第5章 退避

第37話 繋がりは古へ

 風雷へと帰還した麻依たちは、意識を失った加奈をラボの診察台へ寝かせた。


 事前に待機していた佑香が呪粒子を含んだ薬剤を輸液させていく。


 修司と朧は加奈が処置を受け始めた所を見送り、話し合いの為に風雷の談話室へ移動した。


 麻依はラボの外でじっと待ち、少しでも早く加奈の処置が終わることを願っていた。


 ラボのドアが開いた時、加奈の処置を行った佑香が現れ、少しだけ笑みを浮かべた。


「これで大丈夫よ。相当な量の呪粒子を失っているから、しばらくは動けないわね」

佑香の言葉を聞き、麻依は安堵の表情を見せた。


「良かったです。あの時加奈さんがいなかったら、状況は一層ひどくなっていたかもしれません」


 佑香は診察台の隣に車輪付きの医療用ベッドを置き、麻依と一緒に加奈をそれを移動させた。

麻依はサイバーアーツを使えない現実世界の中で、ここまで加奈の身体が軽いという感覚を知ったのは初めてだった。それはまるで、薪として使われた木材が一瞬にして灰になったかのような落差だった。


「麻依ちゃん。加奈が起きるまで傍にいてあげて頂戴」


「——いいんですか?」


 佑香はただ頷いた。


 それを見た麻依は、大切なパートナーを看られることが有難かった。現実世界と現想界の混乱の最中で仕事が立て込む可能性もあったが、それは杞憂に終わるかもしれない。なぜなら、他の研究所に所属する守護士によってカバーできると佑香は説明したためだ。


「電妖体の処理は連携している他の守護士にお願いするわ。もし加奈が起きたら、すぐにでもここを飛び出すかもしれない」


「加奈さんが? どうして……?」


 佑香の意図が不明だと麻依は問うが、問われた彼女は視線を手首に巻いた腕時計に向けていた。


「ごめんなさい、すぐに修司さんたちと話さないと。一緒にここにいてあげて」


 佑香が早足でラボを去るのを見送った麻依は、ベッドの近くにあった椅子に座り、力尽きている加奈の姿を見つめた。両腕にカテーテルを繋がれていることから、体内は深刻な呪粒子の欠乏に陥っているのだと推測できる。


 麻依の視点から見える加奈は、疲れ果てて眠る子どものように動かず、ただ一定の呼吸を繰り返しているだけだった。


 現実世界に招かれざる混乱が生じようとしている最中、何もできないもどかしさが麻依の心中にはあった 麻依は両手で加奈の片手を包み込んだ。与えられた役割を果たすこと以外の選択肢はなかった。


 加奈の体温が手を通じて麻依の中に入り込む。小さくて弱弱しい太陽を持っているかのようだ。


 少しでも早く、加奈の意識が戻ってほしい、彼女を愛する麻依はそれだけを願っていた。


   ▽


 佑香が談話室に入ると修司と朧は話し込んでいた。彼女が推測しなくとも、酒呑童子の再来が焦点となっていることは容易に見て取れる。


「お待たせしました」


 佑香が声をかけた途端に二人の会話は止まり、彼女の方へ顔を向けた。


「お疲れの所申し訳ないね」


 修司は疲弊している様子で、表情に笑顔はなかった。


 佑香が二人にかけるように促し、自らも反対側のソファに座った。


「酒呑童子の状況はどうなっていますか?」


 少しの沈黙が流れた後、朧が口を開いた。


「良い方向にはたらいているとは言えません。周知のとおりですが、彼女は協会の中枢システムを掌握しました。容易には取り戻せません」


「酒呑童子の狙いは守護士協会の兄弟で間違いない。因縁もあるからね」


「現想界と電妖体が出現したこの十数年の間に、守護士と電妖体は絶えず戦いを続けていましたが、ここまで早く大規模な侵略を進めたのは想定外でした」


「佑香さん、高々十数年という短い期間ではないよ。人々が現想界を認知する前——ここ数百年単位の話さ」


 修司の発言に佑香は首を傾げた。


「数百年? 歴史的に言えば、まだ電妖体の出現など始まってもいないはずです」


 佑香の疑問を覆すように朧が「いいえ」と反応した。


「人工知能の発達以前、もっと言えば今の技術が発展する前から電妖体は存在していました」


「では、現想界も遠い昔から存在していたというのですか?」


「それは違う。現在の定義で考えられている現想界は幻覚を見るような極めて強力な領域のみを指していた。でも、実際の現想界と現実世界はとても曖昧なものだ」


 修司の説明を聞いた佑香は、すぐには考えを改められなかった。彼女の所属する学会では、純度の低い空気の中で明確に幻覚が確認される領域を「現想界」と定義している。


「佑香さん。『電妖体』はなぜ『妖』という漢字が入っていると思いますか?」

 朧の問いかけは佑香にとって一般常識をなぞるような内容だった。


「どんな姿にも擬態する多様な特性、そして人々を脅かすだけでなく、逆に友好的になろうとする存在もいることから『妖』と形容するに相応しい存在だと、わたしは考えています」


「やはり、現実世界での模範解答だね。もう少し踏み込んだ答えを教えてあげよう」


 修司の顔つきが精悍になり、疲弊していた先ほどの表情を変えて告げた。


「電妖体という存在は昔から存在する『あやかし』そのものなのだよ――」


 佑香はほんの少しだけ、眉をひそめた。

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