第4話 お絵描き

厳しい冬が過ぎ、生命溢れる春になり、爽やかな夏になり、私がこの世界に来てから1年が経過した。

徐々に寝返りからハイハイ、つかまり立ちとできるようになり、ついに二足歩行が出来るようになった。

魔女は「ふん、よーやくかい!」と言っていたが、成長が嬉しいのか、口元がにやけていたのを私は見逃さなかった。


それにしても、赤ん坊の頃は日々自分が成長をしているのを本当に実感する。

今日できなかったことが、翌日にはどうにかできるようになり、1週間後には当たり前にできるようになる。

1年前は手足をバタバタさせるだけだったのが、四足歩行のハイハイになり、何かに掴まっての二足歩行になり、ついに補助具なしでの二足歩行になったのである。

まるで人類への進化の過程を経ているような気持ちになり、自分のことながら赤ん坊というのは不思議な生き物であるなぁと思う。


そして、大人になるとなかなか実感出来ない『成長』が手軽に実感できるというのは何と気持ちの良いことだろうと思う。

昨日出来なかったことが出来るようになる喜びは、やはり素敵なことだと思う。

――素晴らしい。いつまでも子供でいたいぞ。


歩けるようになると、私は魔女の家を色々と探索するようになった。

とは言っても、大きめのリビング兼ダイニングのような暖炉付きの部屋と、その隣の実験室のような部屋、2階の屋根裏部屋兼寝室で終わってしまうので、むしろ、モノの探索を積極的に行った。

特に実験室は色々な本と薬品・薬草があるので、迷惑にならない程度に色々と読んでみようとしたり、戸棚を引っ掻き回してみたり、薬草を手に取ったり匂いを嗅いだりしてみた。

その度に魔女は割と面倒そうな顔をして「あーもう! まったく何なんじゃ!」と悪態をつくが、徐々に私はそう言われることにも慣れて来た。

というか、1年魔女と一緒にいると流石に気付くが、魔女の悪態はいつものことで、要は口癖みたいなものなのであまり気にしてはいけないのである。


そして1歳になる頃には、多少は喋れるようになった。

とは言っても、まだ舌と口を上手く動かせないので、滑舌はとても悪いのだったが。

喋れるようになると、魔女とも上手くコミュニケーションが取れるようになる。

例えば、お腹が空いたなら『まんま』と言えば良いし、おしっこが漏れてしまったら『ちっこ』と言えば良いし、モノの名前を教えて欲しかったら『なーに?』と言えば良いし、本を読み聞かせして欲しければ『ほん』と言えば良い。

今までみたいに、『おぎゃー』の回数のみで意思疎通をしなくても良いのである。

素晴らしい進歩である。


――ついに私はトン・ツーのモールス信号以下の意思疎通方法を卒業して、多種多様な発声による人間的なコミュニケーションスキルを身につけたのである……!

人類はこうして進歩をして来たのだろう。

あぁ、素晴らしきかな、進化の追体験。


ちなみに、魔女のことは『ばぁ』と呼んでいる。

『グウェンドリン』は流石に長すぎて、今の私の口には余るし、例の商人が魔女のことを『おばぁ』と呼んでいたので、それを真似た形である。

最初におばぁがこれを聞いた時は、少しだけ嫌な顔をして舌打ちをしたが、今では慣れたのか、特に何も言ってこない。

――もしかして『ママ』と呼んで欲しかったのだろうか……?


この頃から、この周辺地域の文字であるルーン文字を学ぶようにした。

日没後に魔女の手が空いた頃合いを見計らって、文字のなるべく大きそうな本を選んで、魔女に『ほん』と言って読んでもらうのだ。

魔女の持っている本は大体どれも薬学や薬草学、生物学や人体解剖学、汎用魔術や治癒魔術に関する本で、専門知識が無い私には非常に難しかった。

しかし、何冊か声に出して読んでもらっているうちに、何となくではあるが徐々に文字と音の対応関係がわかり、文字が読めるようになってくる。

そうなると、本のタイトルが読めるようになって、今の私でも興味を持てて理解できそうな本がどれかわかるようになってくる。


そんな中で私の興味を惹いた本として『西方探訪記』というものがあった。

内容的には、著者が西方大陸という場所を旅した冒険記といった代物だったが、その著者が『トーカ・シュタインベルク』という名前だった。

それについて、私が「トーカ?」と指を差しながら魔女に言うと、魔女は「チッ」と舌打ちをした後で、こう言った。

「そうだねぇ、トーカ・シュタインベルクって人の本だねぇ」

――いやいや、聞きたいのはそこではなくて……。


私は本の背表紙を指差して「トーカ」と言い、自分を指差して「トーカ」と言った。

「あぁ、そうだねぇ……、あんたの名前の由来だよ。そいつは私の師匠だったんだ。もう死んじまったけどねぇ……」

魔女は遠い目をしていた。

「まったく、ある日突然手紙がやってきたと思ったら、この本も一緒に送られてきて、『その本を書いた。やるから小金貨5枚をここまで送金せよ』とか書いてあって。あーもう、まったく、今思い出してもただの押し売りでイライラするのぅ!」

どうやら魔女の怒りスイッチ触れてしまったようで、私は「おおー」と適当な返事をしつつ、そそくさと本を持ったまま退却した。

――あれ、でも、そんなにイライラするってことは律儀に師匠に送金したってことかな……。それに私の名付けの由来にするほどだから、尊敬していたってことだよね……。これはあれか、おばぁなりのツンデレ……、というかただのツンか……。


私はその本をつっかえつっかえ、しばしば魔女に読み聞かせをしてもらいつつも読み進めて行った。

内容はそれなりに興味深かった。

私が今いる場所は東方大陸の北側にあるようだったが、その東方大陸とは海を隔てた西方大陸を南北に縦断した時の旅行記で、色々な都市や村、森や砂漠に滞在した時のエピソードを中心に、トーカ本人の主観的な感想を交えつつ様々に語られていた。

またトーカ本人は、魔女の師匠というだけあって、治癒魔術と薬草学のエキスパートだったようで、その研究に関しても時折書かれていた。

その地で使用されている主な薬草と治癒魔術、はたまた地方病とその原因に関する考察、その地方病の治療法についてなどなど。

簡潔な描写と端的な考察はトーカ本人の有能さを示していると思われた。

その他に気付いたこととしては、時折『そんな格好をしているあんたには教えたくない』と滞在した村人に言われる描写が何度か挟まっていることである。

――まさか、魔女の奇抜な服装は師匠譲りなのか……? めっちゃ師匠リスペクトしてるやんけ……。

と思ったりもした。


そんなこんなで、『西方探訪記』を読み聞かせてもらいつつ、1人で音読しつつ魔女に「うるっさいのぅ!」と怒られた後で「そこが違う」と指摘してもらったり、はたまた1人でじっくりと黙読しつつ、最後まで読み通すうちに、ルーン文字をほとんど完璧に読むことが出来るようになった。

我ながら、さすが赤ん坊、吸収するスピードが段違いに良いなぁと実感する。


歩くのに慣れてくると、行動範囲が家の外にも広がった。

とは言っても体力も筋力もまだ覚束ないため、家の周囲をぐるりと散歩する程度である。

もうすぐ雪がチラつく季節で、木々は黄色からオレンジ、紅色に色づき、時折ひらひらと色づいた葉っぱが顔に向かって落ちてくる。

元の世界にいた頃は、紅葉なんてものは最早ありきたりな毎年の風景に過ぎず、ただ『1年に1回落ちるもの』として足を止めて見てこなかった。

しかし、こうして薄緑から黄色を経て紅色から紫色にまで豊かに色づいた落葉樹を見渡し、じっくりと地面に落ちた葉っぱ1枚1枚を観察していると、どれも違った色合い、グラデーションを見せてくれて非常に興味深かった。

そう思うと同時に、元の世界では、いかに忙しなく日々を送っていたか、いかに素晴らしい光景を見逃し続けてきたのか、と実感した。


この世界において赤ん坊となってしまって、出来ることは狭くなったが、その分世界が広く感じられるのは何だか不思議な感じだった。


家の周囲の地面をガサゴソと漁っていると、色々なものが目に入る。

元の世界と同じようなアリや小さなイモムシ。苔やカビやキノコ。元の世界では見たことのないような奇怪な食虫植物やうねうねと動くツタなどなど。

しかし私の興味を一番惹いたのは、小ぶりな、私の今の手にちょうど良いサイズの小枝である。

――ん? これを何に使うのかって?


私は玄関前の地面が剥き出しになっているところに移動して、おもむろにしゃがみ、その小枝で地面に絵をざりざりと描き始めた。

描いている最中に思わず鼻歌が出てきてしまった。

魔女の似顔絵、私の元の世界の自画像、森の中にいる植物や動物をデフォルメした絵などなど。

描き始める前はかなり不安だったが、元の世界で画家を目指して努力を積み重ねていただけあって、地面に小枝で線を刻んだ途端に、記憶と経験が一気に蘇り、小枝を持つ手が止まらなかった。

気の向くままに線を刻みつけていった。

スラスラと思いつくままに色々な絵を描き続けた。

夢中でご機嫌に描き殴った。


そして、思い出深い『世界樹』で見た、世界が七色に光る風景を描こうとしたが、さすがにそれを線だけで描き切るのは難しく、途中で投げ出してしまった。

――いつかあの素敵な光景も描いてみたいな……。


しばらく地面にしゃがみこんで絵を描いていると、魔女が家から出てきた。

「おいトーカ、一体何を……、ほー、まったく何だい、上手いじゃないか。こんな才能もあるのかい」

「えへ……」

私は自分の絵が褒められて嬉しくなった。

「おー、って、もしかして、これ、私かね?」

「そー!」

私は自慢気に言った。


「ふん! 私を描くならもっと可愛く描いて欲しかったねぇ! まったく何だい、このブスは。あーもう、私はもっと若いだろうに!」

急に魔女の怒りスイッチが入ってしまった。

――そんなブスには描いてないんだけどな……、次描く時は、もう少し可愛らしく漫画的なデフォルメでも加えてみようかな……。


そんな平和な日々を過ごしていると、徐々に曇りの日が増えて、雪がチラつくようになった。

私がこの世界に来て、二度目の冬だった。 

さすがに冬になってしまうと、外で絵を描いて過ごすのは難しい。

そこで魔女が持っている紙とペンで落書きでもしようかとも思ったが、魔女の使う紙は全て本として綴じてあり、そこに魔女の研究成果を丁寧に書き残していくものであったため、落書きをするには躊躇われるものだった。


私としては、冬の間は色々と本を読んで、お絵描きは春になるまで待てば良いかと思っていた。

しかしある晴れた冬の日、例の商人がやってきて、色々な大きさの紙束と羽根ペンを持ってきてくれた。

なんでも、前回私が寝ている間に商人がやってきて、その時に魔女がこれを注文をしておいたそうだ。

「トーカにゃ絵の才能もありそうだったからね! 感謝するんだよ!」とのことだった。

魔女が普段使用している紙よりも表面が毛羽だっており、質の悪いものではあったが、魔女と商人の会話からこの世界で紙はまだまだ高級品であることが伺え、子供のラクガキに買い与えてくれるのは大変ありがたかった。


商人が帰ると「ありがとー!」と魔女に言って、すぐにインクを魔女から貸してもらって、描き始めた。

まずはペンと紙の調子を見るために、ルーン文字で自分の名前を書いてみた。

ルーン文字はまだ書き慣れず、また紙の繊維にペン先が引っかかることもあり、とても歪んだ文字になってしまったが、紙とペンについてはまずまずの書きごこちだった。

そうして、絵を描いてみようと、魔女のデフォルメした可愛い顔を題材に決めて、ペン先にインクをつけて、紙の上に置いた。


シャっと魔女の輪郭線を描く。

すると唐突に、呼吸が浅くなり、ペン先が震えた。

心臓が早鐘をうち、柄の羽根がふわふわと揺れる。

急に右手に力が入らなくなり、羽根ペンが軽い音を立てて手から滑り落ちた。

黒いインクが紙の上に飛び散った。

私はぎゅっと目を閉じた。


――あぁ……、やっぱり描けないのか……。


元の世界で投身自殺をする約1年前から、絵を描けなくなってしまっていた。

キャンパスを前にすると吐き気を催し、それを我慢して絵筆を持つと手が震え、それでも我慢してキャンパスに描こうとすると呼吸が早くなって右手に力が入らずに絵筆を取り落としてしまうのだった。

1年かけて何度も何度も何度も何度も克服してみようと試してみたが、ほとんど改善の兆しは見られなかった。

原因はいくつか心当たりがあった。

例えばギャラリーオーナーに私の絵の委託販売をしてもらう際に「なんていうか、普通だねぇ……」と言われたり、ようやく狭い画廊で個展を開いてもお客に「良さが分からない」と言われたり、SNSに作品をアップロードをしても「誰々の劣化版だね」と言われたり。

まぁ、端的に言えば、他人からの心ない批判に私の繊細な心が耐えられなかった。

ただそれだけだ。

――よくある話だろう?

しかし『それだけ』のことで、私は絵を描けなくなった。

そして、この世界でもトラウマは消えておらず、描けないようだった。


「お、おい、トーカ! まったくどうしたんじゃ!」

魔女の大声がどこか遠くから聞こえる。

心臓の拍動がやたらと耳に響き、外部からの音は耳に綿が詰まったように聞こえにくい。

意識的に呼吸を遅くして、深呼吸をする。

すー、はー、すー、はー。

1回呼吸をするたびに、心臓はゆっくりになっていき、耳も正常になる。

目をゆっくりと開く。


「ばぁ……」

と私は涙目で言うと、魔女に抱きついた。

「まったく……、一体何があったんじゃ……」

私は魔女のその質問には答えずに、首を左右に振って、強く魔女に抱きついた。

深呼吸をすると、魔女のカラフルなローブから、色々な薬草のエキスが染み込んだ刺激的な香りがしたが、私にとっては嗅ぎ慣れたとてもとても落ち着く匂いだった。

私はそのまま魔女の落ち着く香りに包まれて、ストンと眠ってしまった。


 ***


トラウマの克服は現段階では諦めることにした。

元の世界でも投身自殺の前に約1年間色々なことを試してみたが、どれもあまり効果は無く、ほとんど改善は見られなかったし、だからこそ、こっちの世界でトラウマがすぐに改善されるとも思えない。

こういう心の傷は結局のところ時間が解決してくれるものだと思うし、この異世界で私は別に画家を目指す必要もないのである。

確かに絵を描くことは好きではあるが、それが出来ないのなら、仕方がないだろう。

きっと別の才能だってあるだろう。

仕方がないのである。

どうしようもないのである。


『何かを成し遂げたい』とは自殺前から思っていたし、こっちの世界に来てからも常日頃から願っているが、その『何か』が『絵を描くこと』じゃなくても良いのだろう。多分。

この世界ではまだ自分は幼児で、『絵を描くこと』以外にも可能性は無限に広がっている。

今の段階で画家に絞る必要もないだろう。

だってトラウマがあって、絵も描けないんだし……。

仕方がないのである。

どうしようもないのである。


せっかく買ってもらった紙束の一部は、私のルーン文字書き取り練習に活用された。

「まったく! 貴重な紙をもったいない使い方をするねぇ!」と魔女に悪態を吐かれたが、もともと私のために買ってもらったものである。

もったいない精神を発揮して、びっちりと裏表隙間無く使っているのだから、それくらいの無駄遣いは許して欲しいものである。

残りは……まぁまたいつか使う機会が回ってくるだろう。


……、あれ、でも、そういえば、どうして私、地面には絵を描けたんだろう……?

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