錫の心臓で息をする

第一章

第1話

 

【01】プロローグ




 いつだってそうだった。


 廃棄された暗い坑道の中、テオは湿気で張り付いた髪を乱暴にかき上げた。

 地下水で濡れた凹凸の壁を、折れた梁にかけられた揺れるランタンの灯りが照らしている。

 波に揺られるようにそよぐ光が、テオと相対する不気味な相手の輪郭を、より立体的に浮き立たせていた。

 

 開ききった眼孔から溶け出た目玉。大きく裂けた口から垂れ下がる舌。皮膚が破けて覗ける隙間の空いた肋骨。左肩を歪に突き上げるように傾いて固まった背中。肉が削げ文字通り骨の浮いた足は、それでどうして歩を進められるのか。

 恐ろしい異形の姿は、それと向き合うテオの脳裏に寒々しい神秘というものを考えさせた。


 死してなお、生者へ牙を剥くアンデッド。

 その中でも下位に位置づけられるグールは、正しく弔われなかった死体が命を妬み、自らが亡くしたそれを奪い返そうと徘徊を始めたものだと言われている。

 四肢が腐り落ちてなお彷徨う姿は、目にするだけで命あるものの恐怖を誘うだろう。


「……は、……っは、ふう……」


 反響するテオの荒い吐息に導かれるように、腐臭を撒き散らすグールが近づく。


 テオはその芋虫のように遅い足取りを待ちながら、自らの手に握られた獲物を今一度確認した。狭い坑道のため外に置いてきた普段の獲物と比較し、幾分も頼りなく感じる手の中のナイフ。それでも肘から手首ほどの刃渡りがあるその凶器の柄を、手の中から滑り落ちないよう握り直す。


 不用意に口を開けばおかしく高鳴った心臓の鼓動が、その喉からでも漏れ出てしまいそうだと、テオは歯噛みした。

 

 ゆらゆらと右に左に上半身を揺れ動かすグールは、なおも鼻の曲がるような臭いを惜しみもなく振り撒きながら、よたよたとした足取りでテオに近付いている。

 時折足元に垂れ落ちる汚泥ともつかない体液は、いつ尽きるのだろうか。


 唾液とともに、テオは息を飲み込んだ。あと五歩も進めば、互いの手がその首へと届くだろう。

 自らの呼吸が荒くなっていくのを感じながら、テオは目の前の敵に集中した。命が晒される瞬間はいつも、テオの心臓に不必要なまでの高鳴りを強い、肺に軋みをあげさせる。


「ガ、アァアア!!」


 突如としてグールの口から咆哮が上がった。グールはそれまでの杖をつく老人のような足取りが嘘のように、肩より僅かに高く上げた腕を振り下ろしながら一足飛びに目前の生者目掛けて襲いかかった。


 唐突なその突撃を、テオは左足を軸に半身を引くことで避ける。飛びついた勢いのままにふらついたグールの曲がった背中を、テオの右足が靴底で踏みつけるように蹴とばした。

 骨の飛び出た足では踏ん張りがきかず、衝撃を殺し切れないまま、グールはその場に倒れ込んだ。


「…………ふっ……」


 吐き出した短い吐息とともに、テオは手にしていた大振りのナイフを、倒れこんだグールの無防備になった首へと振り下ろした。腐った肉を突き抜けて、首の裏を通った背骨を断ち切った感触が手に伝わる。


 命の尽きた後も動き続けるグールだが、こうして首の骨を断ち切ってしまうとその体の一切を動かせなくなり、停止する。

 動かなくなった体は他の死体にもれず、長い時間がたてばやがて肉は腐り落ち、残った骨も風化して砂となる。


 もしここに聖職者がいれば、弔いの句を捧げることで本来長い年月が必要な風化も、瞬きの間に終わらせることが可能だった。もしくは炎の使い手がいれば、腐ることを待たずにその肉体を灰にすることも出来ただろう。


「……悪い」


 俯き、今度こそ動かなくなった死体にテオは呟く。

 聖者の弔いも、炎による見送りも。

 信仰を飲み込めず、才に恵まれることもなかったテオには、できようのないことだった。


 ただ朽ちるまでの間、これ以上の苦痛を振りまかないように横たえさせることがテオにできる精一杯の見送りだった。


 蹴り飛ばしたことでうつ伏せになった体を裏返す。投げ出された手足を揃え、見開かれたままの瞼を手のひらで下ろした。腐敗さえなければ、ただ眠っているように見えるのかもしれない。


 テオは戦闘前に壁に吊るしたランタンを、緩慢な動きで回収した。決して難しい戦いではなかったはずなのに、痛みを感じるほどに高鳴っていた心臓が落ち着いていく様子を感じる。重たい足取りでテオは先を目指した。


 先程転がしたグールが、揺れ動くランタンの灯りから暗がりへと置いて行かれる。明日になれば正しく見送れる者が来る。

 そうすれば、あの死体は跡形もなくなり、ここにあったことは多くの人の目に触れることすらなくなる。


 鼻の曲がるような臭いが消えない。テオができたことは、動く死体を動かない死体にしただけだった。テオは自分の手が救いではないことを知っていたし、それ以上を望むこともなかった。


 いつだって中途半端だった。成し遂げることなどできはしなのに、伸ばした腕は引っ込みもつかない。


 ぎしりと奥歯を噛み締める音が、一人歩くテオの足音に掻き消される。俯いた男が一人、暗がりの奥へと歩みを進めた。




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