第4話 頂上の景色

 歩き始める前にトイレぐらいは済ましておこうと、登山道横の公衆トイレに入った。

 少し古く錆が浮いているような汚いトイレでも何も感じなくなっている。釣りをしている時に知っていた。綺麗なトイレがいつでもどこにでもあるわけではない。もしもこのトイレが外で使う初めてのトイレだったなら、登山はこの場所、この入り口の時点で終わっていた事だろう。今では肩にかけている釣竿が煩わしいだけだが、別の「趣味」という入り口の道標だというのならば、快く受け取ることにした。


 用を済ましたなずなは、経路に沿って歩いて、近くにあるらしい鉢伏山の頂上を目指すことにした。

 公衆トイレを出てすぐの階段を上がると「鉢伏山」と書かれた案内板が目に入ってきた。周りは平で広場のように整備され、ベンチや植栽など、半ば街にある行政の法律に則って作られた面白みもなんともない公園のような場所だった。なんとなくこの辺りが山頂なのかと思い、登ったのだという実感もなかった。

 さっき見た案内板を改めて見に戻り、鉢伏山の頂上で感じた気持ちを仕切り直してから旗振山へ歩き出した。

 頂上の広場から降旗山への道なりは、そのほとんどが下りであった。なずなは山を登っているのに坂を下る不思議な感覚を知った。

 刺すような陽の光を肌に受け、必死に日焼け止めクリームを使っていた時のことを思い浮かべ、地面に落ちた木洩れ日を眺める。森林浴とはよく言ったものだ。小さな木洩れ日を何かを確かめるように踏みしめる。

 少し色あせた藍色のサファリハットのつばを親指と人差し指で軽くつまみ、そろそろこの帽子ともお別れかなと呟いて歩を進める。

 山を下っていても歩くことを楽しんでいることに気付いたのは、そんな時だった。



 鉢伏山を含む六甲山地は鉢伏山から起点に、宝塚市の岩倉山を終点とし全長約40キロメートルの連山となっており、日本でも有数の登山スポットである。六甲最高峰と呼ばれる地点も標高1000メートルを下回る低山で、六甲山地に含まれるその多くの山を尾根伝いに踏破することができる。降旗山への道なりも起伏の少ない稜線を歩くことが出き、登山初心者のなずなにとっても簡単に縦走が可能な山である。

 もちろん、そんなことを露とも知らないなずなは、時々出てくる大きな登り坂とそれに続く長い階段を見て、深く息を吐く。均一でいて、どれだけ楽に人を高いところに歩かせるかを追及された町中にある階段は山の中には存在しない。あるのは階段の形をした段差だけ。蹴上の高さはバラバラで、踏み面も土が削られ足の置き場に困ってしまう程だ。

 初めての山道となれない階段たちを歩いると、陽の光が強くなっていて、木々がひらけている場所が見えた。

 少し前を歩く人の会話を盗み聞いて、旗振山の山頂だと分かった。

 なずなは歩みを止め、口を大きく開き深呼吸をする。疲れで強張っていた頬が少し緩み、また歩き出す。

「旗振山 標高253米」

 そう彫られた石が真っ先に目に入り、ポケットに入れていたスマートフォンを取り出し写真を撮る。

 鼻の頭に滲む汗と、顎を滴る汗をカバンに入れていたタオルで拭い、サファリハットを脱いで髪を軽く搔き上げ、左手の展望に気付く。明石海峡大橋の先には淡路島がみえた。海の上からずっと見ていた風景とは全く違うものだった。

 風が汗で濡れたなずなの髪を吹き上げる。磯の臭いはもうしない。

 代わりに今まで歩いてきた土が微かに感じられる。

 山に登った。自分の足で。

 それは今まで感じたことのない多幸感だった。

 歩いてきた道のり、振り返ってきた景色、それらすべてがなずなを惹きつけた。

 ベンチに座り、風景を楽しんだなずなは、そろそろ出発しようかと考え、この先の道のりを思い出す。

 今はお昼を少し過ぎた頃。汗を拭ったタオルを鞄に仕舞い考える。

 時間はまだある。もう少しゆっくりしていても大丈夫だろう。

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