14.ハルの物語

 夜行バスを降りてグーっと一つ伸びをする。朝八時の太陽を全身に浴びて体内時計を調節する。

 ふぁーあ、チョーねみぃ。でもやっと着いたぜ、福岡!

 福岡は東京よりあったかいな。あっちじゃ十一月といったらもう冬だし、長袖の上にパーカー、ダウンって着ないと寒さで凍え死にそうだけど、ここではダウンを着なくても大丈夫そうだ。今日があったかいだけなのかな。

 運転手さんがトランクから荷物を一つずつ取り出しているのを見て自分のものを取りに行く。

「あっ、それ俺のです」

「はいよ。兄ちゃん一人かい? 珍しいね」

「まぁ。ありがとうございます」

 遠く福岡まで来たっていうのに荷物はボストンバッグ一つのみ。しかも中身はそれほど入ってない。入っているのはテニスウェアにシューズにボールに、それからラケット。長居するつもりはない。明日は学校だし。

 リュックじゃなくてボストンバッグにしたのはラケットが入るから。といってもラケットの方がちょっとだけ長いからグリップの先端がバッグから少しはみ出ちゃってるけど。ならラケバの方が大きいしリュックみたいに背負えるからそっちの方がいいじゃんって思うかもしれないけど、別に試合で遠征に来ているわけじゃないし、なにより急いでいたから近くにあったボストンバッグを選んだだけ。大した理由じゃない。

 東京から福岡までは夜行バスで十四時間。これがチョー長くてチョーきつかった。バスの中で寝られるから大丈夫か、って思っていたけど夜行バスはそんなに甘いもんじゃなかった。寝心地は最悪。座ったまま寝るとか今までやったことなかったから全然寝つけなかった。あっ、授業中の居眠りは別な。あれは前に机があるから突っ伏せられるし、数学の公式とか聞いてるだけでなんだか眠たくなってくるんだよな。まぁそれは置いといて、後ろの座席の人にオッケーもらったからリクライニングで少し後ろに倒せたけど、シートは硬いし頭はカーブで左右に揺れるしで寝心地が悪いのには変わりなかった。結局浅い眠りに何度か落ちただけで全体の睡眠時間は合計で三時間くらい。それ以外は暇で暇でしょうがなかった。眠いんだけど寝れないっていうか、ホントもう地獄。帰りもこれに乗るって考えただけで発狂しそうになる。夜行バスなめてたよ。次に乗る時があったら絶対バスグッズ買っておこう。

 カバンから一枚のハガキを取り出す。差出人は『藤野千秋』。アキが福岡に引っ越してから一ヶ月後くらいに俺に送ってきてくれたものだ。ハガキの裏には近所の風景なのか大きな川が写っている。とてもいい景色だ。

 ひとまずこのハガキに書いてある住所を目指すとするか。でもこの『そうぞう・・・・市』っていうのにはどうやって行けばいいんだ?



「ただいまー」

「あら、おかえり春人。今日は早かったのね」

 夕飯の支度中だったのかエプロン姿にお玉を持った母ちゃんが出てきた。

「明日試合だからね。早めに練習終わったんだ」

 母ちゃんのエプロンには真ん中にクマさんの顔がドーンってある。俺が小学生の時に家庭科の授業でつくったものなんだけど、それを未だに使っている。みっともないから替えろって言ってんのにかれこれ五年は持っている。物持ちだけはいいんだよな。

「ちょうどよかったわ。今ご飯できたけどもう食べちゃう? それとも後でお父ちゃんと一緒に食べる?」

「んー。今日は早く寝たいし、先食べちゃうわ。あっ、でもその前に風呂だけ入ってくる」

「了解」

 ふっふふー、と母ちゃんは鼻歌を歌いながら台所へ戻っていった。なにかいいことでもあったのか?

 俺は二階の自室へ荷物を置きに行き、烏の行水の如くササッと風呂に入った。風呂から出ると髪を乾かすのもほどほどに、早速キッチンへ向かった。もう腹が限界だった。

「春人、自分でご飯よそってちょうだい」

「へーい」

 いつも通り大盛りっと。マンガに出てくる飯みたいだな。

「おかずも運んでちょうだい」

「へいへーい。母ちゃんのは?」

「私はお父ちゃんと一緒に食べるよ」

「分かった」

 まだ六時だけど成長期の少年の腹には時間なんて関係ない。いつでも大盛りバッチコイだ。

「いっただっきまーす」

「はい、召し上がれ」

 母ちゃんはお茶を手にしながら俺の前に座った。

「いつもそんなに食べているのに栄養はどこへ行っているのかしらねぇ。アンタまたテストの結果悪かったんだって? 少しは勉強もしなさいよ」

 ギクッ! 隠してたのになんでいつも母ちゃんは知ってるんだよ。学校に電話でもしてるのか?

「栄養はちゃんと体に行き届いてるって」

 筋肉の方にだけどね。

「脳にも届けなさいって言ってるの」

 キッ、と睨まれた。母ちゃんにごまかしは効かなかったか。

「あっ、そうそう!」

 母ちゃんが急に嬉しそうな顔をして話題を変えた。よかった、これ以上追及されずに済む。

「今日久しぶりにアキちゃんのお母さんから電話があったのよ!」

「アキの母ちゃんから?」

「そう! ほら、高校上がる前に福岡へ引っ越しちゃったでしょ。その前に一度うちに寄ってくれたんだけどそれ以来だったから。母ちゃん嬉しかったわ」

 うちの母ちゃんはアキの母ちゃんと仲がよかった。まぁ俺たちが小中って一緒にテニスしてたから母ちゃん同士も顔を合わせることが多かった。特に俺とアキはペアだったし、母ちゃんたちからしたらどっちもがんばれって感じだったと思う。アキん家にもよく遊びに行っていたから俺もアキの母ちゃんにはお世話になった。

 だからアキの親父さんが亡くなった時はうちの母ちゃんも自分のことのように悲しんでいたし、俺もつらかった。ホントに突然だったから。葬式にも行かせてもらったけど親父さんが死んだなんて考えられなかったし、身近な人が死ぬのなんて初めてだったからとてもショックだった。棺の中の親父さんの顔を見た時は嫌でも涙が溢れてきた。だって遺影の中の親父さんは笑っているのに棺の中では……

 アキは偉かった。参列に来た人たち全員に深々と頭を下げていた。その光景は今でも脳裏に焼きついている。

「母ちゃんたち仲よかったもんね」

「うん。今度アキちゃんのお母さんが東京に来た時はランチしようって約束しちゃった」

「へぇ、いいね!」

 ホントに母ちゃん嬉しそう。

「アキは元気にしてるって?」

 俺がそう言った途端、さっきまで嬉しそうに話していた母ちゃんが目を大きく見開いて、驚いたって顔をした。

「……アンタなにも聞いてないの?」

「なにが?」

 なにも聞いてないって、一体なんのことだ? アキになんかあったのか?

「アキちゃん、テニスやめるらしいわよ」

 母ちゃんがなにを言っているのか最初は分からなかった。俺の聞き間違えか? アキがテニスをやめる? いやいやそんなバカな。だって――

「なに言ってんだよ母ちゃん。アキがテニスをやめるはずないだろ」

 冗談かと思って笑ってしまった。

「今だってアイツは福岡泰山高校のレギュラー目指してがんばって練習してるはずだぜ。それがやめるだなんて」

「でもアキちゃんのお母さんから言われたんだもの。今は練習にも全然行ってないって――」

「嘘だ!」

 バンッと勢いで机を叩いてしまった。母ちゃんの前にあった湯のみが倒れてお茶が机に広がっていく。「あーあ」と言いながら母ちゃんは台所へ布巾を取りに行ったけど、罪の意識なんてないくらい俺の頭は真っ白だった。

 アキがテニスをやめる? 嘘だよな? 嘘だって言ってくれよ、アキ。だって俺たち〝約束〟したじゃないか。全国で会おうって!

「俺、聞いてないぞ。……なんでだよ。なんでアキがテニスやめるんだよ!」

 わけもなく母ちゃんに八つ当たりしてしまった。でもこの怒りとも悲しみとも言えぬ感情を吐き出さずにはいられなかった。

「知らないわよ。アンタこそ連絡取り合ったりしてないの?」

 取ってきた布巾で母ちゃんは水浸しになった机を拭いていく。

 連絡なんてしていない。しようとも思わなかった。「全国で会おう」という〝約束〟をしてから、俺はどんなにつらいことがあってもそれを乗り越えることができた。アキもがんばってるんだって思えたから。連絡なんてしなくても俺たちはテニスでつながっている。そしてその先には俺たちの〝約束〟がある。そう思えたから。

 でもアキはそうじゃなかったってことなのか? 俺の知らないところで苦しんでいたってことなのか? それなら相談くらいしてくれたっていいじゃないか。それとも、俺はアキの中でその程度の存在だったのか? 小学校から一緒にテニスをやってきて、小中合わせて四年間もペアを組んできて、俺はお前のこと親友だって思ってたのに。アキは俺のこと、同じように思ってくれていなかったのか? 相談すらできないような存在だったのか?

「アキちゃんのお母さんが言うには今度の大会のメンバーに選ばれなかったんだって。それだけがやめる原因じゃないでしょうけど」

 今度の大会……って私学大会じゃないか。福岡泰山は全国でも指折りの超強豪校だ。そりゃいくら上手いアキでもレギュラーになれないことだってあるだろうよ。でも、それでやめるっておかしくないか? まだ1年なわけだし、これから必死に練習すればレギュラーになれるチャンスはいくらでもあるはずだ。親父さんが亡くなった時にあんなに強かったアキがそんなことでやめるはずがない。俺にはそうとしか思えなかった。

 俺は持っていた箸を机に置き、一目散に階段を駆け上がった。自室に戻ってスマホから充電コードを引っこ抜き、アキに電話をかける。

 プーッ。プーッ。プーッ。

 つながらない。クソッ!

 俺はなにもできないのか? アキが苦しんでいる時になにもしてやれないのか?

 一年前、アキが福岡へ行くって聞いた時、俺は悲しみのどん底にいた。そこから救い出してくれたのは他でもないアキだ。アキはあの時、『俺のためにテニス続けてくれよ』って言ってくれた。俺もテニスを続ける理由なんてそれだけで十分だと思った。俺が今テニスを続けられているのはアキのお陰だ。そんなアキに俺はなにもしてやれないのか?

 そんなの嫌だ! アキが俺のことどう思ってるかは知らねぇけど、俺はアキのこと、親友だって思ってる。だからこうしちゃいられない。福岡へ行こう。行って直接アキに会う!

 そうと決まれば早速荷造りだ。テニス用具は持っていくか悩んだけど、アキと会うのにこれがないのは変な感じがしたから持っていくことにした。視界に入ったボストンバッグに思いついたものから入れていく。交通手段は全く考えてなかったけど、新幹線は高そうだし、パッと頭に浮かんだのが夜行バスだった。それならお年玉の余りでも行けそうだ。

 特に買いたいものもなかったから貯めておいたお年玉を根こそぎ掴み、準備もそこそこに部屋を飛び出した。階段を駆け下りて玄関へ向かうと、なにごとか、と母ちゃんが慌ててリビングから出てきた。

「アンタそんな荷物持ってどこ行くの?」

「福岡」

 靴ひもを結びながら答える。

「福岡!? 明日試合なんじゃないの? それにどうやって福岡まで行くのよ? お金は?」

「監督には俺から連絡しておく。福岡までは夜行バスで行くよ。貯めておいたお年玉あるから」

 はぁ、と大きなため息が聞こえた。でも母ちゃんになんて言われようと俺は福岡へ行く。そう決めたんだ。

「ちょっと待ってなさい」

 そう言うと母ちゃんは二階へと上がっていった。もう靴ひも結び終わっちゃったし、早くしてほしいんだけどな。

 一分後、階段を下りてきた母ちゃんの手には一つの封筒があった。

「はい、これ。気をつけるのよ」

 受け取った中身を見ると、なんとお金が入っていた。母ちゃん……

「ありがとう。行ってきます!」



 道行く人にこの住所まではどうやって行ったらいいのか聞いたら、これは『むなかた・・・・市』と読むらしい。漢字で書くと『宗像』。俺に読めるはずもない。

 宗像まではここから電車で三十分くらいと言われた。時間も限られていることだし、観光なんてそっちのけで電車に飛び乗った。

 博多の市街地から風景がだんだんと移り変わっていく。福岡も東京とあまり変わらないんだなって来てみて思った。中心地は人も多いしビルも高いけど、少し離れれば自然も多くなってくる。東京も新宿とかの方はやっぱり都会だなって感じるけど、少し郊外へ出れば自然もあるし、俺ん家の周りなんて東京って感じは全くしない。住みやすいから俺は気に入ってるけどね。

 車窓からテニスコートがチラッと見えた。コートでは二つのユニフォームがネットを挟んで試合をしていて、その周りではチームメイトが応援している。団体戦をやっていることはすぐに分かった。本当だったら俺も今頃は私学大会の団体戦を戦っているはずだった。でも個人的な理由でここ福岡まで来ている。みんなに迷惑をかけていることは百も承知している。それでもこっちを優先させたのは、アキが俺にとってかけがえのない存在だからだ。アイツがテニスをやめちまったら俺もテニスをやっていく意味がなくなる。アキの問題を解決しないと俺は不安で不安でテニスどころじゃない。試合だってきっと集中できずに中途半端なプレーをして、チームの足を引っ張ってしまうかもしれない。それだけは嫌だった。チームに迷惑をかけるくらいなら、中途半端な気持ちで試合に出るよりいっそ闘争心溢れる誰かに託した方がいい。その間に俺は俺自身の問題をしっかり解決して帰るんだ。

 ポケットの中のスマホが振動している。見てみると優里からだった。

『急に試合休むって聞いたけど大丈夫? 熱あるの? 風邪? お見舞い行こうか?』

 優しいな。俺のこと心配してくれてるのかな。

『俺は大丈夫。病気でもなんでもないから安心して。ただ今は理由を言えない。帰ったら話す。それよりせっかくレギュラーに選ばれたんだ。がんばれよ。優里ならできる!』

 これでいいかな。俺文章力ないし、話せば長くなるからメールじゃ本当の気持ちは伝えられないと思った。こういう時に文章力があればなぁ。

 試合を休むことは昨日バスの出発を待っていた時間に監督へ電話で伝えた。アキの存在や今アイツがテニスをやめようとしていること、この問題を解決しないと俺も先へは進めないこと、なにも包み隠さず正直に全部話した。監督は「分かった」とだけ言ったけど、帰ったらきっと怒られるんだろうな。でもそれは覚悟の上だ。みんなにもちゃんと謝らないとな。

「東郷。東郷」

 あっ、この駅だ。

 慌てて降りる。周りを見てみると……田舎の駅って感じがする。ホームが細長く伸びていて、屋根は特になく、ベンチがポツポツとあるような駅だ。人生でもう二度と来ないだろうから写真を一枚パシャリ。

 ハガキの住所をスマホの地図アプリに打ち込んで経路を検索する。……出た。ここから歩いて八分か。道もそんなに複雑じゃなさそうだし、これなら方向音痴の俺でも迷わず行けそうだ。

 街の方へ出てみると駅で感じた田舎っぽさはなくて、マンションもあるし、公園もあるし、普通の住宅街だった。俺の家の周りとなんら変わりない。いいところだな。

 途中、少し不安になってすれ違ったおばちゃんに道を尋ねた。九州弁なのか福岡弁なのか少し聞き取りにくいところはあったけど、俺が理解するまで優しく教えてくれるいい人だった。おばちゃん曰く、俺は少しだけ道から外れていたみたい。聞いておいてよかった。もう少し聞くのが遅かったら絶対迷っていたな。現代の技術をもってしても道に迷うとは、恐ろしや俺の方向音痴力。

 予定より二分遅れて目的の住所に着いた。二階建ての一軒家。屋根は赤く、壁はベージュ色をしている。外観はちょっと古臭いけどうちと似ている。

 表札には元々据えつけられていたであろう『稲垣』の文字と、その横に追加で書かれたであろう『藤野』の文字があった。ここだ。この家にアキがいる。そう思ったら急に緊張してきた。思えば会うのは一年前に親水公園でテニスをして以来だ。それまでは毎日のように会っていたのに、改めて会うとなるとそれなりに心の準備ってのがいる。

 俺にテニスを教えてくれたアキ。俺とペアを組んでくれたアキ。今でも俺にとってかけがえのない存在であり、目標だ。アイツ、今なにしてんだろう……って、なんか元カノに会いに来たような気分だな。でも今日は再会を楽しみに来たんじゃない。へこたれているアキのケツを叩きに来たんだ。心を鬼にしろ、瀬尾春人。

 意を決して表札の下にあるインターホンを押した。

 ピンポーン。

「……はーい」

 数秒して聞こえてきたのは聞き馴染みのある女の人の声だった。

「あ、あの……お久しぶりです。アキと同じ中学だった瀬尾春人です」

「えっ……ハルちゃん? ハルちゃんなの?」

 ハルちゃんか。懐かしいな、そう呼ばれるの。

「そうです! ハルです! お久しぶりです」

「ちょっと待っててね。今行くから」

 ドッドッドッドッ、と玄関を走る足音が響いてきて、ガチャっと扉が開いた。そこには久しぶりに見るアキの母ちゃんがいて、驚きながらも優しい笑顔で出迎えてくれた。

「ハルちゃん! よく来てくれたわね」

 アキの母ちゃんは誰が見ても美人だと思う。すらっと細長くて肌も白い。うちの母ちゃんとは大違いだ。でも少し老けたように見える。ここ最近はいろいろあったからな。

「ご無沙汰してます」

 ペコりとお辞儀をした。

「お母さんから来るとは聞いていたけど、まさか本当に来るとは思ってなかったわ」

 母ちゃん、言っておいてくれたのか。

「びっくりさせてしまってすいません。でも居ても立ってもいられなくて。……それで、アキは?」

 アキの母ちゃんは困ったという表情を浮かべて俺に言う。

「ゴメンね。今うちにいないのよ。朝からどこかへ行ってしまっていて。ここのところはいつもそうなの」

 申し訳なさそうに俯く。

「昨日の夜、お母さんからハルちゃんが来るって電話をもらったから千秋にもそのこと言ったの。明日は家にいなさいって。でも今朝起きてみたらもう千秋の姿はなくて……。ごめんなさい」

 アキのヤロウ、俺に会いたくないっていうのか。なんだよそれ! なんかムカついてきた。上等だ。探し出してでもお前のケツ、引っ叩いてやる。

「アキの母ちゃんが謝ることないですよ。大丈夫です。俺、探してきます」

「あっ、待って!」

 走って行こうとしたところを呼び止められた。

「あの子、外へ行く時はいつも手ぶらなの。だから電車に乗ってどこかへ行っていることはないと思うわ。探すならこの街の中がいいと思う」

「分かりました」

「ハルちゃん!」

 もう一度呼び止められた。

「あの子のために、ありがとう!」

 アキの母ちゃんは声をかすらせながら俺に向かって頭を下げた。アキのこと、大事に思っているんだな。俺は鼻の下をこすってから答えた。

「はい! 親友ですから!」

 頭を上げたアキの母ちゃんに俺は精いっぱい笑ってみせた。自分じゃどんな顔をしてるのか分からなかったけど、アキの母ちゃんが笑ってくれたから上手く笑えていたんだと思う。

 俺は踵を返してアキの家を後にした。

 勢いよく飛び出してきたはいいけど、知らない土地、知らない街で、一体どこを探したらいいんだ? アキの母ちゃんはこの街のどこかにはいるって言ってたけど、考えてみたらこの街って結構広くね?

 スマホの時計を見る。時刻はまだ午前九時手前。時間はたっぷりあるんだ。じっくり探していくとするか。

 ひとまずアキの家の周辺をぐるっと回ってみる。当たり前だけどいるわけがなかった。

 もし俺の予想通りアキが俺に会いたくないっていうなら、少し遠いところへ行っているのかもしれない。それも駅とは反対方向の。……うん、そうに違いない。何年間お前と一緒にいたと思ってるんだ。お前のことなら俺が一番よく分かってる。なめんなよ。絶対見つけ出してやるからな!

 それにしてもこの街の風景はうちの周りとよく似ている。ちょっと古臭い家が並んでいて、自然も多くて空気がおいしい。スー、ハー。なんだかうちの近所にいる気分になってきて、だんだん気持ちが落ち着いてきた。

 冷静になってきたら、昔アキと試合の帰りにいつも近所の河原へ行っていたことを思い出した。なにをするわけでもなく、ただ二人で土手に座ってテニスについて語り合ったっけ。

『センターにサーブを打ったら前衛はポーチに出たいよな』

『この間のウェルバーの試合見た? やばかったよな、あのポール回し』

『今日の試合、全然ボレー決まらなかったなぁ』

 アキと話したことはどれもハッキリと覚えている。俺はアキとの会話が楽しくて仕方なかった。大好きなテニスについて語れる友がいて、その友は俺の情熱をいつも全身で受け止めてくれた。アキは俺のことよく見ていてくれて、試合でも練習でもいいプレーをする度に褒めてくれた。俺はそれが嬉しくて、もっと上手くなりたい、明日もがんばろう、って思えたんだ。

 最後の全中予選が始まる前日、『全国行こうな』ってアキに言われた時のことは特に鮮明に覚えている。そう言ったアキの顔は正面に沈んでいく夕日に染められて真っ赤になっていた。俺は『うん』って頷いたんだ。叶わない夢になっちまったけどな。

 そういえば、と思って再びバッグからハガキを取り出した。ここに写っている川、アキとよく行っていたあの川に似ている気がする。……ここだ。アキはここにいる! もし、まだアイツの心の中の火が消えていないのなら、テニスを完全に諦めていないのなら、俺たちが語り合った場所と似ているこの川にいるかもしれない。きっとそうだ。そうに決まってる! そうと決まれば――

「すいません!」

 通りすがりのおじさんを呼び止める。

「なんじゃ?」

「この近くに川ってありますか?」

「川か? あるけんあるけん。向こうの方に釣川っちゅう川がありよるとよ。ちょっと遠いけん――」

「ありがとうおじさん!」

 指された方向へ向かって俺は一目散に走り出した。一分でも一秒でも早くアキの元へ行くために。

 ずれ落ちてくるバッグのひもを肩にかけ直す。

 バッグにあまり荷物を入れてこなかったことが吉と出た。軽くて走りやすい。それでもさすがに途中で疲れたから、十分くらい走ったところで一旦走るのをやめた。先がどれくらいあるのか分からないのに最初から全力疾走はきつい。でも気持ちだけは前に前に行ってしまうから結局また走り出す。

「早くしろよぉ!」とバットにグローブを挿した少年たちが楽しそうに走っていくのとすれ違う。小学生くらいだろうか。これから遊びに行くみたいだ。

 住宅街を一歩外へ出るとそこは一面田んぼだらけで一気に視界が開けた。誰もいない田んぼ道をひたすら突き進む。

 更に十分くらい走ったところでザーザーと水の流れる音が聞こえてきた。音の方へ近づいていくと川にかかる橋の上に出た。

 やっと着いたぁ。走りっぱなしで体はへとへと。欄干に寄りかかって必死で肺に空気を送り込む。自然と見上げていた空にはゆっくりと飛行を続けている雲がいくつもあった。

 はぁ、と最後の呼吸を整えて視線を川の方へ戻すと、分かりやすいまでに土手にポツンと座り込んでいる人影が一つ見えた。

 ――見つけた。

 アキは近づく俺の存在には全く気づいていない様子でずっと水面を眺めている。その背中は今まで見たこともないくらい小さく感じた。これがずっと目標にしてきたアキの姿だとは思えなかった。正直、こんな形では再会したくなかった。見るからに弱気なオーラを放っているアキとは話したくなかったけど、仕方ない。俺はコイツと会うために、コイツと話をするためにここまで来たんだから。

「アキ」

 バッと勢いよく振り返る。目が合って俺だと分かった途端立ち上がり、幽霊でも見たかのような表情を浮かべる。

「ハル……」

 アキの声だとは思えないくらい弱々しくてか細かった。風貌も以前よりどことなくやつれて見える。あのやる気に満ちた、俺を引っ張ってくれた頃のお前はどこに行っちまったんだよ? 本当に変わっちまったのか?

「こんなところでなにやってんだよ?」

 俺が問いかけてもアキは無言のままなにも答えない。

「練習は? 試合は? ないなら自主練するのが日課だっただろ」

「……」

「油売ってる暇なんて全国行くにはねぇぞ」

 そうだ。俺たちは全国で会おうって〝約束〟したんだ。そうだよな、アキ?

 それでもアキは黙ったままだ。

「なにずっと黙ってんだよ。なんか言えよ」

 アキは一度口を開きかけて、また閉じた。それから意を決したのか、うん、と頷いてから再び口を開いた。

「……ハル、俺テニスやめ――」

「ちげぇだろ! 『ゴメン、練習に戻る』だろ! なに勝手にやめようとしてんだよ!」

 アキの口から「やめる」なんて言葉は聞きたくなかったから思わず怒鳴ってかき消してしまった。

「……お前には関係ないだろ」

 関係ない? なんだよそれ。それが今まで一緒にがんばってきたヤツに言う言葉かよ。ふざけんなよ!

「関係ないわけねぇだろ! ずっと一緒にやってきた仲間じゃねぇかよ!」

「……だよ」

「……?」

「お前になにが分かるっていうんだよ! 俺の気持ちも知らないくせに、分かったような口きくな!」

 アキに怒鳴られて俺は少し動揺した。アキが俺に向かって声を荒げることなんて今まで一度もなかったから。

 後ろの道路を車がビュンビュンと通り過ぎていく。

「ゴメン」

 そう言ってアキはまた俯いた。

「いや、俺も悪かったよ。来ていきなり怒鳴り散らすなんて」

 一度冷静になろう。今のアキを変えられるとしたら、それは俺しかいないんだから。

「なぁアキ。〝約束〟、忘れちまったのか?」

 俯きながらもアキは首を横に振った。

「じゃあ今はほんの少し休んでるだけなんだよな?」

 頼む。頼むから、うんって言ってくれよ。今は休憩してるだけなんだって。少し休んだらまた練習に戻るって。

 でも俺の希望とは裏腹にアキは首をすんとも動かさなかった。

「なぁ、なにがあったんだよ、アキ。お前がテニスをやめるとまで言い出すなんて。あんなに好きだったじゃないか。一生懸命練習したじゃないか。なぁ、なにがあったのか話してくれよ、俺に」

 アキは戸惑いがちに一度視線を上げ、また俯いた。俺が「ほら」と優しく促すとアキはおもむろに話し始めた。

「俺、ここでやっていける気がしねぇよ。先輩も同期も上手いヤツらばっかりでさ。最初は嬉しかったんだ。こんなすげぇヤツらと毎日練習できるなんて、って思ったよ」

 アキはその頃の気持ちを鮮明に表現するように、楽しそうに青空を見上げながら話していた。でも次第にその表情は曇っていく。

「でもいくら時間が過ぎてもソイツらとの差は縮まらない。もちろん努力はしたさ。人一倍も、いや二倍も三倍もした。今までそうしてきたようにね。それでも差は縮まらなかった。縮まるどころか広がっているようにさえ感じるんだ。才能の違いってやつなのかな」

 俺からすればアキだって十分才能はある。羨ましいくらいにね。だからなに言ってんだよって最初は思った。そんな理由で落ち込むなんてアキらしくない。中学の時だって散々試合に負けたけど、その度にアキは「次こそは」って息巻いてた。俺もそれに感化されて、もっと強くなりたい、次は勝ちたい、って思えたんだ。

 互いに視線を落として川の流れを見つめる。上流から一輪の花が流れてきてどんどん下流へ流されていく。アキはその花が見えなくなるまで眺めていた。

「加えて私学大会のレギュラーにも選ばれなかった。3年生が抜けて、補欠くらいには入れるんじゃないかって淡い期待も抱いていたけど、やっぱりダメだった。挫折っていうのかな、こういうの。初めて自分に絶望したよ」

 強がっているのかアキは自分自身を嘲笑った。ホントは泣きたいくらい悔しいくせに。俺には分かる。

「そんなの挫折じゃない」

「え?」

 アキは顔を上げた。

「そんなの挫折なんかじゃない。ただの言い訳だよ」

 アキの話を聞いてたら、なぜだか無性に俺が悔しくなってきた。アキの実力はこんなもんじゃない。俺が一番知っている。

「今までだって俺たちは散々負けてきたじゃないか。最初は弱かったけど、負ける度に近所の河原に行っては反省会して、『次は勝ちてぇなぁ!』って叫んだりしてさ。そんな俺たちがいつしか『アキハルペアだ』なんて指差されるようにまでなったんだぜ」

 懐かしい記憶だ。試合で負けた日は絶対に近所の河原に行って反省会して、でも最後は結局じっとしていられなくて悔しさを石に乗せて川へ放ってたっけな。

「ここ、よく来るのか?」

 あぁ、とアキは答えた。

「そっか」

 大きく深呼吸して新鮮な空気を肺に取り込む。あの川の空気よりもおいしく感じた。

「前にアキが送ってくれたハガキを見て思ったんだ」

 バッグから取り出して目の前に差し出す。

「アキは絶対ここにいるって。来てみて確信したよ。ここ、あの川と似てるもんな」

 うん、とアキは頷いた。

「本当はまだ諦めたくないんだろ? その気持ちが自然とここへ向かわせたんじゃないのか?」

 それには答えてくれなかった。

「そりゃ福岡泰山は全国でも屈指の強豪校だし、この前のインハイでも個人戦のダブルスで優勝しちゃうくらいだから、バケモノみたいに強いヤツらが集まってるのは知ってるよ。でも、そこで諦めるのはやっぱり違う。アキらしくないよ」

 俺がそう言うとアキは俺から視線を外して遠く街の方を眺めた。

「俺も最初はそう思ってたさ」

 でもアキが街の風景を見ているわけじゃないことはすぐに分かった。

「諦めたくないって。これまでだってハル、お前と一緒に困難を乗り越えてきた。何度も何度も。だから今回もきっと乗り越えられる、そう思ってた」

 山の方から風がなびいてくる。生い茂る草や俺たちの髪の毛を揺らして田んぼの方へと抜けていった。

「でも今までとは気持ちが違うんだ。昔はくじけそうになったら隣を見ればハルがいた。落ち込んで帰ったら……父さんが励ましてくれた。父さんは俺のことよく見てくれていて、つらい時はいつも優しく声をかけてくれた。ハル、お前もだよ。お前も俺を励まし続けてくれた。俺の隣で。ハルのテニスに対する前向きな姿勢を見ていたら、俺もがんばらなきゃなっていつも思わされてたよ」

 アキは俺の前ではいつも強かった。でも、そんなアキでもくじけそうになる時があったなんて。俺、全然気づかなかった。いつも、いつでも一緒にいたっていうのに。ペアだったっていうのに。

「でも今は父さんはいない。隣を見てもハルはいない。……一人なんだ。誰も俺を励ましてはくれない。どうすればいいか分からないんだ」

 そうか。親父さんが亡くなって、見ず知らずの土地に連れてこられて、友達も誰もいない。アキは今一人なんだ。一人でもがいて、苦しんでいたんだ。……どうにかしたい。どうにかしてアキを救ってあげたい。不意に湧き上がってきたこの気持ちを上手く伝える術はないだろうか。

「じゃあどうして俺に相談の一つもしてくれなかったんだよ。小学校から一緒にテニスをやってきて、小中合わせて四年間もペアを組んできて、全国で会おうっていう〝約束〟までした仲じゃねぇか。それとも俺に相談なんかしても意味ないって思ってたのか? アキの中で俺はその程度の存在だったのか?」

「違う! それは違う!」

 アキは俺の目を見て必死に否定した。

「ハルは今でも俺の中でとても大きい存在だよ。だからこそ言えなかった。ハルはきっと俺との〝約束〟のために必死になって練習している。だから俺なんかの問題で迷惑かけたくなかったんだ」

「ふざけんな!」

 俺なんかの問題? 迷惑かけたくなかった? アキは全然俺のこと分かってない!

「お前の相談が迷惑になることなんてあるわけないだろ。むしろ相談もなしにお前がテニスをやめちまうことの方が俺にとってはつらいんだ。お前がつらい時は俺も一緒になってつらい思いをしたいんだ」

「……ゴメン」

 今のアキの姿を見ていると一年前の俺の姿が重なって仕方ない。アキが九州へ行ってしまって、俺はテニスを続ける意味を一度見失ってしまった。でもアキがもう一度俺をテニスの道へ引き戻してくれた。あの時アキは……

「なぁ、アキ。久々に試合しないか?」

「え?」

 再び風が吹いた。伸びた前髪がアキを隠すように乱れるけど、俺の目はハッキリとアキの姿を捉えていた。

 あの時、アキは誰のためでもない、俺のためにテニスをしてくれた。一番つらかったのはアキだったはずなのに、そんなそぶりなんて一切見せずに、ただ俺のためにボールを打ってくれた。それで俺がどれだけ救われたことか。だから今度は俺がアキを救う番だ!

「試合しよう。俺たちにはその方がいいと思うんだ。話すことも大事だけど、それよりもボールを打ち合った方が気持ちが伝わる気がする。俺たちはテニスでつながってんだから」

 実はここに来る途中に一面だけ、ひっそりとたたずんでいるテニスコートを見つけた。落ち葉も多くてネットも切れているところがあったりと、長い間誰にも使われていないんだろうと思わせるコートだった。でも「俺はまだ生きてるぞ」って訴えかけてくる魂みたいなものを感じたんだ。今考えたらなんかアキに似ていると思う。今のアキからはそういう覇気みたいなものは感じないけど、きっと、いや絶対、心の奥にある魂は死んでいないはず。だから俺がもう一度、その消えかけの魂に火を点けてやるんだ。

「じゃあコートで待ってるからな!  準備して早く来いよ!」

 アキの返事も待たずに俺は駆け出した。なんか俺が楽しみになってきちゃって。だってまたアキと打てるだから。

 アキは来る。絶対来る。だから俺は待つ。

 来た道を戻るようにして田んぼ道を走っていく。風が気持ちよかった。



 一時間もしないうちにキキーとコートの扉が開いた。そこにはテニスウェアに身を包み、ラケットを一本手にしたアキが立っていた。一年前となにも変わらない姿で俺は嬉しかった。

「遅ぇぞ、アキ!」

 俺は嬉しい気持ちをそのまま声に出した。でもアキの反応は「ゴメン」ととても小さなものだった。前だったら「わりぃ、ハル!」と言って走ってきてくれたんだけどな。寂しいけど、その現実は受け入れる。だからさ、アキ。もう少しだけ待っててくれよ。俺が今、お前を救い出してやるから。お前を変えてみせるから。

 アップを終えてネット越しに対峙する。

「お願いします!」

「……お願いします」

 振り返ってデュースサイド(自陣の右半分にあたるサイド。反対はアドサイド)の隅の方まで歩いていき、リターンの位置でラケットを構える。

 アキのサーブで試合が始まった。惚れ惚れするほどしなやかなサーブフォーム。アキとはずっと一緒にいたっていうのに、俺はアキがサーブを打つところを指で数えるくらいしか見たことがない。ダブルスを組んでいるとペアがサーブするところは見ないものだ。アキのサーブを受けるのが新鮮だと感じるくらい、俺はコイツとペアを組んでいたんだな。改めてペアを組んでいた四年という月日が長く感じた。

 ただそのしなやかなフォームから繰り出されたボールは信じられないくらい軽かった。サーブだけじゃなくストロークも軽い。一年前、親水公園で最後に試合した時はもっと重かった。あの時はアキがテニスを、試合を、心底楽しんでいることがボールの重さを通して感じることができた。俺も一球一球が楽しくて仕方なかった。もっともっとアキとテニスをしていたいっていう気持ちを思いっきりボールにぶつけても、アキは俺の想いを全て受け止めてくれた。

 でも今は違う。アキは迷っているんだ。自分でもどうすればいいか分からないって言ってたし、なによりボールの軽さがそれを証明している。迷いなんてなかったら気持ちが乗ってボールはもっと重くなるはずだ。一年前の時のように。

 アキが練習していないことはボールを通して分かった。ラリーも俺のペースに着いてこられていない。俺が気持ちを込めて放ったショットは虚しくもウィナーになってしまいアキには届かない。ポイントを取っているのは俺の方なのに、ただただ寂しいだけだった。

 マッチポイントを決めるとアキはベースライン上で崩れ落ちた。アキのそんな姿は見たこともなかったし、見たくもなかった。

 俺はネットを跨いで近づいていく。

「アキ……」

「ハハ。まさかハルに負ける日が来るとはな」

 下を向いたまま、渇いた声だった。

 アキの言う通り、俺は今までアキに勝ったことがなかった。ただの一度もだ。いつかは勝ってやるって意気込んでいたけど、今日は全然嬉しくない。今のアキは本当のアキじゃないから。そんなアキに勝っても、嬉しくもなんともない。

 アキは地面に手をついたままクレーコートの土をグッと握っている。汗なのか涙なのかは分からないけど、頬から滴り落ちる水滴がコートを濡らしていく。

「アキ」と俺は語りかけた。別に返事はなくてもいい。ただ聞いてほしいことがあるんだ。

「俺たちがした〝もう一つの約束〟、覚えているか?」

 俺たちはあの日、二つの〝約束〟をした。一つは全国で会うこと。そしてもう一つは――

「〝お互い最高のペアを見つけること〟。俺さ、ソイツを見つけたよ」

 アキは依然下を向いたままだ。でも俺の話を聞いてくれていることは分かった。

「ソイツ、瞬っていうんだ。テニス始めたの高校からなんだけどさ、みるみるうちに上手くなっていくんだよ。向上心もすげぇあって、『どうしたら上手くなれるかな?』って毎日俺に聞いてくるんだぜ。先輩たちもアイツはすごいって一目置いてる。でも俺が気に入ったのはそこじゃないんだ」

 そう。そこじゃない。

「アキ、以前俺に『テニスを楽しむ気持ちだけは、絶対に忘れるなよ』って言ってくれたの覚えているか? 俺、すっかり忘れててさ。アキと会うために全国へ行くんだ、って勝つことしか考えてなかった。でもそんな時、瞬と出会ったんだ。瞬のヤツ、いいショットが一本出ただけでめっちゃ喜んだり、ミスしたら頭を抱えて全力で悔しがるんだぜ。笑っちまうだろ。だけど俺はそこが気に入ったんだ。アイツは俺が忘れていた『テニスを楽しむ気持ち』っていう一番大事なものを持っていた。アイツを見ていると不思議とこっちまで楽しくなってくるんだ」

 こうやって話している時でも、頭の中には毎日楽しそうにプレーする瞬の姿が浮かんできて俺の心を弾ませる。

「アイツを見てると俺もがんばらなきゃなって気持ちになるんだ。まだ先になるだろうけど、俺はアイツとペアを組むよ。瞬はきっと俺のいいパートナーになる」

 言ったからにはもっとビシビシ鍛えないといけないな。帰ったら覚悟しておけよ、瞬。

「アキ、お前はどうだ? お前の周りにもきっといるはずだぜ。ましてや超強豪校にいるんだ。お前と合うヤツは必ずいるに決まってるさ」

 励ますように言ったつもりだったけどアキはすんとも動かない。顔さえも上げてくれない。

「……迷ってるんだよな? さっきも『どうすればいいか分からない』って言ってたし、ボールからも伝わってきた」

 今の俺にできること。それは正直に気持ちをぶつけることだ。うん、それしかない。そうしよう。俺たちの間に嘘はなしだ。

「ならさ、俺のためにテニスやってくれよ。〝約束〟のためとか、親のためとか、今はそんなのどうだっていい。ただ俺のためにテニス続けてくれよ。それじゃダメか?」

 やっとアキが顔を上げてくれた。汗で顔が覆われていて、目が少し赤かった。

 俺の気持ちが届いたのか? いや、今はそんなことどうだっていい。俺の気持ちをありったけアキにぶつけてやるんだ。どうなるかは分からないけど、今の俺にはそれしかできないんだから。

「俺は単純だからさ、アキもがんばってるって分かればそれだけでがんばれるんだ。別に〝約束〟なんて二の次でいいじゃねぇか。俺はアキがテニスを続けてくれることの方が嬉しいんだ。だからお前がテニスをやめるのには大大大反対! 絶対、ぜーったい嫌だからな!」

 そう言って俺は右手を差し出した。腕を流れる汗が太陽の光を反射させながら手首から滴り落ちる。アキも右手で俺の手を取ろうとする――けど、一瞬躊躇した。でも俺はアキが差し出してくれたその手を逃がすことなく掴んだ。びっくりしたのかアキは俺の方を見た。俺は笑った。アキも笑った。

 それからアキは立ち上がった。



 帰りのバスでも寝苦しい夜を過ごすのかと思ったけど、意外と疲れていたみたいで出発したらすぐに眠りに落ちていた。次に気づいた時には名古屋のサービスエリアにいた。まだ夜が明けていない薄暗闇の中、寝ぼけながらも用を足して再びバスに戻る。そこからはなんか眠れなくて、ずっと窓の外の景色をボーっと眺めていた。次第に空が明るくなり始めて、後ろから太陽に照らされた富士山の稜線がくっきりと見えた。

 東京に着いたのは月曜の朝七時だった。眠かったけど急いで家に帰って学校の支度をした。帰る途中で電車に乗った時は寝過ごすかと思うくらい強烈な睡魔が襲ってきたけど、気力でなんとか振りきった。

「ただいま」

「おかえり。ご飯できてるから食べちゃいなさい」

 家では両親が朝食を食べていた。めっちゃ腹減ってたからすぐに飯にありつけるのはありがたかった。父ちゃんがコーヒーを飲みながら「アキくん、元気だったか?」って聞いてきたから、「うん、元気だったよ!」って答えた。

 学校には少し早く行って監督とキャプテンに謝りに行った。二人とも俺の話は聞いてくれたけどやっぱり怒られた。特に監督からはいつもみたいに怒鳴られるじゃなくて、淡々と俺が犯した罪について詰め寄られる感じだったから逆に怖かった。キャプテンからは昨日の試合で負けたことが知らされた。やっぱり俺のせいだよな。

 あと罰として一ヶ月の走り込みが課された。これはきつい、って思ったけど仕方ない。みんなに迷惑かけたんだからこれくらいの罰は当たり前だ。でも後悔はしていない。それだけは言える。

 みんなには練習が始まる前に謝った。それから心配してメールをくれた優里にも。優里は「無事でよかった」って言って笑ってくれた。我ながらいい彼女に恵まれたと思う。

 早速罰のランニングに行こうとしたら誰かが俺のことを呼んだ。

「ハル!」

「おう、瞬!」

「おう、じゃねぇよ。いきなり休むから心配したじゃん」

 ここにも一人、俺を心配してくれていたヤツがいた。

「悪かったよ」

 瞬の表情は固い。そんな顔したら怖いって。

「でも俺、分かったことがあるんだ」

 なに? と瞬は尋ねる。

「俺、やっぱりテニスが好きみたい」

 ん? と首を傾げられた。そりゃそうだよな。いきなりそんなこと言われたら反応に困るよな。おかしくて笑っちまった。

「俺も好きだよ、テニス」

 え? 最初はただのオウム返しかと思ったけど、そんなテキトーな目じゃなかった。心底思っているヤツの目だ。やっぱりコイツ、おもしろいや。

「瞬」

 なに? とまた首を傾げる。

「がんばろうな」

「うん!」

 いい返事だ。やっぱり俺はコイツとペアを組みたい。

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