軽蔑と願いの狭間2

     *(一)


 長い髪を一纏めに結って、丈の長いモーニングコートを纏う。普段通りの白手袋を嵌め、私は自室の窓に乗り出した。葬儀屋とスヴェンのいる食堂からは見えず、彼らとすれ違うこともない裏道。人通りがないことを確認してからそこに着地をし、片手に抱えたクッキーの無事を確認する。危うく袋ごと潰す勢いで、地面に手を突くところだった。


 石畳を革靴で進む。普段よりも響かない靴音、踵の低い靴。久しぶりの感覚に少しだけ心が落ち着かない。通りかかった店の窓硝子が、銀鏡のように私の姿を映していた。人形の衣裳部屋から拝借した喪服は当然サイズが合わず、少しだけ袖が長い。けれども大きすぎるというほどでもないし、礼服を着ていれば文句はないだろう。


 懐から取り出した招待状を見下ろす。封筒から抜き取ってきたそれには、式場と開始時間が書かれていた。あと三十分ほど余裕があることに胸を撫で下ろし、パン屋へと急いだ。


 焦げ目のないクッキーを焼こうと悩み続けた一週間、随分と待たせてしまった。葬儀屋もグレーテとクッキーのことを話したようで、早く作ってあげたらどうか、などと日々言ってきていた。言われずとも出来次第持っていくつもりではあったし、急かされずとも葬儀屋の分も早く作るつもりだった。彼は、クッキーを美味しいと感じられただろうか。喜んでくれる彼の顔を思い浮かべて、人知れず微笑する。親に喜んでもらいたい子供は、こんな気持ちかもしれないと軽く目を伏せた。思えば、親孝行というものをしたことがない。私は親不孝者だったなと冷笑を湛え、見慣れた道で顔を上げる。


 朗らかに行き交う人々。昼間の人海の中で、パン屋だけが閑散としていた。硝子の向こうを窺っても、パンは並んでおらず、けいとうすら灯っていないようだった。染み出してくる懸念を呑み込んで、硝子戸に歩み寄る。扉に掛けられた木の板。そこには『closed』の文字。グレーテに何かあったのだろうか。それならば他の従業員が店を開けているだろう。店自体が休みになる状況、材料が不足している等そういった理由だろうか。凝然と黙念していたら、鈴の音に似た高い声が耳朶を打った。


「あ、あのっ……アドニスさん、ですよね?」

「……君は?」


 傍に立っていたのは私よりも背の低い少女だ。紅茶に似たマホガニーの髪を揺らして、不安げな目でこちらを見上げてくる。幼く頼りない姿は、グレーテのパン屋で何度か見たことがあった。


「あっえと、シルヴィです、グレーテさんのお手伝いをしています……」

「そうか、よろしくシルヴィ。それで……グレーテはどうしたのかな」

「昨日……倒れてしまって。そのあとのことは分からないんですけど、来てみたらお店がやってなくて……多分、まだ具合が悪いんだと思います」

「それは心配だな……。もし、グレーテに会う機会があったら、これを渡しておいてほしい」


 差し出した紙袋を受け取り、彼女は首を傾げてそれを見つめる。中身が見えないから気になっているのだろう。子供じみた仕草に笑ってしまった。


「クッキーだよ。君の分も持ってくればよかった。今度パン屋に来るときは作ってくる」

「えっ、いえそんな、私なんかが受け取れません……!」

「え、どうして? クッキーは苦手だったかな。何が好き? 頼まれてくれたお礼だ。作れる物なら作ってくるよ」


 僅かに屈んで目線を合わせる。真っ直ぐに見つめて微笑みかけると、勢いよく顔を逸らされた。嫌な気持ちにさせるようなことでもしてしまっただろうか。頭を傾げて待っていると、たどたどしい返辞が渡される。


「わ、私、基本調理場にいるのでお客さんの前に立つこともほとんどないですし、アドニスさんのこともちゃんと見るの初めてなので、聞いてた話と違くて……」

「聞いてた話? グレーテ、何か言ってたのか」

「グレーテさん、アドニスさんは可愛い人だって言ってたんですけど……あの、かっこいいの間違いですよね」


 沈黙を返してしまう。普段子供扱いをされることしかないからだろうか、羨望の眼差しは目に痛い。シルヴィを見下ろしているうちに、彼女と妹が重なる。ああ、と気付いた。私は、妹にこんな風に見て欲しかったのだ。私のことを、頼りにして欲しかった。それを理解してしまってから苦笑した。面映ゆい気持ちを隠すように、彼女の頭に手を置く。撫でながら俯かせて、彼女が顔を上げる前に踵を返した。


「私はもう行くから、よろしく頼むよ。またねシルヴィ」

「あっ、は、はい!」


 後背で聞き心地の良い声が雑踏に呑まれていく。私は人混みへと踏み出し、教会を目指した。コンラートのいる街外れのものではない。街の中にある大きな教会、恐らくそこで死者蘇生の儀式が行われる。


 両親も、妹も、私がそんなものに縋りついて生きていると知ったらどう思うだろうか。尚更軽蔑されるかもしれないなと自嘲した。ふ、と零れた吐息は風声にすら敵わず、微かな音さえ立てなかった。


 予定時刻の十分前に目的地へ参着する。暗然たる面持ちで教会の扉を潜る人々、対照的に愉楽を滲ませる人々。私は恐らく後者の類なのだろう。口端を引き攣らせ、扉を潜った。ステンドグラスが耿々こうこうと白日を注ぐ。棺の奥にある祭壇は花で綾取られ、幽寂な空気に浸る人々は微かな会話をそっと交わしていた。席に座って祈りを捧げる女性、棺に手を伸ばす子供、冗談を交える大人。端から端まで見回してから、内陣チャンセルで神父と向かい合う男性に目を向けた。煤色の髪と鳶色の双眼。私に招待状を渡してきた彼は、視線に気付いたのかこちらを振り仰ぐ。私を正視したまま、人好きのする笑みを顔一面に広げて歩み寄ってきた。


「こんにちは、お嬢さん。少し予想外の格好だったので吃驚してしまいました」

「格好……あぁ、そうか。丁度いい喪服がこれしかなくてね」

「そうでしたか。お一人ですか?」

「不満かい? もしかして、私ではなく私と一緒にいた青年に来てもらいたかった?」

「いいえ、聞いてみただけですよ。そんなに警戒しないでください」


 柔和な仮面は剥がれない。綽然しゃくぜんとした男に気を緩めるわけにはいかなかった。そもそも死者蘇生などと口にしている時点で信用など出来ない。人々を欺くだけの奇術師か、人々に歪められた魔法使いか、そのどちらかであると予想していた。


「自己紹介がまだでしたね。私はジークハルト・アーレンスと申します。貴方のお名前は?」

「アドニス・エーレンフェスト」


 目線という刃口を突き刺す。彼はそれを意に介さず、相好を崩したまま上着をはためかせた。


「アドニスさん、また後でゆっくりお話ししましょう。そろそろ始まりますからね。そちらの席で、どうぞ見届けてください」

「一つ問わせてくれ。貴方の言う死者蘇生は、本物か?」

「見ればわかりますよ」


 得意げな笑み。幕開けの号音のように、旋律が背後で響く。入口の上、二階にあるパイプオルガンが荘厳な一音を奏でる。余韻がしょうじょうへと沈み込んでいった。神父とジークハルト以外の誰もが着席した中で、私も一番後ろの席へと腰を下ろした。


 始まったのは葬式だ。私にとって経験のない祭儀は、劇場で行われているように錯覚する。光彩を浴びる祭壇はさながら舞台で、神父によって語られる懺悔や、聖典の朗読は歌劇の一場面のようだった。やがて参列者による讃美歌がパイプオルガンの音色と重なる。歌を知らない私は神籟しんらいの響きに目を伏せて黙祷を捧げた。遺族が棺へ花を添えていく。このまま葬儀が終わりを迎えるような雰囲気が満ち始める。


 靴音が高く反響した。神父と入れ替わるようにスポットライトを浴びたのは、ジークハルトだ。彼は表情を崩すことなく朗らかに笑んでいた。


「皆様の思いと歌声は、神様に届いたことでしょう。集まった願いは奇跡となり、すぐに叶います。さあ、神を信じて懇願を」


 参列者達が揃って五指を絡め始める。祈りを捧げる彼らの前で、ジークハルトは棺に近付いた。皚々がいがいたる雪のような、真白の花に飾られた少女の遺体。彼は蒼白の額へと手を翳した。子を愛おしむ親のように、小さな頭を撫でる。


 神様、と、祈るような誰かの声が微かに聞こえた。爆ぜるような哀哭が、私だけの耳を劈いた。混ざり合ういくつもの死者の声。吐き気がする程かからめく雑音。思わず目を剥いて俯いた。片耳を塞ぎながら首を持ち上げる。ジークハルトの目顔に息を呑んだ玉響たまゆら


 産声が、上がった。


 死体だった少女が甲高い叫声を迸らせる。それに重なる不協和音。鳴きやまない姿は生を受けたばかりの赤子を思わせた。次第に彼女が、何かを拒んでいるようにしか見えなくなる。


「レジーヌ! レジーヌは大丈夫なの!?」

「お母様、落ち着いてください。動転しているだけですよ、なにせ蘇ったのですから。少しすればお嬢様も落ち着きます……ほら、落ち着いたでしょう?」


 母親に支えられた少女が悲鳴を静めていく。喘鳴音だけを漏らすようになった華奢な体を、母親は嬉しそうに抱きしめていた。歓声が響き渡る。それを縫って響くのは欷泣の声。目映い光の中で終幕を迎えた喜劇は、歪にしか見えなかった。


「あぁ……よかった、よかったわ……!」

「蘇ったとはいえ彼女は一度死んだ人間です。長くはもたないでしょう。思い残すことがないように、彼女が再び眠りにつくまでお母様が傍にいてあげてください」 

「ええ、ええ、もちろんです……!」


 ジークハルトに何度も頭を下げる母親。感動的な光景だとでも言いたげに、ハンカチで目元を押さえていた神父が、葬儀を終わらせる言葉を紡いでいく。蒼然たる影に塗られる私の方へ、役を終えたジークハルトが下りてきた。遺族は幸せそうに神父の声へ耳を傾けており、死者蘇生を目当てに訪れたのであろう観客も、今やジークハルトを見てはいなかった。


「いかがでしたか? 死者蘇生は可能だったでしょう?」

「私には惨劇にしか見えなかったよ」

「おや、それは残念なご感想ですね」

「けど興味はある。どういう仕組みなんだ?」


 背の高い彼を見上げる。好奇を向けられるのは気分が良いのだろう、彼は笑みを深めた。ステンドグラスに背を向ける彼の双眼が、逆光の中で妖異な色を煌めかせる。


「知りたいですか?」

「そりゃあね。貴方が一体どんな魔法使いなのか、教えてくれないかな」


 魔法使い。その単語に彼の瞳孔が一瞬開いたように見えた。この男は恐らく、私の望むような力など持っていない。垣間見えたのは嫌忌を向けたくなるような、そんな力だ。少女を蘇らせた時、彼が確かに浮かべていた一笑。それは誤魔化せないほどに私を竦ませた。


 嫌な予感がする。それでも踏み出した足を止める気はなかった。今ある選択肢は二つだ。この男を利用するか、この男を敵とみなして殺すか。どちらかを選ぶ為の材料がもう少し欲しい。


「それなら、場所を変えて話しましょうか」


 差し出された彼の手は取らない。代わりに、彼の影を踏みつける。遠ざかり始めた陰影を追いかけた。朝影も、パイプオルガンの諧調も、この胸臆とは不相応なほどに明るかった。

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