陽の満たす朝
ん…。
ぼんやりとしながら晴れぼったい瞼を開ける。
柔らかな陽の光が長障子を抜けて室内を薄明るく照らしていた。
えっと…。
木目の美しい天井を見たのちに左右に首を振ると、畳の上に敷かれたふかふかの布団に寝かされていることが理解できた。
誰が連れてきてくれたのかな…。
寝ぼけている頭でそんなことを考える。
若い子なら飛び起きるのだろうが、アラフォーまであと一歩の彼女が慌てることはなかった。
布団はとっても柔らかく、雲の様にふかふか、そして彼女の体を包んで、再び眠りへと魅力的な誘いをかけてくる。しかし、そうは言っていられない。誘いを跳ね抜けるように上半身を頑張って起こした。
どうやら、今いるのは10畳くらいの広さの部屋のようであった。
二方を襖で仕切られ、背中の右に床の間があり、その隣に鏡台、座卓に座椅子、小さなテレビと冷蔵庫が備え付けられている。
あ、私のスーツケース…。
色々詰め込んで共に道中を歩んできたスーツケースは、足元側の襖近くに静かに佇んでいた。
ここはどこだろう。
いまいち意識がしっかりしないせいか、考えもうまくまとまらない。ここがどこなのかも分からず、静まり返った室内に思わず背筋が寒くなった。
とにかく動こう。
布団から出るために足を動かそうとした刹那、左足に耐え難い激痛が起こり悶絶した。
ふぅ…ふぅぅ…。
冷や汗が噴き出して布団に落ちる。
痛みが酷すぎると声も出ないとはこういうことなのだろう、堪えながら掛け布団を右へずらすと、浴衣の褄下から覗いている左足と足首は包帯でぐるぐると巻かれて処置されていた。
えっ!?浴衣!?
上半身を見ると、藍色に白文字で種火屋と染め抜きされた浴衣を着せられている。衣の下は生まれたままの姿で、大きく開いた襟元から、程よい形の乳房が半分ほど露わになっていた。
誰に見られたかわからないことに彼女は顔面を染め、声をかけてきたのは男性だったのを思い出されて、寝ている間に酷い目に遭わされたのだろうか?と勘ぐったが、それがなかったことは身体から感じ取れた。
こんな女に手を出すこともないか…。
安堵しながらも、自分自身を嘲笑ってため息をつく。
これから、どうなるのだろう…。
思考を再び巡らせようとして、襖越しから声が聞こえてきた。
起きておられますか?
力強い高齢女性の声だ。
は、はい…。
上擦った声で返事をすると、襖がゆっくりと開く。
細面の顔つきの銀鼠の着物に濃紺の帯を締めた老婆が姿を見せた。
視線が合うとうやうやしく一礼される。
失礼いたします。
室内へ入ってきた老婆は襖を閉じたのちに彼女へ向き直った。
顔をよく見れば人形の女雛のような貴賓のある顔つきで、これまた刻まれた皺がなんとも言えない美しさを醸し出しており、歳を経たらこうありたいと考えてしまうほど美しかった。
ご気分はいかがです?
心地よい声で老婆が問うてくる。その声もまた素晴らしい。
大丈夫です。ご迷惑をおかけしてすみません。
深々と頭を下げて老婆に詫びる。
そんなことはいいのよ。体調はどうかしら?
老婆の視線がしっかりと彼女を見つめていたが、浮かべた笑みは菩薩の様に柔らかく温かい。
はだけた襟元を正して彼女はゆっくりと頷いた。
なら安心しました。そうそう、私はこの種火屋旅館の女将で傘鷺千代子 カササギチヨコ と申します。貴女のお名前も教えていただけるかしら?
わ、私は結衣島麻衣奈 ユイシママイナ と言います。助けていただいて本当にありがとうございます。
再び深々と頭を下げる。
面を上げてくださいな、気にしないで本当に大丈夫なのよ。
千代子は菩薩の笑みを絶やさず、右手を小刻みに左右に振る仕草をみせる。
七右衛門さんがぐったりとした結衣島さんを連れてきたときは、ついにやってしまったかと心配になりましたけども、勘違いで安心していたことなのよ。
七右衛門さんと言う人がどうやら声をかけてきた男性のようだ。しかし、かなりの年配者の名前である。記憶にある声は若々しかった気がして麻衣奈は首を傾げた。
その仕草に千代子は付け加えをした。
ああ、七右衛門さんというのは、長期で逗留している若いお客さんのことなのですけどね。
私がなにか?
唐突に千代子の後ろの襖が開き大男が頭を見せた。覗かせたというよりは、背が高過ぎるのだろう、鴨居を潜るようにして頭を出しているためニョキッと出てきているように見える。
七右衛門さん!女性の部屋ですよ!
千代子が血相を変えて怒鳴なり、麻衣奈は掛け布団を胸元を隠すように引き寄せた。注意された本人はさほど気にする様子もなく視線の先は胸元にいくより、麻衣奈の顔をじっとみて、視線が重なっても外すことはなかった。
昨日よりは顔色が良いね。
あ、ありがとうございます…。
体調はどうかな?もし悪いなら、千代子さん、中西のヤブ医者より、市民病院あたりに連れて行くかい?
千代子はそれを聞いて口をあんぐりとあけ固まってしまっている。
そ、そこまでしていただかなくても大丈夫です。
首を振ってお断りをしながら七右衛門を見れば、切長の目が特徴の整った顔立ちに程よい短髪、リムのない長方形のレンズに黒く太いテンプルが印象的なメガネを掛けており、なかなか良い方に当てはまる好青年であった。
失礼。
薄茶の着流しに同色の羽織をきて濃紺の帯を締めた男が室内へと入ってきた。身長は高く、天井スレスレに頭があった。襖を閉めたのち千代子の横に優美な動作で正座をした。
足は痛まない?
だ、大丈夫です。足は痛みはありますが辛くなるほどではないですから。
痛み止めをあの辺に置いていったような…。
取りに行こうと立ち上がろうとする七右衛門を千代子が手で制した。
なにも食べずに飲むのは胃に悪いですよ。結衣島さん、朝食は食べれそう?
朝食はと、言い終わる前に麻衣奈のお腹が音を出してみるみる顔が真っ赤になる。
あらあら、直ぐに用意しますね。七右衛門さん、貴方は準備を手伝ってくださいね。
私も客なんだけど…。
ああ、そうでしたね、忘れておりました。でも、病み上がりの女性の部屋に入り込む人をお客さんと呼んで良いものかどうか…。
まあ、私なりに心配だったのさ。
そそくさと立ち上がって七右衛門は部屋を出て行った。
さて、邪魔者もいなくなりましたし、準備をしてきますね。結衣島さんはここで外でも見て待っていてください。
外ですか?
ええ。こんな良い日なんですもの。
そう言いながら、千代子がゆっくりと長障子に近寄った。
うちの自慢なんですよ。
障子に手をかけると劇場の幕が開くようにそっと引いてゆく。障子を追う様に陽の帯が現れて畳の上から布団と彼女の身体を走ってゆく。
眩しい…。
布団に反射した光に思わず目を瞑る。
こんなに天気の良い日なの。待っている間にゆっくりみていてね。
目が慣れてきてそちらへ視線を向けた時だった。
雄大な恵那の山並みが眼前いっぱいに飛び込んできた。
群青の、雲ひとつない、澄み渡る晴天。
連なる山々の山肌はところどころ木々が葉を落としてまだら模様であっても、威厳を失わず凛と聳えていた。
布団の上にぽたりと雫が落ちた。
きれい…。
声を震わせて呟くと、結衣島はじっと景色を見つめていた。
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