魔物日誌<モンスターレポート>

小屋野ハンナ

プロローグ

 ブライアン伍長は困っていた。

 本来なら、伍長は非番だった。

 先日ようやく、昇格を機に2年付き合ってきた愛しのサビナ嬢へ婚約を申し込んだばかりの彼は、そのサビナ嬢と二人きりで今日の公募試合を見学する予定だった。

 毎年大勢の観客が訪れるこの公募試合の舞台は、一般兵卒がその見学席を確保することは中々に困難で、それこそ大金を積まなければ入ることすら叶わないのだが、先日の昇格により「警備という名目」で、ある程度の出入りが可能になったのだった。

 だが、担当だったメリルズ三等兵にお子さんが産まれそうだという事態のため、急遽、交代となったのが今日の仕事である。


 ―なに、公募試合は明日もあるし、上司に恩を売る機会だ。


 そんな軽い気持ちで引き受けた仕事だった。


 ブライアン伍長の実家は商家で、その生業の出自であれば当然のことではあるが、共通語の読み書きは出来ていた。

 ただその頭脳よりも肉体を使う方が、次男であるブライアン伍長には向いていたため、跡目争いを起こすこともなく、すんなりと商売業から退き、兵卒としてこの自由都市で働く道を選んだ。

 同じ兵卒連中は冒険者の叩き上げだったり、何かと教養のない者が多かったため、商家出身の割に頑丈なブライアン伍長は、これまたすんなりと昇格した。

 そして勿論、今日の晴れの日を上司のために交代したのも、そんな元商家の打算があったからだった。

 公募試合専用門の警護兼受付補助。

 しかもその門は滅多に利用する者のいない裏門という触れ込みで、楽な仕事な上、この後の試合に出場する者たちの名前や風体が先に分かるというのは、明日も続くその試合の結果を予想する楽しみを生むものですらあったのだった。


 だが、ブライアン伍長は困っていた。


 ―いや、どうすればいいんだ、これは。こんなことで上長を呼ぶのも気が引ける…。


 公募試合の受付は、非常に簡単な仕組みになっていた。

 参加したい者は、特殊な羊皮紙に名前を記入するだけ、だ。

 その羊皮紙には既に魔術式が仕込まれており、適正があれば通され、その資格なき者は書いた名前がその場で消えてしまう。

 名前が呼ばれなければそれまで、というそんな仕組みだ。


 ブライアン伍長に手渡された羊皮紙には、確かに字と思われるものが書いてあった。いや、描いてあったというべきだろうか。

 非常に癖が強い字。読むのが躊躇われる程に、それは解読が困難だった。


 商家というのは実に様々な相手と取引をする。

 そのお陰あって、今この目の前にいる少年が、南方系の出身者だとは分かっていた。

 少し暗めの髪色に、同じような暗めの、それでいて透き通るような灰色の瞳。その虹彩に入る模様の特徴。

 だからこの文字も、南方故の癖字なのかもしれない、そうは思ってはみるが、読めない事には先に進めない。


 羊皮紙に書かれたその名前が消えていない以上、これを書いた者には公募試合を受ける資格があり、その名を読み上げてから奥へ通さなければならないのだから。


 ―いっそ、そのまま通してしまおうか…。


 とは言え、名前を呼ばれぬ者が通された、と言う事が知れれば、自分の不正が疑われてしまう。

 たったそれだけのことで、今の地位を追われるのは割に合わない。

 この門の受付を担当しているのは自分と、雇われの商人の二人。

 それに本来なら賢者省から文官が来るはずなのだが一向に現れる気配がない。


 ―賢者省のお偉い方は一体何をやっているのだ!


 歴代この門では問題が起きないということで最も少人数の配置であるが故に、楽な門番を気取っていたブライアン伍長の、本日最大の問題が訪れていたのだった。

 だがそこで初めてブライアン伍長は気付く。


 ―この癖のある字を書いた本人に読んでもらえばいいじゃないか!


 読めないなら、読める人間に読ませればいい。それを真似してこちらが呼べば良いだけだ。

 しかも本人なら間違いないだろう、と。


「えっと、その、君が書いた字が、その、ちょっと芸術的過ぎて読めないんだ。何て呼べばいいんだい?」


 ブライアン伍長の一日は、まだ始まったばかりだった。

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