41.新学期

 四月になり、高校生になってから三度目の春を迎えた。気温も徐々に上がってきていることから、親水公園で朝のジョギングをする人も増えてきた。毎日この道を通って登校しているからすれ違う人たちとはみんな顔馴染みの仲になった。おじさんたちとあいさつを交わしながら歩いていく。

 今日は始業式とクラス替えがある。といっても3年生は必然的に受験に向けて文理分かれたクラスになるから、ある程度は同じクラスになるメンバーが想像できる。

 受験……。今の俺にとっては一番聞きたくない言葉だ。でも2年生の終わりに文系の大学に進むか理系の大学に進むかの進路調査票を提出しないといけなかったから、まだ志望校なんて決めていなかったけどひとまず文系の方に丸をつけた。理系科目よりは比較的点数が取れるからっていうなんとも怠けた理由だけど。

 はぁ、遂に受験イヤーか。嫌だなぁ。なんて下を向きながら歩いていると、一枚、二枚、三枚と視界の中を左から右へひらひらと舞い落ちていくピンク色の花びらに目が留まった。その場に立ち止まって見上げると、そこには満開の桜並木があった。歩道として整備された道の両脇には等間隔に並べられた桜の木々があり、そこから伸びる幹は高く、先にいくにつれて徐々に細くなり、無数に枝分かれしていった先からは淡いピンク色の花弁が顔を覗かせ、空一面を覆い尽くすほど頭上いっぱいに咲き乱れている。まるで桜でできたトンネルの中にいる感覚だ。

 毎日通い慣れた通学路を歩いていたつもりだったけど、道でも間違えたのだろうか。不思議に思い立ち止まって辺りを見回してみるけど、そこにはいつも通り自分と同じ制服を着た生徒たちがいて、登校中に会った友達としゃべりながら同じ方向に向かって歩いている。みんなの行き先を目で追うと、そこには確かに校門が見えた。見慣れている校門だ。そこでやっと自分が今学校前の道にいるのだと分かった。

 でもなぜだろう、今見えている景色がいつもとは違った景色に見えた。いや、今までちゃんと見ていなかっただけなのかもしれない。特にここ二年間は登校初日に連続で寝坊してしまい、猛ダッシュで登校したのを覚えている。それでハルと遭遇して、一緒にこの道を駆け抜けた。初日から遅刻はまずいと思って走るのに夢中だったから全然気づかなかったけど、あの時もこんな光景が広がっていたんだろうな。

 少しの間、長く続く桜のアーチを見上げていたら後ろから声がした。

「おーい! しゅーん!」

 カバンを肩に担いで走ってくるのが一人。

「おはよう、ハル」

「おはよう」

 ニコッと笑う。

「どうしたんだよ、上なんか見上げて。まさか――」

 慌てて両手を双眼鏡の形につくったと思えばなにかを探すように空を見上げてキョロキョロする。

「なにしてんの?」

「いや、UFOでも出たのかと思って」

「そんなわけないじゃん。ほら、行こう」

 上空にあろうはずもない物体を探し続けるハルの手を引っ張っていく。さすがに観念したのかハルは捜索をやめた。

「そういえば、今年は遅刻しなかったんだね」

「瞬、なに言ってんだよ。俺ももう3年生だぞ。遅刻なんてするわけないだろ」

 また調子のいいことを。二年連続で初日に遅刻したヤツがよく言うぜ。俺が言えた義理じゃないけど。でもハルの顔にはなぜか自信が満ち溢れていた。

 校門に差しかかると今日も門の前で元気よく生徒たちを迎え入れている本田先生の姿が見えた。先生も俺たちに気づいたらしく、巨体から更に手を挙げて俺たちに手を振ってくる。さすがバレー部の顧問というだけあってとんでもない高さだ。少し遠目からだったけど俺たちも『おはようございます!』と大声で応戦した。

「おはよう。桜庭、瀬尾。今年は遅刻しなかったな」

「俺たちもう3年生ですよ。先生までそんなこと言わないでくださいよ」

 先生がせっかく褒めてくれたのに、ハルはそう言うと澄ました顔でスタスタと行ってしまった。「どうしたんだ、アイツ」という先生のジェスチャーに、俺は「さぁ」とポーズを返すことしかできなかった。俺だって成長してるんですアピールかな? 俺と先生はおかしくて笑った。



 始業式やホームルームが午前中に終わると午後からは早速練習に入る。といっても春休み中も毎日練習漬けの日々だったから、学校が始まった以外はなんら変わりはない。

「そこ! もっと速く走れるだろ! 手を抜くな!」

 今日もコート上に監督の怒号が響き渡る。

 練習の最後に行うラインタッチは超きつい。二年間やり続けてはきたけどこれだけは未だに慣れないものだ。これまで五時間も打って走って、途中では振り回しなんかもあったからもうヘトヘトの状態だけど、最後に更に追い込みをかける。言わずもがなこの地獄のようなきつい練習が吹野崎流だ。

「ラスト1セット!」

『はい!』

 でも特に3年生からは各々ものすごい気迫を感じる。目つきからもみんな十二分に気合いが入っているのが見て取れる。残された日数がもうあとわずかしかないってみんな分かっているから、一日一日を無駄にしないように、少しでも強くなろうと必死なんだ。

 ピッ!

 監督の笛の合図で一斉に走り出す。限界だと悲鳴を上げている体に最後の鞭を打つ。

 ザザァー。

 横なんて見ない。誰に勝って誰に負けているとかは関係ない。己に勝てるかどうかが試されている。俺たちは知っている。己の限界を突破することが強くなるということだと。

 最後の直線。たった10メートルといえど手は抜かない。全力で最後まで走り抜ける。それが今の俺にできる唯一のことだから。

 最後のラインまで全力で走りきり、足を止めて肺を大きく伸縮させる。呼吸はままならないけど達成感は確かに感じられた。よしっ、今日もやりきったぞ!



 入学式から一週間もすると部活の見学期間も終わり入部希望者が殺到する。男子テニス部は毎年十人弱が入部してくるけど、今年はなんと十五人と多い年になった。去年選抜戦へ初出場したことや、その他の大会でも着実に結果を残していることが入部希望者の増加につながったのかもしれない。女子の方も今年は多いみたいだ。

 今日は新入生も含めた最初の練習ということで、男女のキャプテンである俺と光野から部の方針や目標を説明することになっている。不動先輩や金子先輩もやってきたことだ。先輩たちの顔に泥を塗らないよう、ここは気を引き締めて臨まないと。

 俺たち2、3年生は新入生と対峙するように並び、俺と光野が列から一歩前へ出る。

「新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。そしてテニス部へ入部していただきありがとうございます。私は男子テニス部キャプテンの桜庭です」

「女子テニス部キャプテンの光野です」

 二人で頭を下げ、1年生たちもそれに応える。

「まずは男子テニス部の紹介をします。現在部員は――」

 みんな期待や希望に満ちた輝かしい目で真剣に話を聞いてくれている。俺も二年前はこんな感じだったのかな。話しながらだったけど過去を思い出して懐かしくなった。

「最後に今年の目標ですが、私たちの目標は全国です」

 1年生は驚いた顔を見せる者が多かった。そりゃそうだ。俺たちだって最初はそうだったから。でも今では2、3年生で驚く者は一人もいない。それはきっと金子先輩が全国を目標に掲げたあの時から全員の意識が一つになり、それを今のチームもしっかりと引き継いでいるからだ。今更驚くものでもないし、不可能だとも思っていない。

「でも――」

 俺がみんな――これは2、3年生も含めて――に伝えたいことは別にある。全国へ行くことよりなによりも、これを一番大切にしたい。

「まずは『テニスを楽しむこと』。これを第一の目標にしたいと思います」

 これには後ろの2、3年生も少しざわついた。でもハルだけは俺に向かって親指を立ててニコッと笑ってくれた。

 テニスを楽しむこと。俺の自己満かもしれないけど、俺があの時ハルから言われて気づいたことはとても大切なことだと思っている。だから俺の掲げた目標の意図が少しでも多くの人に伝わってくれれば、それだけで十分だ。

「では次に女子――」

 交代で光野がみんなの前で話し始める。あれだけ大勢を前にしても何一つ物怖じすることなく堂々と話す姿はさすがだった。

 男女それぞれの方針を言い終えると、タイミングよく監督がコートに入ってきた。案の定、監督の姿を見て新入生は全員恐れおののいている。無理もない。最初は監督のいかにも怖そうな風貌に誰しも驚くものだ。

 監督からは毎年恒例の自己紹介兼目標宣言が新入生たちに課された。いきなりのことで上手く話せない者や恐怖で目が泳ぐ者もいたけど、今年も何人かは「全国へ行きたいです」と宣言する者がいた。二年前はハルが、去年は土門が同じことを言っていた。その二人は今やチームの中心的存在だ。だから今同じことを言った彼らもきっとこれからの吹野崎を強くしていってくれるはずだ。キャプテンとしては頼もしい限りだ。

 でも中には高校からテニスを始める者もいた。俺のように。そんな子たちにはキャプテンである俺と光野が基礎から教えることになっている。自己紹介兼目標宣言が終わり早速練習が始まると、そっちは副キャプテンの南に任せて俺たちは初心者の子たちをコートの外に集めた。

 今年の初心者は男子三人、女子三人の合計六人。俺たちの時は合計四人だったから二人も多くて羨ましい。それだけ苦労を共有できる人が多いってことだから。

 コートでは既に球出し練習が始まっていて、初心者の子たちは羨望のまなざしを向けている。

「大丈夫。みんなもあれくらいすぐに打てるようになるよ」

 そう言うとみんな笑顔で頷いてくれた。

「それじゃあまずはラケットの持ち方から教えていくよ」

 俺も高校からテニスを始めた身だ。小学生の頃からやっているヤツと比べたら教えられることに限界があるかもしれないけど、逆に高校から始めた俺だからこそ教えてあげられることもあるはずだ。初めての子にはどう伝えれば分かりやすいか、そして不動先輩はどうしてくれたか。必死に考えを巡らし、記憶を遡る。確か不動先輩はこうやってスイングしている子の後ろに回り込んで、ラケットを持つ手を握って一緒に振ってくれたっけな。なんだか懐かしい。俺も最初はこうして手取り足取り教えてもらっていたけど、最初はラケットにボールなんて当たらなかったな。

 あれから二年も経ったんだ。果たして俺は今、あの時思い描いていた自分になれているのだろうか。

 後輩の指導をしながらそんなことを考えていた。なんか変なタイミングで3年生になったんだなって自覚してしまった。でも、俺がこうしてテニスを楽しく続けていられるのは先輩たちや同期のみんなのお陰だ。だから俺も先輩たちから手渡された伝承のバトンを持つ者としてしっかり役目を果たさねば。

 ラケットの持ち方、振り方、振る時の体の使い方、目線、体重移動……。一通り教えたところで球出し練習に移る。まずは手出しから。

「すまんが光野、そっちの列の手出しを頼む」

「分かったわ」

 六人をベースラインの後ろに二列ずつ並ばせた。

「いいかい。最初は空振りもするし、ネットもアウトもたくさんする。だけど数を打つことが上手くなるための近道だ。だからコートに入らなくてもめげずに打ち続けること。いいね?」

『はい!』

 うん、いい返事だ。みんなから燃え盛る闘志をまじまじと感じる。それにつられてこっちも指導に熱が入る。

「それじゃあいくぞ」

「お願いします!」

 先頭の男子が元気よくベースラインに出てきた。初球は……バコーンと特大ホームランが飛び出した。雲一つない空に黄色い飛行機雲が一瞬だけかかった。ボールはそのまま向かいのフェンスまで飛んでいき、ガシャンと音を立ててその場に落下した。

 おー、随分飛ばすなぁ。ってあれ? そういえば俺も同じようなことしたような……

「テニスを始めた頃の桜庭くんにそっくりね。ふふふ」

 隣で手出しをしている光野に密かに笑われてしまった。俺も全く同じことを思っていたからぐうの音も出ない。

「ほ、ほら、二球目いくぞ」

「はい!」

 空振り。

「三球目」

 またまたホームラン。

「よし、交替だ」

 その子は分かりやすく肩をガクンと落としながら列の最後尾に並んだ。俺はその子が初球でホームランをぶちかましたことがなんだか他人事にできず、つい口が開いていた。

「佐々木だっけ?」

 佐々木は顔を上げて「はい……」と、打つ前とは比べ物にならないほど非力な声を返してきた。

「そんなに落ち込むなよ。最初は誰だってああなるもんさ。見てみろよ、あれ」

 フェンスの頂上に挟まっているボールを指差す。他のみんなも俺が示した方向を見上げる。

「あれ、二年前に俺がやったんだ」

「えっ? キャプテンがですか?」

 そうだ、と自分でもなぜか自慢げに頷いてしまった。すかさず隣の光野から冷たい視線を送られる。

「ゴホン! えーと、だから……気にするなってことだ。最初から上手く打てるヤツなんていない。たくさん努力を重ねて、やっと少しづつ上手くなっていくんだ。分かったか?」

「はい!」

 どうやら元気を取り戻してくれたみたいだ。自虐ネタを使っただけのことはあったかな。にしてもフェンスの頂上付近に挟まったあのボール、まだ取れていなかったのか。二年間も挟まり続けることになるとは。まさかこの先もずっと取れずに「フェンスの頂上にボールを挟んだ人」なんていう不名誉な肩書きで呼ばれるなんてことに……

「たくさん努力を重ねて、やっと少しづつ上手くなっていく、ね」

 不意に光野が呟いた。

「桜庭くん、いいこと言うじゃない。私ももっとがんばらないとな」

 そう言って光野は手出しを再開した。俺も光野に続いた。

 さっきは偉そうなことを言ってしまったけど、これは自分自身にも言えることだ。強くなるにはまだまだ努力は必要だ。だから練習は残り少ないけど一球でも多くボールを打つ。少しでも大きな声を出す。そして最後まで走り抜く。それが今の俺にできることだ。

 その後は何度か繰り返しているうちに佐々木にもナイスショットが出るようになった。本人もすごい喜んでいた。俺も最初の頃は一球でもいいショットが決まれば飛び跳ねるくらい嬉しかったし、今でもその喜びは覚えている。佐々木もきっとあの時の俺と同じ気持ちなんだろうなと思いながら、「がんばれよ」と心の中で呟いた。

 その日の練習終わりに佐々木が俺の元に来た。

「テニスって楽しいですね! 俺、これからたくさん練習して、きっとキャプテンみたいな選手になってみせます!」

 佐々木はそう言うとすぐに片づけへ戻っていった。俺は恥ずかしくもあり、でも誇らしい気持ちになった。

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