いざない。
木曽に銘酒の地酒あり、山郷隠るる幻酒なり。
と思えるほど木曽の酒は旨い、頂くたびにそう感じながら、漆塗りのお猪口に注いだ日本酒へ麻衣奈は口をつけた。
木曽歌にも出てくるノリサンの名前を冠したこのお酒を麻衣奈は気に入っていて、元気が出始めてからは、ちょくちょくと坂上にある酒屋さんへ小瓶を買いに行っていた。
やっぱり美味しい。
その味わいを楽しみながらゆっくりと飲み干して、ほっと一息をついて余韻を味わう。これこそが酒の醍醐味ではないかと思うのだが、その隣ではウワバミが2匹ほど、互いに祝酒を煽っていた。
飲んでますか?麻衣奈さん?
先程の歓喜に震えた姿は何処へやら…。と口を滑らせそうなほど、顔を薄紅色に染めながら愛美が手に持った漆升を軽く揺らした。その若さで枡酒を煽るのはどうかと感じる麻衣奈だったが、ふと愛美の隣に置かれているワライの一升瓶がつい先ほど栓を開た筈なのにも関わらず、すでにかなり減っていることにも驚いた。
隣の七右衛門は別の木曽蔵元のソマという発泡性の濁酒が好みで、愛用の木曽漆器の見目麗しい盃に注いでは、目で、匂いで、味で楽しんでいた。
麻衣奈さんはお酒に強いタイプですかぁ?
上機嫌の愛美が麻衣奈にぐいっと近づいた。どうやら、ウワバミの片割れはからみ酒まで飲んだようだ。
そこそこ飲めますよ。
よし!なら、今度、ワインを飲みに行きましょうよ!
ニコニコと微笑みながらそう言った愛美の姿を見た七右衛門が額に片手を当ててため息をついたので、ああ、これは良くないことなのだろうな。と麻衣奈は感じとった。
それに、麻衣奈さんの箱膳も買いに行きましょう!いつまでも来客用じゃお客さんみたいじゃないですか!千代子さん、どうですか?
ガラスのお猪口で同じものを飲んでいた千代子が頷き、七右衛門も同じように頷いた。
近くでもよいけれど、たまには贄川にでも行きましょうかねぇ。
ソレを聞いて再び七右衛門が小さくため息をつく。
贄川なら、少し走れば塩尻!、麻衣奈さん、ワイン飲みに行けますよ!
愛美がさらに嬉しそうに声を上げた。
箱膳とは自分の食器を入れておくもので上蓋がそのまま膳になるものである。今では使う家庭は少なくなったし、骨董品の部類に入るかもしれないが、種火屋ではそれを使っていた。長居している七右衛門は自前で調達したものを使っていたが、麻衣奈はお客様用のものを使っている。
まぁ、当たり前のことではあるのだが・・・。
と、そんな話をしている最中に種火屋の電話が鳴った。
はい、種火屋でございます
子機の近くに座っていた麻衣奈がその電話を取った。隣で騒いでいた愛美も声を潜めてからむのを辞めた。
ああ、麻衣奈さんですか?私、神坂駐在の中神ですが・・・。夜分にすみません。
宿場から少し離れたところにある駐在所の巡査からの電話であった。熊のような大きさで強面の中神巡査を、最初に見た時は麻衣奈は少し恐怖を抱いたものだったが、その立ち居振る舞いは気配り目配りが行き届く、とても体型からは想像できないほど気遣いのできる素敵な男だ。
中神さん?どうされたんです?
いや、えっと千代子さんおられますか?
今、変わりますね。千代子さん、駐在の中神さんからですよ。
囲炉裏を回って子機を手渡すと受け取った千代子は困惑した表情を浮かべた。
なんだろうねぇ・・・・。はい、代わりました千代子です。
そこからの会話はどうやら相当深刻なもののようで、千代子の眉間に皺がどんどんと寄っていく様が見て撮れた。普段からは考えられないほどの表情をしているのを心配して、七右衛門も愛美もお酒を止めていた。
しばらくして電話を終えた千代子が深くため息をいた。
ちょっと、駐在所まで行ってくるよ。愛美、悪いけど火の番をしていてくれるかい?
それはいいけど・・・どうしたの?
帰ってきてから話すよ、悪いのだけど、お風呂と店の小さめの浴衣を2つ出しておいてくれるかい?
そう伝えてスッと立ち上がった千代子の表情は少し青ざめていて、心なしか緊張しているようであった。
夜分だから、私も一緒に行きます。
私もついていこう。
いや、それには及ばないよ・・・。
七右衛門と麻衣奈の声に千代子はそう返事を返したものの、どことなく不安そうな表情をして部屋を出ていった。
麻衣奈さん、七右衛門さん、千代子おばさんについて行ってもらえませんか・・・。お酒も入ってますけど、それよりあんなおばさんを見たのは初めてで・・・。
もちろん、そのつもりよ。
そう言って2人は立ち上がると同じように囲炉裏の部屋を後にする。店の入り口は電気が消えてしまっていたので、裏口へ向かうことにして、細い廊下を抜けて裏口に達すると、そこに座り込んだ千代子がいた。
千代子さん?
ああ、麻衣奈さん、大丈夫だよ。
明らかにいつもとは違う。薄暗い裏口の明かりの下でもその顔色が優れないことぐらいは手に取るようにわかった。
私たちも一緒に駐在所まで行きます。
いや、それには・・・。
その言葉を遮るように七右衛門が口を開いた。
まぁまぁ、そんな姿で転んでもえらいことだからさ、ついていくだけでいいから、愛美だって私達だって心配なんだから、まぁ、私たちのわがままだけど、ついて行かせてよ。
そう言いながら草履を履いた七右衛門はさっさと裏口から外へと出ていく。
そうさね・・・。
少し苦笑いを浮かべた千代子がゆっくりと腰を上げて、裏口から出る。それを気遣いながら麻衣奈も後を追った。
麻衣奈にとって、これが「姉妹」との出会いの始まりであった。
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