「ふーん」

「悠太は私の水着とか浴衣とか、興味ないの?」

「まったく」


 水無瀬の問いに答えながら、俺は姉ちゃんのことを思い出していた。毎年夏になるたびに、やれ荷物持ちをしろだの、背中に日焼け止めを濡れだの、着付けをしろだの、さんざんこき使われてきた俺である。いまさら女子の水着や浴衣なんかを見たところで、何も感じない。


「俺と行かなくても、他の友達と行けばいいだろ」


 すげなく言うと、水無瀬はちょっと傷ついたように目を伏せた。普段は冷たくすれば冷たくする喜ぶ女なのに、珍しいことだ。


「……私、悠太が思ってる以上に友達いないよ」

「はあ? 嘘つけ。いつもいろんな奴に囲まれてるくせに」

「ほんとだよ! 女の子みんな、私に遠慮してる感じ。昼休みに一緒にごはん食べたり、移動教室のときに一緒に行くような子はたくさんいるけど、休みの日に気軽に遊びに誘えるような子はいないもん」


 水無瀬の口調はあっけらかんとしていたが、その横顔にはやや翳りが見えた。俺が何も言えずにいると、どこか諦めたような、達観したような表情でぽつりと呟く。


「……どうせみんな、本当の私を知ったら離れていっちゃうし」


 垣間見えた翳りは一瞬で消え失せて、水無瀬はすぐにニッコリと笑顔を取り繕った。いつも教室で見るような、誰もが見惚れる完璧に美しい笑顔だ。それでも俺にとっては、ちっとも魅力的だと思えない。


「だからさ、さっき瑠衣ちゃんにあだ名で呼ばれたの嬉しかったな。相川くんと瑠衣ちゃん、なんかいいよね。二人とも私のスペックにまったく興味なさそうなところが好きだよ」


 淡々と語っていたが、ずいぶんと冷えた声だった。おそらくこいつも高嶺の花なりに、こいつにしかわからない悩みを抱えているのだろう。俺にはとても理解できないし、するつもりもないけれど。

 ……まあ多少は、譲歩してやってもいいのかもしれない。たとえ「ごっこ遊び」のようなものだとしても、俺は一応この女の彼氏なのだ。


「……そういや、透が」

「うん?」

「夏休み、長岡と花火大会行くって言ってた。俺らも一緒にどうだって誘われたんだけど、おまえがどうしても行きたいなら……」

「行く! 絶対行く!」


 俺が言い終わらないうちに、水無瀬は勢いよく俺に抱きついてきた。ふわりと甘い香りが焦げ茶色の髪から漂ってくる。「暑いし歩きづらい」と引き剥がそうとしたが、水無瀬は俺の腕にしがみついたまま離れない。


「ありがとう、悠太!」


 そう言った水無瀬の屈託ない笑顔は、さっきまでの完璧な笑顔に比べてアホっぽかったけれど、それでもかなりマシだった。少なくとも、俺にとっては。


「私、やっぱり悠太のことが一番好きだよ」


 恥ずかしげもなく囁かれた言葉に、不覚にも体温が上がって、心臓の鼓動が速くなる。これも全部夏の暑さのせいだ、と考えながら、俺は額に滲む汗を拭った。

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